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吟遊詩人ウィル

暗黒街の歌姫

−6−

 二人が跳んだ瞬間、フロアの無法者たちはそろって驚愕に口を開け、天井を見上げたまま動きを止めた。入口から離れたばかりの用心棒も唖然とする。それはまるでサーカスの軽業師を見ているようだった。
 だが、跳んだラークからすれば、一か八かの賭けだったに違いない。表情はかなり強張っている。巻き添えにされた女も悲鳴を飲み込んだ。
 ラークは下のフロアよりも一階分高くなっている入口近くへ着地し、その弾みで頭から前転した。すぐに後ろを振り返る。一緒に跳んだ女もまた、ギリギリのところで届き、そのまま横転して、うつぶせの格好で鳥籠を見た。あそこから跳んだというのが信じられないと同時に、今頃になって恐怖が込み上げてきたに違いない。それはラークも一緒だった。
 しかし、このまま心臓の動悸がおさまるまで、寝そべっているわけにはいかない。ラークは強引に女を立たせた。
 鳥籠から入口の踊り場まで飛び移った二人に、しばらく呆けた顔を向けていた無法者たちであったが、ラークたちが立ち上がると、再び捕まえようと動き始めた。ところが、ラークが女の首へ長剣<ロング・ソード>を向けると、またたたらを踏む。
「アッシュ!」
 ラークは女を人質に取ったまま、声を張り上げた。これまで悠然とした格好を崩さなかったアッシュは、ようやく敵意に満ちた眼をラークに向ける。
「女は預かっていく! 返して欲しければ、《耳》と交換だ! 明日の日没にお前一人で《耳》を持って、アプロポス河の橋へ来い! 《死体洗い通り》の橋だ!」
 ラークはそれだけ言うと、女を押し込むようにして、扉へと消えた。無法者たちは、自分たちがたった一人の男をまんまと逃がしてしまい、カッと頭に血を昇らせる。殺気立った様子で出口へ殺到した。
 それを見ながら、アッシュは自分のテーブルに戻ると、腕を横凪にして、上に乗っていた料理や酒をすべて床にぶちまけた。そして、ひと呼吸、荒く吐き出す。
「なめたマネをしやがって! この盗賊ギルドのアッシュに恥を掻かせてくれるとはな!」
 その激高ぶりに、周りにいたギルドの構成員たちは恐れおののく。アッシュを怒らせればどうなるか、彼らは皆、知っていた。
「ドッグ!」
 アッシュは近くにいた薄汚れた男を呼んだ。ラークに対し、爪楊枝を飛ばした斜視の男である。そのドッグだけは、アッシュに笑みを見せた。
「抜かりはございません、アッシュ様」
 その一言に、アッシュはうなずき、怒りを静めた。
「よし。──全員に命じる! あの男は殺さずに、生きたままオレの所へ引っ張ってこい! ヤツはオレの手で殺してやる!」
 アッシュがギルドの連中にそう命じている頃、《涸れ井戸》からの脱出を図ったラークは、女の手を引きながら、地上への階段を駆け登った。石造りの階段はかなりの年月を経ており、所々がすり減って、ややもすると踏み外してしまいそうな危険がある。ほとんど手も着くような格好で上がった。
 《皮剥通り》へ出ると、ラークは一度、女の手を離した。だが、相変わらず剣は向けている。
「逃げるようなことをしなければ、あなたの身の安全は保障する! 少しここで待っていてくれ」
 ラークはそう言うと、《涸れ井戸》の入口近くに置いてあった大きな酒樽に手をかけた。そして、全身を預けるようにして酒樽を押す。ズズッと酒樽はわずかに動いた。どうやら中身は空ではなく、たっぷりと入っているらしい。ラークはさらに力を込める。酒樽を《涸れ井戸》へと通じる階段へ落とすつもりだった。
「待ちやがれ!」
 階段の方から叫び声が響いてきた。追っ手だ。慌ただしい足音がそれに重なった。
 ラークは懸命に酒樽を押した。だが、なかなか簡単には動かすことが出来ない。それに対し、追っ手はすぐそこまで迫っている。
 酒樽を落とすのは断念せざるを得ないか、とラークがあきらめかけた刹那、横から白い手が伸びてきた。女の手だ。驚いたことに、女はラークに手を貸したのだ。
「何をしているの!? 早く!」
「あ、ああ」
 女に叱咤され、ラークは我に返った。そして、もう一度、酒樽を押し始める。
 大きな酒樽はようやく二人がかりで動き始めた。階段の淵まで押すと、あとは簡単だ。酒樽は自らの重みで傾き、横倒しになって階段を落ちた。
「うわあああっ!」
 出口まで上がりかけていた追っ手にとってはたまらない。満タンの酒樽を足場の悪い階段で受け止められるわけがなかった。
 凄まじい悲鳴が《涸れ井戸》の階段から聞こえてきた。きっと避けることも出来ず、何人かが下敷きになったに違いない。そのときばかりは、さすがのラークも顔をしかめた。だが、今は後悔しているときではない。
 念のため、ラークはもう一つ酒樽を階段に叩き落としておいた。ここ以外に出入口はないはずで、しばらく敵の足止めになるだろう。ラークは顔の汗を拭うと、再び女の手を取った。
「行こう!」
 ラークと女は、《皮剥通り》を逃げるように駆け出した。


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