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吟遊詩人ウィル

呪縛人形

−3−

 星の瞬く晩であった。
 町は短い安らぎの時間<とき>を迎える。
 厳しい寒さから暖かい布団の中に逃げ込むことが出来るのは、とても幸せなことだ。
 先程まで騒がしかったはずの酒場も店終いをし、凍てつく夜の町に人影はない。
 誰もが眠りを貪っていた。
 何もせず、何も聞かず。
 雪と闇の静寂<しじま>。
 それが──変化した。美しい調べによって。
 旋律は町の中央に位置する広場から、風に運ばれて聞こえてきた。
 それは眠りを妨げるものでなく、逆に眠りを心地よいものにするものだったろうか。
 今まで、ただ暗闇を友として眠っていた人々が、美しい夢を見始めた。
 誰もが同じ、陶酔の夢。
 夢の中では、一人の吟遊詩人が町の広場に立っていた。
 黒いマントに鍔広の旅帽子<トラベラーズ・ハット>。
 手には伝説の《銀の竪琴》。
 その弦に繊細な指がかかるや、女神の歌声のような音が流れた。
 そして、吟遊詩人の顔は──
 ああ、人の顔というものが、ここまで究極の美を作り出せるものなのか。そんな感嘆を禁じ得ない美しさであった。
 その美しさと歌声に導かれて、自分の家のベッドで寝ていたはずの町の人々が次々と集った。
 もちろん夢だ。が、それが何の意味を持とう。
 吟遊詩人の美しさと詩<うた>の心地よさは、夢の中で少しの価値も失わない。
 人々に対して、吟遊詩人は温かみのある微笑みを返した。
 さあ、歌いましょう。皆さんで歌いましょう、と。
 夜の詩<うた>が歌われた。吟遊詩人は夜のひとだった。
 月と星と、風と詩<うた>と。
 初めて聴く詩<うた>なのに、皆、知っていた。歌うことが出来た。
 見慣れたはずの町並みは、いつもと違っていた。夜であるにも関わらず、氷のような闇が払われ、暖かな光があふれている。そして、何より心の安穏が人々を満たしていた。
 これは──春だ。
 町の人々が待ち望んでいた春。
 喜びは詩<うた>となった。誰からともなく手をつなぎ、大きな人の輪を作り上げた。
 このように浮き立つ気分は、一体、どれほど振りか、すぐには思い出せなかったが、皆で歌っていると、そんなことはどうでも良くなってくる。今は楽しむときなのだ。
 やっと長い冬が終わった。
 そして、春の喜びが訪れる。
 人々は生きている実感を取り戻したような気がした。
 ──。
 星の瞬く晩であった。
 明日になれば、町の誰もが同じことを口にするだろう。
 ──夕べ、美しい夢を見たよ、と。
 そして、互いに同じ夢を見たと驚くに違いない。
 歌い終えたウィルは、たった一人、現実の広場の中央にたたずみながら、何を思ったであろうか。


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