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路地に建つ家屋の壁を頼りに、青年は白い闇の中を進んだ。やがて前方に複数の気配と声を察知し、やや身構える。ここは無法都市ベギラ。ただ道を歩くだけでも危険な場所だ。
ところが、がやがやと聞こえてくる声は、どうやら子供のものらしかった。よく通る甲高い笑い声。その声に少しだけ青年は警戒心を解いた。
だが、それは一瞬の油断につながった。朝靄のどこに隠れていたのか、いきなり青年の背後に気配が生じ、背中に何か固い物が突きつけられる。青年は反射的に振り向こうとした。
「おっと、そのままだ。動くんじゃねえ！」
青年に警告する声は鋭かったが、どこか作り物めいた響きが混ざっていた。子供の声だ。
青年は前を向いたまま、ゆっくりと両手を挙げた。
「お前、余所者だろ？」
背後の声は断定するように言った。
「だったらどうする？」
問いかける青年。背後の声は笑った。
「ここはベギラだぜ。決まっているだろ」
そう言って青年の背後から手が伸びてきて、腰の長剣＜ロング・ソード＞を外しにかかった。しかし、片手で武器を突きつけながら、もう一方の手で外すのは骨の折れる作業らしく、次第にその手つきが苛立ち始める。
「お前、外せ！」
ほどなくして背後の声は命じてきた。青年は思わず笑いそうになる。だが、我慢した。
「いいのか？」
わざと尋ねた。背後の声は、益々、苛立つ。
「妙なマネをしたら、容赦しねえぞ！」
「分かってる──よ！」
青年は腕を下ろし、長剣＜ロング・ソード＞の柄を握ると、グイッと押し下げた。当然、反対側である剣の切っ先は持ち上がり、背後に立つ脅迫者を痛打する。
「わっ！」
鳩尾にでも当たったのだろうか、脅迫者は声を上げ、青年の背中に突きつけられていた武器も離れる。青年の逆襲は見事に成功した。
青年は素早く振り返り、いつでも長剣＜ロング・ソード＞を抜ける構えを取った。だが、その場に尻餅をついた格好で見上げる少年を見た途端、気が抜けてしまう。
相手はまだ十三歳にも満たないような子供だった。貧しいのか、ボロが目立つ汚い服を着ている。その右手を見ると、角が尖った小石を握っていた。これをナイフの代わりに青年の背中へ突きつけ、脅していたに違いない。
「コナー！ 何をしてるの!?」
鋭い声が青年の背後から飛んだのは、そのときだった。女性の声。ただし、今度は子供のものではない。
青年が首だけを巡らせると、すぐに一人の女性が駆け寄ってきた。
「まったく！ あんたって子は、どうしてそんなことをするんだ？ 下手したら殺されかねないんだよ？ 全然、分かってないだろ？」
「だってよお、こいつが後を着けてきて──」
「男が言い訳するんじゃないの！」
女は厳しい口調でコナーと呼んだ少年を責めた。先程までの勢いはどこへ行ってしまったのか、コナー少年はちょっとふくれっ面を作り、黙り込む。女はそのコナー少年の耳を強く引っ張った。
「痛い！」
「痛い、じゃないでしょ？ 少しは反省しろって言うの！」
女がそのまま耳を引っ張ると、コナー少年は釣り上げられるように立ち上がるしかなかった。
それを見ていた青年は、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「まあまあ、少しは痛い目にあったんだ。彼も反省しているだろう」
青年は取りなすように言った。すると女は、青年の方を険しい顔で睨む。
「呑気なことを言ってくれるね、あんた。つい今し方、身ぐるみ剥がされそうになったってのに。いかにも余所者のボンボンが言いそうなこった」
女は口調こそ乱暴だったが、かなりの美人だった。短く切りそろえられた赤みがかった金髪や強い意志を表したかのような黒い瞳は、男っぽさを感じさせるものの、きっと笑顔になれば女性らしい愛らしさが咲き誇るだろう。青年にとっては決して苦手なタイプではない。ただ、コナー少年同様に生活はあまり楽じゃないようで、着ている物は華やかさに欠けていた。
