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無法都市ベギラは、夜になると活気があふれ出す。ただ、それは常人には歓迎されない危険をはらんでいたが。
不夜城。
多くの怪しげな酒場や娼館が店を開け、どこからともなく街の無法者たちが遊楽を求めて集まってくる。金のない者は、そのような客たちを獲物に定め、闇で息を潜めるのだ。それはあちこちで流血の争いとなり、毎晩、何人かの死者を出す。だが、たとえそのような場面に出くわしても、誰もが平然と横を通り過ぎていくのが、この街の常であった。余計な関わりを持てば、今度は自分が巻き込まれる。それを知っているからだ。
ベギラの中でも、昔からスラム街として敬遠されていた一角がある。《皮剥通り》。その通りを無事に通り抜けるのは至難の業であることから付けられた名前だ。今ではベギラ全域がかつての《皮剥通り》みたいになっているので目立ちはしないが、それでも古くからいる住人の中には、未だに避けていく者も多い。
その《皮剥通り》の中程に、地下へと続く小さな階段が存在していた。表には何の目印もないので、うっかりすると見落としそうだ。その階段をずっと下に降りると、頑丈な造りの木の扉があり、そこには店の名前なのか、錆びた金属板に《涸れ井戸》とある。その扉を押し開けると、まず出迎えるのは、むせ返るようなパイプや煙草の紫煙だった。
《涸れ井戸》の中は、地下にも関わらず、高い天井と広い空間を持っていた。入口は踊り場のようになっていて、一階分降りたところにある真下のテーブル席が一帯に見渡せる。軽く三百人は収容できるのではなかろうか。そのほとんどの客が街のごろつきどもで、パイプや煙草をくゆらせているのだから、かなり換気は悪い。
さらに入口には筋肉の塊のような大男が二人、仁王立ちして、やって来る客たちをチェックしていた。それだけで、ここが特別な酒場であると知れる。本当に限られた者しか中に入れないのであろう。
そして、何より目を引くのは、天井から吊り下げられた鉄の籠のようなものだ。天井には照明がないため、ほとんど闇の中に溶け込んでしまっているが、大きさは下にある十人用のテーブルと比べても、それほど変わらないくらいである。残念ながら、中に何か入っているのかどうか、暗闇を見通す目でも持っていない限り、確認する術はなかった。
《涸れ井戸》は大盛況であった。雑多な会話と下卑た笑い声があちこちから響き、エールのジョッキを打ち鳴らす音や、皿の割れる音などが絶え間なく聞こえてくる。隣の者の声が本当に聞こえるのか怪しいほどの喧騒。席という席はほとんど埋め尽くされ、給仕人らしき者たちが三人、忙しく立ち働いていた。
その《涸れ井戸》へ一人の客人が訪れた。頭からフード付きのマントを羽織った人物だ。見た目では男女の区別も分からないが、体つきは線が細く、あまりこのような場所にふさわしいとは思えない。当然、入口の用心棒たちが入店を阻んだ。
すると見慣れない客人は、応対の用心棒たちに、二言、三言、何かを言って聞かせた。それを聞いた用心棒たちは、困ったように互いの顔を見合わせる。さらにフードの人物は追い打ちをかけるように何かを喋った。それが決定的だったようだ。用心棒の一方が相棒に何事かささやき、下のフロアへ降りた。
大男の用心棒は、騒ぐ客たちの間をうまく通り抜けながら、一番奥にある一つのテーブルへ向かった。そこは他のテーブル同様、十人ほどが座れるものだったが、客の顔ぶれが少し異なっていた。
壁に背を向け、露出度の高いドレスを着た美女を両脇にはべらせながら、エールではなく葡萄酒を飲んでいるのは、二十代半ばくらいの青年だった。女のように金髪を肩まで伸ばし、時折、笑みを見せる顔はかなりのハンサムで、着ている物も他の客たちと比べると上品でおしゃれに見える。その向かいには、人相の悪い男たちが五人座っていて、どう見ても彼らの方が年上であるにも関わらず、へつらう様子が見受けられた。
用心棒はテーブルに近づくと、一度、頭を下げた。お楽しみのところを申し訳ない、といったところだろうか。青年もそれに気づいたが、用心棒が席のすぐそばまで来ると、スッと手を挙げて制し、天井を見上げた。
それが合図だったのか。どこからか美しいハミングが聞こえてきた。耳にしただけで、全身が泡立つ。そのハミングが酒場に響き渡るや、今までの喧騒がさーっと引いていった。ジョッキや食器の音もぱたりと止む。何かが始まるのは明らかだった。
次にカタカタという機械的な音がともなった。入口で待たされていたフードの人物が天井に目を移すと、吊り下げられていた大きな籠が徐々に降りてくる。と同時に、照明に照らし出され、ようやくその全貌を見ることが出来た。
籠は“大きな鳥籠”と評した方が適切だったろう。釣り鐘型の形と細い骨組みで出来た大きな鳥籠には止まり木まで作られ、その上に一人の女性が座っていた。鮮やかな緑色の薄布で出来たドレスは、袖と脇が膜のような素材でつながっており、あたかも鳥の羽根のようだ。そして、水色の長い髪は腰よりも下に垂らされ、尾羽を象徴しているように思える。天井に漂う紫煙が彼女をベールのように包み、たなびいた。
美しいハミングを口ずさんでいるのは、この鳥籠の中にいる彼女であった。化粧はかなり濃いが、かなりの美人だ。《涸れ井戸》の客たちは一人の例外もなく、うっとりと天井を見上げ、しばし時を忘れているようだった。
やがてハミングは言葉となって紡がれる。
あなたが望んでいるものは何?
あなたが欲しいものは私?
私はすでにあなたのもの
あなたに囚われた籠の中の小鳥
どこへも飛び立つことを許されない籠の中の小鳥
なのに どうしてあなたは嬉しそうな顔をしないの?
あなたが望む私のすべては もう手に入れたはずなのに
男のひとは みんな そうなのかしら?
私はそんなあなたを見ていると不安になる
小さな籠の中に私を閉じこめて
いつか あなたはどこかへ去ってしまうの?
身も心も捧げた私 あなた以外の行き場はないというのに
私はずっとここにいる
あなたへの愛を 私はずっとさえずっている
なのに あなたは本当の私を見てくれない
あなたが本当に望むもの それは私じゃなかったの?
私は囚われた籠の中の小鳥
翼の意味を失った籠の中の小鳥
あなたがいなくなったら 淋しさに死んでしまう小鳥
──鳥籠の中の女が唄い終えると、酒場中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。女はうやうやしく右手を胸の前に当て、会釈をする。ずっと女の唄う姿を見ていた青年も、立ち上がって彼女の歌を讃えた。
それを見計らって、もう一度、用心棒が青年に耳打ちをした。すると青年は一瞬、真顔になり、だが、すぐに笑みを取り戻す。そして、大きくうなずいた。
用心棒は青年に何かの了承を得たようで、入口に立っている相棒に合図を送った。それを見た大男は、フードの人物に顎をしゃくって見せる。それに対し、見慣れぬ客人は黙って下のフロアへと階段を降り始めた。
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