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ウィルは無口になったルンをともない、テコムの村へと戻った。
娘の無事な姿を見つけたマーサはルンを抱きしめ、二人の弟妹たちもそれに覆いかぶさるようにして泣いた。それを眺めた村人たちは、ホッと胸を撫で下ろす。
家に戻ったルンは、自分の寝室ではなく、母の寝室へ向かった。そこには左腕を失った男が寝ている。結局、ウィルが身代わりを演じたときも、この男は動くことも出来ず、眠っていたのだ。ルンはベッドの脇にイスを持ってきて、そこに座った。
人相が分からないほど伸びたヒゲ。深く刻まれた顔のしわ。包帯の合間から覗く肌は傷だらけだ。長年、戦場を生き延びてきたのだろう。そんな男を見ているうちに自然に涙が込み上げてくる。そして、ウィルが拾ってきて、枕元に立てかけてある剣を見た。
剣の柄の部分に、小さく文字が彫られているのを発見した。今までまったく気づかなかったのも無理はないほど、それはほとんどすり減っている。だが、ルンには読めた。ハドラー。男の名だ。
母に知らせるべきかと思い立ったとき、不意に男が身じろぎした。男の顔がルンの方を向く。その目がゆっくりと開かれた。
ルンは見つめた。男の目を。
開けられた男の目は細く、ちゃんとルンのことが見えているかどうか不安だったが、口許が動くのを見て、意識があるのだと確信できた。
「……うっ……」
男の口が微かに動く。だが、何を言っているか分からない。ルンは顔を近づけた。
「……んっ……」
今度もやはり聞こえなかった。だが、唇の動きで、何となくルンには分かった。ルンはうなずく。とうとう堪えきれずに涙がこぼれた。
男は右腕をルンの方へと動かした。しかし、傷のせいで表情が歪み、満足に動かせない。ルンはその手をこちらから握るようにして取った。そして、男に何度も何度も泣きながらうなずく。
「分かってる……分かってるよ」
すると、男の目の端からも涙がこぼれた。
ルンは男の手を握りながら、その胸に自分の顔をうつぶせるようにして、むせび泣いた。
朝が訪れた。
すでに、あの騒動から三日。その翌日、ウィルは隣村のモンタルンへ行くと言って旅立っていた。
ルンは心細い顔をウィルに向け、別れを悲しんだ。だが、美しい吟遊詩人の青年は優しい表情を作り、
「もうすぐ、兄が帰ってくるのだろう?」
と言って、励ましてくれた。
母のマーサは死んだかもしれないなんて言っていたが、ルンは兄の帰りを信じている。自分や弟たちに優しい兄。ウィルに言われると、本当に兄の帰郷が近い気になった。
今日こそ帰ってくるだろうか。そんなことを思いながら、ルンは目を覚ました。昨夜も母の寝室で、ずっと男の看病をしながら眠ってしまったらしい。その右手は男の手を握ったままだった。
しかし──
ルンは冷水を浴びせられたような感覚に襲われた。握りしめている男の手が冷たい。ルンは慌てて立ち上がった。
「ねえ! ねえ!」
ルンは男を揺り動かしてみたが、何の反応も返ってこなかった。息をしていない。心臓の鼓動も聞こえてこなかった。
ルンはふらふらとベッドから離れると、寝室の外へと出た。
朝早くから仕事場では母のマーサが働いている音がした。朝一番に焼くパンの生地を作業台に叩きつけるようにして練っているのだ。いつもと変わらぬ朝の風景。ルンは仕事場に足を踏み入れると、背後からマーサに声をかけた。
「母さん、あの人……死んじゃった……」
ドスンと、ひときわ大きく叩きつける音が響いた後、母の動きが止まった。だが、それでもルンの方には振り向かない。
ルンはもう一度、言った。
「母さん、あの人、死んじゃったわ……」
「そうかい……」
マーサは再びパンの生地を叩きつけ始めた。そのまま喋る。
「まあ、あのひどい傷だったんだ。三日もったのが奇跡なくらいだよ。お前も毎晩、ご苦労だったね。これで今夜からはゆっくり寝られるよ。私もベッドを占領されちまって、困っていたんだ」
サバサバして言う母に、ルンは段々と涙が込み上げてきた。そして、しゃくり上げる。
