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豪雨をもたらした雨雲は急速にテコムの村の上空から去っていき、今では煌々とした月が夜の追跡劇を照らし出していた。
右腕一本ながら、見事な手綱さばきを見せる男。まさに人馬一体といえた。それに対し、追いかける騎士たちは満足なスピードを上げることが出来ない。細い沢沿いの道である。一歩間違えると斜面から河原へ転がり落ちてしまう危険をはらんでいた。
双方の距離が確実に広がり始め、まんまと男が逃げおおせてしまうのではないかと思われた刹那、追跡する馬群の後方から、大きな黒い影が追いついてきた。ヘルムカが飼い慣らしているヘルハウンドのボギーだ。間隔の短い独特の荒い息づかいと、力強く土を蹴る爪の音が迫り、追う立場であるはずの人馬に緊張が走る。
ボギーは目の前の馬群が邪魔と判断したらしく、右手に切り立つ崖の斜面に進路を取り、斜めの態勢で味方の騎士団を追い抜いた。その眼に映るは手負いの獲物。一度は逃がした標的だ。
男は馬を走らせながら、後ろを振り返った。そして、ボギーの接近を知る。このままでは追いつかれてしまう。男はより体勢を低くし、馬の腹を蹴った。
男の乗る馬はさらにスピードを上げたが、それ以上にボギーの四肢の回転数は増した。恐るべきは魔犬ヘルハウンドの脚力である。獲物は目前だった。
「グワッ!」
唸り声と共に、ボギーは逃走する男めがけて跳躍した。その気配を察知する男。一瞬、男が上体をひねった方が早かった。
男は馬上から落ちるようにして、ボギーの攻撃を避けた。ぬかるんだ地面にダイビングし、そのままの勢いで体が三回転する。その上をボギーが飛び越えていった。山羊をも一撃で仕留めた鋭い牙が、空馬の首を捉える。それが疾走中だったからたまらない。二頭はもつれ合うようにして、沢下へと転落していった。
馬から飛び降りた男は、うまく受け身を取ったようで、すぐさま泥の中から起き上がった。だが、一難去って、また一難。ヘルムカの部下たちが追いついた。
先頭の騎士は男の退路を断つように先回りし、馬上で剣を抜いた。後続はそれにならい、逃亡者を取り囲むようにする。
隻腕の男は、右腕に剣を持ちながら活路を見いだそうと、せわしく目を動かした。だが、細い一本道で取り囲まれては逃げ場などあろうはずがない。その間に、四人の騎士が馬込みを縫うように現れ、さらに包囲の輪をせばめた。
「観念しろ。もう逃げられないぞ。無駄な抵抗はよすんだ」
馬上にいる一人が降服を促した。包囲している騎士たちは四十名以上。確かに、抵抗は愚かだといえた。
それでも男はあきらめという言葉を知らぬようだった。一瞬、剣を持った腕がだらりと下ろされるが、騎士たちがその動きに気を取られ、どうやら投降するようだと決めつけた刹那、男はおもむろに包囲の右端へと走った。
不意を打たれた騎士は、反応が遅れた。剣を構えたものの、一撃で跳ね飛ばされる。たった片腕の男に。
「逃がすな!」
怒号のような声がこだました。逃げようとする男へ、ヘルムカの部下たちが殺到する。
男は斬りかかってきた若い騎士の攻撃を剣で受けた。片腕だけで押し返す。だが、すぐに左から別の者が襲いかかってきた。腕のない、がら空きの左──すなわち、男の死角へ。
あわやと思われた瞬間、その場にいた者たちは、ありえない光景を目撃した。ボギーに噛み砕かれたはずの左腕が、包帯を突き破って現れたのだ。
「な、何ぃ!?」
「ディロ!」
短い呪文。それが白魔法<サモン・エレメンタル>の攻撃呪文であると、何人の者たちが気づいたであろうか。
鮮烈な光が、一瞬、夜の闇を照らした。同時に、男の左側から襲いかかった騎士が後方へと吹き飛ばされ、さらにその後ろにいた仲間たちを巻き添えにする。
思いもかけない反撃に、男を包囲していた騎士たちの動きが止まった。
「どうやら、ここまでか」
男の呟き。
騎士たちが驚嘆の眼差しで見守る中、男は突然、剣を捨てた。そして、上半身を覆っていた包帯をするりとほどく。どのような技によるものか、包帯は自ら解き放たれたかのように舞い、騎士たちの目をくらませた。
──と。
まるで幻を見ているようだった。白い包帯が夜空へ吸い込まれるように消えたとき、誰もがそう思ったはずだ。
包囲網の中心にいた男。それは、すでに彼らが追っていた隻腕の男ではなかった。黒いマントを羽織った異邦の旅人。背筋をぞくりとさせる氷の美貌。
吟遊詩人ウィル。
その深き双眸に射抜かれたとき、騎士たちは、半歩、退いた。それを責めることは出来ないだろう。ウィルがまとっているのは美しさばかりではない。死への予兆。彼は黒衣の魔人であった。
魔人なればこそ、魔法で隻腕の男に変身し、追跡者たちを一手に引き受けたのである。もし、あのまま逃亡者の捜索が始まっていれば、ルンたち母子は罪を咎められていたに違いない。元々、沢沿いに倒れていた男を助けようとしていたのはウィルだ。ルンは、それを手助けしたにすぎない。
ウィルは、先程、降伏を促してきた馬上の男へ首を巡らせた。その視線に男はひるむ。
ウィルは静かに尋ねた。
「お前たちが追っている男とやらは、一体、何者で、何をしたと言うのだ?」
その目から顔を背けることはできなかった。自由のままならぬ口を懸命に動かす。
「も、元々は我々の部隊にいた者だ。ヘルムカ将軍を補佐し、ガリとの戦闘でも目覚ましい働きを見せていた。だが、その戦争も終わり、彼は騎士団から抜ける決意をしたのだ。我々は年齢的なものを考えて、てっきり引退するのだろうと思っていた。だが、そんなとき、彼が重要な国家機密を持って、ダクダバッドへの亡命を企てているという情報が入ったのだ。いくらブリトン王国の友好国とは言え、そんなことが許されるわけがない。それに今のダクダバッドは政情不安で、今後、我が国との友好がどこまで保たれるか。噂では、クーデターの中心人物コールギン将軍は戦争を好み、さらなる領土拡大を目論んでいるらしい。そんな国へ、重要機密を渡せるわけがなかろう!」
そう話す騎士は不快さを隠そうともしなかった。どうやら人並み以上の愛国心を持ち合わせているようだ。本気でこの国の将来を考え、信念を持って行動していることが分かる。
だが、それを聞いても、ウィルには疑問が浮かんだ。
「ダクダバッドへの亡命と言っていたが、こことは反対の国境ではないか? なぜ、そんな男がわざわざ遠回りのようなマネをする? それに、何を証拠に、その男が機密を盗み出して亡命しようとしていると言うのだ? その情報、本当に確かなのだろうな?」
ウィルの問いに対し、馬上の騎士は即座に答えられなかった。言われてみれば不自然な点があると気づいたのだろう。他の騎士たちも互いの顔を見合わせた。信じていたものへの疑念。心の中の小さなさざ波は、次第に大きな不安へと膨らんでいった。
だが、それを打ち消すように騎士の一人は言う。
「ヘルムカ将軍がそうおっしゃっているのだ! 閣下のお言葉に間違いはない!」
「将軍が?」
ウィルは小さく呟いた。そして、ある可能性が頭に浮かぶ。
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