[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
辺境としては典型的な規模の村落であるモンタルンは、農耕と狩りで生活を立てている小さな村だ。人口二百。戦争も竜<ドラゴン>の襲撃も心配せずに済むこの村では、ほとんどの者が一度も外の世界を見ることなく、生涯を終える。事件は冠婚葬祭の範囲内。まったく平和そのものの村だった。
そんなモンタルンの村で、一大事件が持ち上がった。美麗の吟遊詩人ウィルの出現である。
ウィルが村へ足を踏み入れると、どよめきが起こった。その大半は村の女性たちである。ある者は恍惚とした表情を浮かべ、ある者は失神し、ある者はウィルを見た見ないでいがみ合った。吟遊詩人が一歩を踏み出すたびに、騒ぎは広まった。
そんなウィルの後ろから、のこのこと着いて行くのは彼に命を救われたリィーナだった。リィーナはちょっとばかり、ウィルに助けられたことを自慢に思っていた。道の両側に並ぶようしてこっちを見ている女性たちに得意げな顔をする。しかし、彼女たちはそんなリィーナを気にも留めない。なぜならば、彼女たちの関心の的はウィルだけなのだから。
ウィルはおもむろに立ち止まった。モンタルンにひとつしかない宿屋の前である。外観を少し眺めてから、決めたようだった。
「ここに泊まるの?」
リィーナが訊いた。その答えをウィルは態度で示した。中へと入って行く。リィーナもそれに続いた。
村唯一の宿屋は、実にささやかなものであった。モンタルンと隣のテコムを行き来する行商人は定期的だが、その数は少なく、ウィルのような旅人がこのモンタルンを通ることも稀であるため――そもそもテコムへの道しかないのだから――、さして大きなものでなくても良いのだ。普段は一階で雑貨屋を営んでいるらしい。
久々の客を主人のエド自らが出迎えた。
「ようこそお越しくださいました。お泊まりですか?」
「三日ほど休みたい。部屋は空いているか?」
「そりゃあ、もう」
エドは手揉みして言った。久しぶりの宿泊客である。ウィルはその場で三日分の宿賃を払った。
「それにしてもアンタぁ、美形だねえ。男のオレでも惚れ惚れすらぁ」
銀貨を受け取りながら、エドは下卑た笑いを漏らした。リィーナがそれを見咎めて、宿屋の主人の足を踏みつける。思い切り悲鳴が上がった。
「リィーナ! 何をしやがる!?」
片足でピョンピョン跳ねながら、エドはリィーナをねめつけた。
「このひとをそんな汚らわしい目で見ないでよ! 私が許さないんだからぁ!」
「何だと!? どこで油売ってやがったか知らねえが、ジェシカ婆さんが捜していたぞ!」
ジェシカ婆さんはリィーナの親代わりである。とても厳しい人で、もしも森で遊んでいたことがバレたら大目玉だ。リィーナは首をすくめた。こいつは早く帰った方がいい。
「分かっているわよ!」
リィーナは反抗的な態度でエドのすねを蹴飛ばし、ウィルに向き直った。エドは飛び上がって痛がる。
「また来るわ」
上気した顔でそれだけを言うと、リィーナはウィルと別れた。
「クソッ! あのジャジャ馬娘め! いつか尻をひっぱたいてやる!」
エドが悪態をついているのに構わず、ウィルは静かに二階へと上がった。
夜。
それは月が鮮やかに映える晩だった。
モンタルンの村は死んだように眠っていた。
そのモンタルンの村を囲む、影、影、影。
四本の足。
低いうなり声。
獣<ケダモノ>。
──狼。
百匹近い狼がモンタルンの村を包囲していた。
こんな事があり得ようか。
訪問者は、そんな夜遅くに訪れた。
「ジェシカ婆さん、もう明日にしちゃどうです?」
廊下で足音と宿屋の主人であるエドの声がした。
「今のうちに話しとかなきゃならないんだよ。明日までなんて待てるかい」
こちらはしわがれた老婆の声。唯一の宿泊客がいる部屋へと近づいてくる。
「しかし、お客様に対して夜遅くというのは……」
「私が責任を取るようにするよ。それなら文句はあるまい?」
「ですが……」
エドの困った声。
足音が止まった。そして、ノックの音。
「開いている」
短い返事。ドアが開くと、エドと老婆が中へと入って来た。
「お邪魔するよ。──おや、起きていたかい」
ウィルは昼間と同じように黒いマントを羽織ったまま窓辺に立ち、暗い外を眺めていた。ベッドで寝た様子はない。
「何の用だ?」
先に切り出したのはウィルだった。それでも老婆たちの方を振り向こうとしない。まるで窓から注ぎ込む月光の美しさを惜しむかのように。
「私はジェシカ。ウチのリィーナを助けてくれたんだってねえ。礼を言っておくよ」
ジェシカ婆さんは杖をつきながらベッドまで行き、許可も得ずに腰をかけた。そこからウィルの青白い横顔を眺められる。しばらく時を忘れた。
「──おっと、私としたことが、いい年をして、見とれちまったようだね。それよりも、アンタ、魔法を使うらしいじゃないか。白魔術師<メイジ>かい? それとも黒魔術師<ウィザード>かい?」
「ただの吟遊詩人だ」
ウィルの物言いはあっさりしていた。
ジェシカ婆さんは皺くちゃな口元に笑みを作った。
「まあ、なんだっていいさね。──どうだい、その魔法の腕前を見込んで、ひとつ頼まれちゃくれないかい?」
初めてジェシカ婆さんの目が光った。
「狼退治か? それなら教会か寺院に頼んだらどうだ?」
狼たちの遠吠えは、ここまで聞こえていた。
教会の神父や寺院の僧侶<プリースト>たちは、肉体を鍛えており、防御・治癒の呪文を会得している魔法の使い手でもある。司祭<ビショップ>や高僧<ハイ・プリースト>になれば、気の塊――《気弾》を撃ち出したり、見えない刃を作り出す攻撃魔法も使えるはずだ。白魔術師<メイジ>、黒魔術師<ウィザード>ほどではないにしろ、狼相手ならば神父や僧侶<プリースト>のみで充分。ウィルの言葉はもっともだった。
だが――
「狼退治だけならば、な」
ジェシカ婆さんは目をつむって言った。
[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]