「ひどいよ、母さん! あの人、父さんなのよ! 父さんが死んじゃったのよ! どうして、そんな冷たいことを言うのよ!?」
ルンの言葉に驚いて、初めてマーサは後ろを振り返った。
「ルン、お前……」
「あの人の剣に父さんの名前が彫ってあったわ! ハドラーって! あれは父さんよ! 父さんが家を出て行ったのは私が四つのときだけど、私、微かに憶えてる! それにここへ運んできた夜、父さん、私の顔を見て呼んでくれた! 『ルン』って……。目に涙ためながら、すまなそうな顔して……。母さん、最初から知っていたんでしょ? だから私が軍隊の人に教えようとしたとき、止めたんでしょ? 父さんをかばって……。少しは悲しんだらどうなのよ? 父さん、やっと帰ってきてくれたのよ! あんなになりながらも、やっと帰って……」
あとは言葉にならなかった。ルンは顔を覆って泣く。
マーサは作業台の方へ向き直った。そして、またパン生地作りに専念し始める。
「何が、帰ってきた、だい……十年以上も私とお前たちを置いて、勝手に戦争へ行っちまった男じゃないか……あのとき、エイミーはまだ私のお腹の中にいたんだ……私がそれから、どれだけ苦労して、お前たちを育てたか……あの人は、何も分かっちゃいないんだよ……どの面下げて、今頃、帰ってくる気になったんだか……あのバカ息子もそうだよ。あいつは父さんそっくりだ。傭兵になってひと儲けだなんて。あいつも父さんと同じく、野垂れ死ぬのがオチさ。まったく、どうして男ってのは、あんなバカばっかりなのかねえ!」
マーサはパン生地を揉むようにしながら感情を吐露した。まるでパン生地に当たるかのように。その上へ自然に一滴の雫が落ちても、マーサはパン生地をこね続けた。
「お兄ちゃんは帰ってくるもん! ……私、約束したもん!」
しゃくり上げながら、ルンは母に盾突いた。そんな風に母に思われている父や兄が不憫で悲しかった。
マーサは苛々した口調でルンに言った。
「父さんのこと、クリオとエイミーには言うんじゃないよ! あの子たちは、もうとっくに父さんが死んだと思っているんだ! 変なことを蒸し返して、悲しませるようなことをするんじゃないよ!」
「そんな……」
「分かったらさっさと顔を洗って、ジムリにエサでもやっておいで! それから店開きの準備もするんだよ! 朝ご飯の支度だってしなきゃいけないんだから!」
突き放すように言う母の言葉を聞いて、ルンは仕事場から飛び出した。悲しくて悲しくて、涙がとめどなくあふれてくる。表へ出た。青空は、ルンの心など関係ないかのように、よく晴れ渡っていた。
ここは父さんの家だ。そして、出て行くときに約束したのだ。必ず帰ってくると。それまで母さんを頼むぞ、と。だから、父さんは瀕死の重傷を負いながらも帰ってきたのだ。
きっと死ぬなら家族の元で、と思ったのだろう。父は一時も家族のことを忘れなかったに違いない。でなければ、十年以上も経ってから再会した我が子の名を呼べるはずがなかった。
「父さん……」
ルンは外に立ち尽くしたまま、そっと呟き、顔を覆って泣いた。
「おーい!」
遠くから呼ぶ声を耳にしたのは、そのときである。ルンは懸命に目をこすり、誰であるか確認しようとした。
村の入口の方角からやってくる二人の男女。女性に比べると男性の方はかなり大柄で、背中には長大な大剣<グレート・ソード>を背負い、ルンに向かって大きく手を振っている。
女性の方は美人だが、初めて見る顔だ。左腕に折り畳み式のクロスボウのようなものを装着している。
「おーい!」
もう一度、男の呼ぶ声。やっと涙を拭い、それが誰かハッキリする。
そして──
ルンの顔が見る間に明るくなった。悲しみが吹き飛び、男と同じように大きく手を振る。
「キーツ兄ちゃん!」
笑顔が弾けた。そして、居ても立ってもいられずに走り出す。やっぱり兄も帰ってきてくれたのだ。生まれ故郷であるテコムへ。
「ルン!」
破顔する兄。
ルンは待ちかまえる懐かしい兄の胸へ飛び込んでいった。
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