常人ならざぬ鬼気を発するウィルに、魔族であるゲゾは畏怖を抱いた。とんでもない男を敵に回したと気づく。
しかし、ここで後ろを見せて逃げるわけにもいかなかった。そんなことをすれば、一瞬にして葬り去られるだろう。そんな死の予感がゲゾにはあった。
もはや、ゲゾは目の前の吟遊詩人をただの人間だとは思っていなかった。魔族をも恐れさせる漆黒の魔人だ。
「どうした? さっきの黒魔術<ダーク・ロアー>だけで、万策尽きたのか?」
ウィルは攻撃を躊躇しているゲゾに言った。そのウィルは次の呪文を唱える準備をしている。もう一度、ライトニング・ボルトが命中すれば、いくら魔法抵抗力の高い魔族でもただでは済まない。
ゲゾは一か八かで動いた。
「ガープ!」
後ろに飛び退きながら、ゲゾは再び黒魔術<ダーク・ロアー>を使った。ウィルの視界が闇に閉ざされそうになる。ブラインドネスの魔法だ。ウィルは意識を集中し、レジストを試みた。
魔法への抵抗は成功し、ウィルの視界はすぐに晴れた。しかし、一瞬の暗転。その隙にゲゾは次の攻撃を仕掛けていた。
追いかけようとしたウィルへ無数の糸のようなものが浴びせられた。それはゲゾが口から吐き出した蜘蛛の糸。その糸は室内を照らす光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>の下、キラキラと輝いていた。
視力を奪われかけたせいで、ウィルはその蜘蛛の糸を避けられなかった。とっさに両腕で顔をカバーするのが精一杯である。ウィルの全身をゲゾの糸がまとわりついた。
次の瞬間、ウィルの全身に激痛が走り、そのせいで動きが止まった。それを見て取ったゲゾは、まんまと罠に掛かった獲物にほくそ笑む。
「動くなよ。動けば、その糸が貴様の肉体に食い込み、切り刻むぞ」
ゲゾが吐いた糸は、ただの蜘蛛の糸ではなかった。糸には目に見えない鋸状の刃がついているのである。よってウィルが動こうとすれば、刃の糸がその身を傷つけた。
ウィルはなんとか刃の糸から脱出しようと身をよじらせた。しかし、糸はほぐれもしなければ切れもせず、むしろウィルを苦しめる結果となる。形勢逆転に成功し、ゲゾは優越感を味わった。
「ケッケッケッケッケッ! ムダだ、ムダだ、ムダだぁーっ! オレの糸──ブレード・ネットは引きちぎれぬ! 命が惜しかったら、そのまま動かないことだな!」
そう忠告して、ゲゾはウィルへと近づいた。骸骨に似た顔から鋭く伸びた二本の牙を蠢かせる。
「その容姿、惜しいとは思うが、オレの棲み家にするのはあきらめた。代わりにオレの腹の中へ収めてやろう。久しぶりに味わう人間の肉だ。たっぷりと時間をかけてやるぜ」
醜悪な魔族は下卑た笑いを漏らした。ウィルは怜悧な眼でゲゾを睨みつけるが、効果はない。やがて足下にまでゲゾが迫った。
「さて、どこから味わってやろうか。手か、足か。それとも、いきなり腹へ食いついてやろうか」
とうとう、美しき吟遊詩人の命運もここまでか。
そのとき、ウィルは驚くべき行動に出た。
「な、何をする!?」
ゲゾは驚いた。ウィルが身を刻まれるのもいとわず、右手を腰の短剣に伸ばしたからだ。
その動きはゆっくりとではあったが、ブレード・ネットは深くウィルの身体に食い込み、無数の傷をつけた。氷の美貌にも血の筋が滲む。おそらく、ひどい激痛が襲っているに違いない。食いしばるウィルの唇は震えていた。
それでもウィルは短剣をつかもうと右手を下ろした。ゲゾには、とても正気の沙汰とは思えない。
「バカめ! ブレード・ネットは引きちぎれぬと言ったはずだ! 例え、そんな粗末な短剣を使ってもな!」
「それはどうかな?」
苦痛に耐えるウィルの顔が、凄惨な笑みを漏らした。それを目にしたゲゾは戦慄を覚える。
やがて、ウィルの手が短剣の柄にかかった。
シュン! プツッ!
