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ボギーの食事は、程なくして終わった。その一部始終を楽しむように見ていたヘルムカ。反対に村人たちは、魔獣ヘルハウンドの恐ろしさを見せつけられ、すっかり声を失ってしまっている。
「さて、そろそろ怪しい男について思い出して来たのではないかな? それとも、このボギーに一軒一軒回らせて捜させようか?」
ヘルムカは恐怖にすくむ村人たちを、蛇のような眼でなめ回すようにしながら脅しをかけた。
村人たちは互いの顔を見合わせた。ヘルムカが脅しをかけているのは明白である。ボギーの獰猛さを見せつけ、その恐怖を刻み込んだのだ。逆らえば、今の年老いた山羊と同じ末路を辿ることになる。
一番、緊張の面持ちで固唾を呑んでいたのはルンだった。ヘルムカたちの追っている人物が、ルンとウィルが助けた男である可能性は高い。下手に隠しては、ルンたちにも罪が及ぶだろう。だが、母マーサは言うなという。いくら大ケガを負っているとはいえ、どうして悪人かも知れない男をかばわねばならないのか。
ルンは自分の心臓の鼓動が周りの者たちに聞こえてしまうのではないかと思うほど緊張しながら、村人たちの沈黙をひたすらに祈った。だが──
「私、見ました!」
一人の少女が手を挙げた。ルンも知っている宿屋の娘だ。確か、もうすぐ結婚するという話が持ち上がっていたはずであった。
その声にルンの身体はビクッと反応した。恐ろしくて、そちらの方を振り向けない。そんな娘の肩に、マーサは後ろから手をかけ、落ち着くよう促した。
「見ただと?」
ヘルムカは馬上から鋭い視線を宿屋の娘に向けた。ヘルハウンドのボギーもそれにならう。黒い魔犬の動きに、娘は一瞬、すくんだような様子を見せたが、もう後戻りは出来ないと思ったのか、思い切って口を開いた。
「み、見ました! 怪しい男の人を! この村では見たことのない人でした!」
「ほう、どこで?」
「ルンが荷車に乗せていて……。マントで腕は見えなかったけど、私、ひと目でゾクッとしたんです。何だか、怖い感じがしました」
娘が言っているのは、ウィルのことに違いなかった。ヘルムカたちが追ってきた男ではない。だが、その荷台には、あの隻腕の男がいたことも確かだ。村人たちの視線が一斉にルンに集まる。その様子を見て、ヘルムカは易々とルンを特定できた。
「お前か、ルンというのは?」
今にもヘルハウンドをけしかけられそうで、ルンは青ざめ、唇を震わせた。言葉が出てこない。
そんなルンをかばうように、マーサが後ろから抱き寄せた。
「あの人は、ただの旅人だよ! 大雨で難儀していたから、娘が荷車に乗せてきてやっただけじゃないか! 妙な言いがかりはよしてもらいたいね!」
マーサは村人たちの疑惑の目にもひるむことなく、威勢良く言い放った。普段から言いたいことをズバズバ言うマーサの性格は、村人の誰もが知るところである。彼女にまくし立てられると、口で敵う者はいない。
だが、村人たちを説得できても、一度、疑いを向けたヘルムカまで納得させることは出来なかった。冷徹な視線が突き刺さる。
「その旅人とやらが、捜している男であるか否か、それはこちらで確認する。女、家まで案内してもらおうか?」
ヘルムカの言葉に、さしものマーサも声を途切れさせた。家を捜索されれば、匿っている男は簡単に見つかってしまうだろう。そうなれば、すべては終わりだ。
ルンは泣きたくなった。こんなときに兄がいてくれれば……。
そのときだった。馬のいななきが夜気に響き、兵士たちの間からどよめきが起きる。皆の注目がそちらに逸れた。
見れば、包帯姿の男が軍馬を操り、後ろ脚で高く立ち上がったところだった。周りの兵士たちはそれにあわてふためき、避けるように包帯の男から離れる。
その姿を見て、ルンもマーサも驚いた。間違いない。それは彼女たちが手当てしたはずの男だった。その証拠にボギーに噛み砕かれたという左腕はない。
いつの間にルンの家を抜け出し、軍馬を奪い取ったのか。いや、それよりもあの大ケガで、ここまで動いていること自体、驚きであった。
男は兵士たちを遠ざけることに成功すると、馬首を巡らせ、テコムの村の出口へと逃走を始めた。一瞬の出来事に、兵士たちの対応が遅れる。
「や、ヤツです!」
「何をやっておるか! そんなことは分かっている! 早く追え! 絶対に逃がすな!」
ヘルムカは混乱する部下たちに命令を下した。そこはさすが、猛者と呼ばれたダクダバッド方面軍の兵たちである。すぐに隊列を組み直すと、逃げた男の追跡を開始した。
「ボギー、お前も行け!」
忠実なヘルハウンドにも指示が下された。ボギーは弾けるように疾走を始めると、軍馬にも勝りそうなスピードで逃亡者を追う。きっと追いつかれたら、ただではすまないだろう。
地鳴りのような音を立てながら去っていく軍隊を、村人たちは呆然と見送った。それを見て、一番、ホッとしたのはルンに違いなかった。男が村から出て行ってくれたお陰で、ルンたち母子が罪に問われることは避けられたのだから。
だが、安心するのはまだ早かった。
「悪いが、ちょっと協力してもらおうか?」
一人、追跡に加わらなかったヘルムカは、邪悪な笑みを浮かべながら、ルンの方へと近づいてきた。
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