女に「余所者のボンボン」と言われ、青年は思わず苦笑した。改めて自分の身なりを眺めてみる。
「そう見えるかな？」
問いかける青年に、女は呆れたような表情を見せた。青年の服装は明らかに旅装束で、生地もそこそこ高級なものが使われている。ベギラで生活している者が、このような格好をしているわけがなかった。
「どこをどう見たって違うだろ？ それにこの街で、そんなお人好しの顔をしているヤツは一人も暮らしちゃいないよ。そんなヤツは、とっくにカモにされて生きていけないね」
女はずけずけとものを言った。
確かに、この街では自分だけ浮いているように、青年も感じていた。だが、青年には、ある目的があった。このベギラがいくら危険な街であろうとも。
「忠告、肝に銘じておくよ」
もし彼女に、昨晩、外で眠っていたと教えたら、もっと呆れられていただろうと想像しながら、青年は言った。
「おねえちゃん、まだー？」
舌っ足らずな声が女を呼んだ。見ると路地の向こうから多くの子供たちが現れる。四、五歳くらいから十歳前後だろうか。十名ちょっとの少年少女だった。中には赤ん坊を背負った女の子もいる。
「ごめん、朝食がまだだったね。今、配るから」
女はそう言うと、グループの中で一番年長らしい少女が持っていたバスケットを受け取り、中からパンを取りだした。たちまち少年少女の目が輝き出す。女は一人ずつにパンを配り始めた。
「よく噛んで、しっかり食べておくんだよ。じゃないと、仕事なんか出来ないからね」
女は一人一人に言い含めるようにして見渡した。コナー少年にも一個渡す。途端にむしゃぶりついた。
青年はそんな少年少女たちを見て、訝しい顔をした。その目を女に向ける。
「まさか、仕事って、さっきのようなことじゃないだろうな？」
青年の質問に、女はムッとした表情を見せた。そして、隣にいたコナー少年の頭をポンと叩く。
「違うわ。クズ拾いや皿洗い、子供にも出来そうな真っ当な仕事よ。いくらこの街が無法都市だからって、みんながみんな、盗みや脅しを働いて、稼いでるわけではないわ。それにさっきも言ったけど、悪事は手っ取り早い稼ぎ方である反面、危険がともなうものよ。そんなこと、私が勧められるわけないじゃない。この子たちの親は、みんな自分たちのことが精一杯で見捨てていったの。街から逃げ出した者もいるし、ひと山当てようとして、取り返しのつかない失敗をした者もいるわ。私はこの子たちに、同じ道を辿らせたくないのよ。地味でも、どんなに稼ぎが少なくても、真っ当な仕事をして生きていって欲しいの。私に出来ることなんて、せいぜい、朝、パンを配ってやることくらい。せめて一日一食分のパン代でも、この子たちの蓄えになるようにね」
女はそう言いながら、まだパンを食べることの出来ない赤ん坊にミルクを飲ませた。
青年はそんな少年少女たちの姿を見ながら、何という不幸な国なのかと思い知らされた。子供が苦労をしなければ生きていけないとは。それほどに今のリルムンド王国は腐りきっているのだ。
ここを訪れる前から分かっているつもりだったが、こうして目の当たりにすると、青年の心に新たな憤りが湧き起こってきた。すべては逃げ出してしまった国王ソロン�言い函�国を支配している盗賊ギルドのせいだ。
やがて、少年少女たちはパンを平らげてしまい、女に礼を言いながら、各々の仕事場へと散っていった。コナー少年もむっつりとした様子のまま、どこかへ消える。女はそれをにこやかに送り出した。
「さーて、私は帰って寝るわ。こっちはあの子たちと違って、夜の仕事なんでね。──ところで、あんた、こんな街に何の用だい？ 盗品でも買いに来たとか？」
「いや」
女の問いに、青年は首を横に振った。無精ヒゲを生やしているものの、元来、優しいはずの顔立ちだが、このときばかりは険しさを露わにする。そして、青年は女に向かって答えた。
「オレは盗賊ギルドを潰しに来た」
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