次の刹那、ウィルの短剣が鞘走った。ブレード・ネットが身体に食い込むのも構わぬ、目にも止まらぬ動き。激しい動作は瞬く間にウィルの五体を切り刻むはずであった。しかし──
一瞬にして断たれたのはブレード・ネットの方だった。解き放たれたのはウィル。そして、解き放ったものは眩い光を発するウィルの短剣であった。
「な、何だと!?」
ゲゾは愕然とした。ただの短剣だと見くびっていたそれは、伝説の魔法の武具《光の短剣》だったのだ。
《光の短剣》が発する聖なる輝きに気圧されたかのように、ゲゾは思わず後ずさった。まさか、この美しき吟遊詩人が《光の短剣》の所有者であったとは。
今度は逆に、ウィルの方がゲゾへと近づいた。
「お、おのれ! もう一度、喰らいやがれ!」
追いつめられたゲゾは、再びブレード・ネットを吐いた。無数の刃の糸がウィルを包み込もうとする。
「バリウス!」
ウィルが左腕を突き出すと、真空の刃が風となってブレード・ネットを四散させた。刃の糸は一本もウィルへ届かない。
「聖魔術<ホーリー・マジック>だと?」
ウィルの用いた魔法は、聖魔術<ホーリー・マジック>の中でも数少ない攻撃呪文だった。それよりもウィルが白魔術<サモン・エレメンタル>の他に、聖魔術<ホーリー・マジック>を使ったことに、ゲゾは驚く。
だが、それだけでは終わらなかった。
「さっきのお返しだ。──デドラ・ナム!」
ウィルが呪文を唱えると、ゲゾの体が急に床へ押しつけられた。ゲゾが使った重力負荷の魔法だ。
「くっ、バカな! 黒魔術<ダーク・ロアー>まで体得しているというのか!?」
通常、三大魔法をすべて知っている者はいない。いいところ二つまでが限度だ。しかし、このウィルという男はすべての魔法に精通していた。
三大魔法を操り、伝説の《光の短剣》を持つ男。ゲゾは、心底、恐ろしい相手と出会ってしまったと後悔した。
「ぐあああああああっ!」
ゲゾの体は重力負荷に耐えられず、寝室の床に押し潰された。まったく動くことが出来ない。床そのものも凹み始めている。
そのゲゾの前に、ウィルは静かに立った。無情に向けられる冷ややかな眼。ゲゾは引きつった。
「ひっ!」
「悪魔は地獄へ還るがいい」
ウィルの《光の短剣》が、哀れなゲゾの頭上に振り下ろされた。
戦いが終わると、ウィルはクローディアの亡骸を抱きかかえ、ジュリアンのミイラが横たわるベッドへと運んだ。そして、二人を並べて、ジュリアンの手にクローディアの手を重ねてやる。死という悲しい結末になったが、これでようやくこの姉弟は苦しみから解放され、安らかに眠ることが出来るのだ。
「約束だ。一曲、聴いてもらおう」
それは姉クローディアが弟ジュリアンに聴かせて欲しいと願ったウィルの歌。所詮、ウィルを館に招き寄せる口実に過ぎなかったかもしれないが、そんなことはこの吟遊詩人に関係なかった。自分の歌を誰かに聴かせる。それがこの男の仕事だった。
ウィルは愛器である《銀の竪琴》を取り出すと、二人の前で演奏を始めた。そして、粛々と唄い始める。とある姉弟の悲しき運命を。
クローディアとジュリアンは、その曲をどのように聴いただろうか。
『姉さん、ごめんよ』
『何を言うの、ジュリアン』
『僕の身体が弱かったがために、姉さんの人生をも犠牲にしてしまった』
『そんなことはないわ、ジュリアン。私は充分に幸せだった。お父様とお母様の間に生まれ、あなたという弟を持てたことに、私は何の後悔もしていない』
『でも……』
『すべては私が望んだこと。こうして二人でいられたことが、何よりの幸福だったのよ。それよりもジュリアン、あなたこそ、ほとんど寝たきりだったことを悔やんでいるのではなくて?』
『うん……正直、そんなときもあったよ。もし元気でいられたのなら、もっと好きなことが自由にやれただろうって。でも、そんな僕でも、姉さんや、お父様、お母様は愛してくれた。それは本当に感謝している。もし、僕が普通の人と同じく健康だったら、そのことに気づかなかったかもしれない。病気になって、唯一、よかったことかな』
『ジュリアン、そう言ってもらえると、私も──そして、きっとお父様やお母様も救われた想いがするわ。あなたが私の弟であってくれて、本当にありがとう』
『こちらこそ、感謝しているよ、姉さん』
《銀の竪琴》を奏で、唄い続けるウィルには、姉弟がすぐそこで寄り添うようにして歌を聴いているような気がした。そんなウィルの顔に、いつしか穏やかな笑みが広がっていく。そのときばかりは魔人の表情も氷解していた。
領主の館に響き渡る美しき歌声は、夜半までしばらく絶えることがなかった。