[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
星の瞬く晩であった。
町は短い安らぎの時間<とき>を迎える。
厳しい寒さから暖かい布団の中に逃げ込むことが出来るのは、とても幸せなことだ。
先程まで騒がしかったはずの酒場も店終いをし、凍てつく夜の町に人影はない。
誰もが眠りを貪っていた。
何もせず、何も聞かず。
雪と闇の静寂<しじま>。
それが──変化した。美しい調べによって。
旋律は町の中央に位置する広場から、風に運ばれて聞こえてきた。
それは眠りを妨げるものでなく、逆に眠りを心地よいものにするものだったろうか。
今まで、ただ暗闇を友として眠っていた人々が、美しい夢を見始めた。
誰もが同じ、陶酔の夢。
夢の中では、一人の吟遊詩人が町の広場に立っていた。
黒いマントに鍔広の旅帽子<トラベラーズ・ハット>。
手には伝説の《銀の竪琴》。
その弦に繊細な指がかかるや、女神の歌声のような音が流れた。
そして、吟遊詩人の顔は──
ああ、人の顔というものが、ここまで究極の美を作り出せるものなのか。そんな感嘆を禁じ得ない美しさであった。
その美しさと歌声に導かれて、自分の家のベッドで寝ていたはずの町の人々が次々と集った。
もちろん夢だ。が、それが何の意味を持とう。
吟遊詩人の美しさと詩<うた>の心地よさは、夢の中で少しの価値も失わない。
人々に対して、吟遊詩人は温かみのある微笑みを返した。
さあ、歌いましょう。皆さんで歌いましょう、と。
夜の詩<うた>が歌われた。吟遊詩人は夜のひとだった。
月と星と、風と詩<うた>と。
初めて聴く詩<うた>なのに、皆、知っていた。歌うことが出来た。
見慣れたはずの町並みは、いつもと違っていた。夜であるにも関わらず、氷のような闇が払われ、暖かな光があふれている。そして、何より心の安穏が人々を満たしていた。
これは──春だ。
町の人々が待ち望んでいた春。
喜びは詩<うた>となった。誰からともなく手をつなぎ、大きな人の輪を作り上げた。
このように浮き立つ気分は、一体、どれほど振りか、すぐには思い出せなかったが、皆で歌っていると、そんなことはどうでも良くなってくる。今は楽しむときなのだ。
やっと長い冬が終わった。
そして、春の喜びが訪れる。
人々は生きている実感を取り戻したような気がした。
──。
星の瞬く晩であった。
明日になれば、町の誰もが同じことを口にするだろう。
──夕べ、美しい夢を見たよ、と。
そして、互いに同じ夢を見たと驚くに違いない。
歌い終えたウィルは、たった一人、現実の広場の中央にたたずみながら、何を思ったであろうか。
[←前頁] [RED文庫] [「吟遊詩人ウィル」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]