[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
猛烈なスピードで、ボギーは崖の斜面を駆け上がった。優雅に演奏を続けるウィルへとまっしぐら。だが、それを目の当たりにしても、ウィルはその場を動かない。
ボギーが今度こそウィルを噛み殺そうとした刹那、誰もが我が目を疑った。ウィルの姿が忽然と消えたのである。これまでと同じように、ボギーをかわしたのではない。まるで蜃気楼のように消えたのだ。その証拠に、襲いかかったボギーですら、ウィルの姿を見失っていた。
そして、そのとき誰が気づいたであろう。ちょうどウィルの演奏が途絶えたと。
「うわぁ!」
突然、背後で悲鳴が聞こえ、ヘルムカは振り返った。その目が驚愕に見開かれる。
「ば、バカな……」
ルンを人質に取っていたはずの兵が馬上から落とされ、その代わりに跨っていたのは黒衣の吟遊詩人ウィルであった。神出鬼没。たった今、崖の上にいたのではなかったか。
「ウィル……」
ウィルに抱きすくめられるような格好になったルンは、陶然とした表情を後ろに向け、夢見心地で名を呟いた。ウィルは微笑みこそ見せないものの、優しい目をルンに投げかける。
「痛い目に遭わされなかったか?」
ルンは頬を赤らめながら、こくんとうなずいた。ウィルの顔が息もかかりそうなくらい、すぐ近くにあるのだ。もう言葉にならない。
「ど、どうして!?」
ヘルムカは問わずにいられなかった。目の前の美しき青年が幽霊か物の怪のように思える。
ウィルは背後から《銀の竪琴》をルンに抱かせるようにし、静かに言った。
「お前たちはオレの曲を聴いた。“幻影<ミラージュ>”をな」
ウィルの演奏を聴いたときから、ヘルムカたちは幻を見せられていたのである。それこそ、《銀の竪琴》ならではの演奏──“魔奏曲”であった。
「き、貴様……い、一体、何者だ?」
ヘルムカは恐怖におののきながら口にした。急速に体温が下がっていくような感覚を覚える。
ウィルは答えた。
「ただの吟遊詩人だ」
と。
「ガルルルルル、グァアアアアアッ!」
主が愕然としても、ボギーの闘争本能は消えていなかった。斜面を駆け降りて、ウィルへと牙を向ける。相手が誰であろうと、魔犬の眼に映るものはすべて敵であり、獲物だ。
「ここで待っていろ」
ウィルは、まるで愛でもささやくかのようにルンに耳打ちし、《銀の竪琴》を託した。そして、襲いかかるヘルハウンドへと跳躍する。黒いマントが翼のように広がった。
だが、先程のファイヤー・ボールでさえも持ちこたえたヘルハウンドである。ウィルに必殺の一手はあるのか。
ウィルは空中で、腰のベルトに吊してあった短剣に手を伸ばした。獰猛な魔獣相手には、いかにも貧弱な武器。だが──
ウィルが短剣を抜いた瞬間、まばゆい光が周囲に満ちた。それが短剣の刀身が放つ光であると、どれほどの者が気づいたか。
《光の短剣》。
その光はボギーの眼をくらませた。対して《光の短剣》は、魔犬の牙を捉える。
夜空にほとばしる鮮烈な閃光。
ウィルとボギーは空中で交差した。その瞬間が、まるで時の流れが止まったかのように克明に見える。
ボギーの牙と首輪のスパイクは、ウィルのマントをかすめただけ。一方、ウィルの《光の短剣》は──
地面に重い激突音が響いた。ボギーの巨体が横たわる。その口から首、そしてそのまま腹部へかけて、見事に斬り裂かれていた。
一瞬の死闘の幕切れに、誰もが声を失った。悠然と立ちすくむウィル。死体となった魔犬を振り返る氷の美貌は、まさしく魔人のそれであった。
ヘルムカも、その部下たちも、そしてルンですら慄然としている中、ウィルは《光の短剣》を鞘に収めると、ボギーの死体に近づいた。そして、首ごと切断したヘルハウンドの巨大な首輪を手にする。
どうやら首輪は空洞になっていたらしく、切断面からウィルの手へ、何かが滑り落ちてきた。見れば小さく折り畳まれた紙らしい。ウィルはそれを広げてみた。
「そ、それは!」
ヘルムカは青くなってウィルを止めようとしたが、もう遅い。ウィルは彼の部下たちに広げた紙を見せた。
「うまい隠し場所だな。ヘルハウンドの首輪の中なら、誰も調べはしないというわけだ。──探していた証拠だ。セルモアの地下遺跡の見取り図と、その調査内容。決定的だな」
「貴様……セルモアの遺跡のことも知っているのか?」
それはカルルマン王子とその側近、あとはごくわずかの者たちしか知らぬ情報のはずだった。
「ひと月ほど前、そのセルモアにいたものでな。──カルルマン殿下によろしく伝えておいてくれ」
そう言ってウィルは、機密文書をヘルムカの部下の一人に預けた。
ウィルが言うように、一ヶ月前、セルモアの地下で古代王国時代の遺跡が発見された。各地の遺跡のように、まだ荒らされてはいないため、その学術的価値と魔法の品々の多くは、ブリトン王国に多大な利益をもたらすだろう。そして、もし他国がその存在を知れば、遺跡を狙って戦を仕掛けてくる可能性も充分にある。
まさか、その遺跡を巡って巻き起こされた一連の事件に、この美麗の吟遊詩人が関わっていたことなど、ヘルムカが知るはずもなかった。
がっくりとうなだれたヘルムカは、部下たちに捕縛された。そして、そのまま馬に乗せられ、護送されていく。もはや冷酷な将軍の面影はなかった。
部下の一人が、見送るウィルとルンに会釈した。そして、感謝を述べる。
「あなたのお陰で、無事に真犯人を逮捕できました。それに国家機密もダクダバッドに渡らずにすみましたし。本当にありがとうございました。もし、ハドラー殿に会ったら、疑ってすまなかったとお伝えください」
その名を耳にしたルンの顔が、にわかに強張った。まさか、といった表情で。
「ハドラー……。それが追っていた男の名か?」
ルンの様子に気づきながらも、ウィルは目の前の騎士に尋ねた。騎士はうなずく。
「はい。一緒に戦場で戦い、あれほど勇敢だった男を、自分は一度でも疑い、誠に恥ずかしく思います。とても顔向けできませんが、どうかこれからの余生をすこやかにお過ごしいただきたいと願っております」
「分かった。伝えておこう」
騎士は二人に敬礼をすると、仲間たちと共に王都への帰途へついた。
こうして辺境の村を襲った嵐は去っていった。
[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]