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吟遊詩人ウィル

暗黒街の歌姫

−8−

「ロベリア!」
 まだ店を閉めたばかりの酒場《涸れ井戸》に戻ってきたロベリアの姿を認めて、酒場のマスターが声を上げた。ロベリアは力のない笑みを気弱そうなちょび髭のマスターに向ける。
 閉店した《涸れ井戸》には、マスターの他に、アッシュとその片腕であるドッグ、そして数名の手下たちが残っていた。他の者たちは、皆、逃亡したラークを追って出払っている。ラークが落とした酒樽の撤去に、思いの外、時間がかかってしまい、かなりの出遅れになってしまったが。
 入口に立っていた用心棒──もう一人は足のケガのせいでいなかった──が、大きな手を添えようとしたが、ロベリアはそれを邪険に振り払った。
 戻ってきたロベリアに対し、アッシュも腕を広げて立ち上がり、この街一番の歌姫を出迎えた。
「おお、ロベリア! 無事だったか!」
 アッシュはロベリアを抱きしめた。ハンサムな顔立ちのアッシュにこのような熱烈な出迎えをされたら、大抵の女たちは顔を赤らめるはずだが、ロベリアは違った。けだるそうにアッシュから身を離そうとする。
「やめて、アッシュ。私、疲れているのよ。──マスター、エールを一杯ちょうだい!」
「あ、ああ、分かった」
 うなずいたマスターは片づけを中断し、ロベリアのためにエールを注いだ。アッシュから離れたロベリアはカウンターに座り、差し出されたジョッキをつかむ。そして、喉を鳴らしながら、エールを流し込んだ。
「ぷはーっ、生き返ったわー! マスター、ごちそうさま」
 ロベリアは口許の泡を拭い、マスターにウインクして、礼を述べた。マスターはロベリアの無事な様子に、ホッとした様子だった。
 そんなロベリアへドッグが物言いたげに近づいた。が、それをアッシュが制し、代わりに隣へ座る。
「心配したぜ、ロベリア。無事で何よりだった。で、ヤツはどうした?」
 アッシュは相変わらず笑みを浮かべながら、優しくロベリアに尋ねた。だが、その眼は決して笑っていない。
 それに対し、ロベリアは肩の凝りをほぐすかのように首を回しながら、めんどくさそうに答える。
「あの男? さあ? 《金蹄通り》の廃屋に連れて行かれて、私をそこで縛った後、どこかへ行ってしまったわ。私はその隙に自力で脱出してきたのよ。男の行き先なんか、知りもしないわ」
「そうか。で、ヤツは自分のことについて何か言っていたか?」
「別に。まあ、人質の私に自分のことをペラペラ喋るとも思えないけど」
「そうだな」
 アッシュはロベリアの言葉に相づちを打った。そして、目線だけドッグへ向ける。それが何を意味するのかドッグには分かったようで、ロベリアに気づかれぬよううなずいた。
 そこへ再び《涸れ井戸》の扉が開かれた。黒衣の人物が入口に立っている。
 当然、用心棒は見咎めた。
「何者だ、貴様。もう店終いだぞ!」
 恫喝の声にも黒衣の人物はまったく動じなかった。
 黒い旅帽子<トラベラーズ・ハット>に黒いマントの旅姿。近くに立つ大男と比べると、かなり線が細い体つきだ。顔は見えなかったが、長く垂らした黒髪から女かと見間違う。
「ひとつ尋ねたいことがある」
 突然の来訪者は低い声音で言った。男の声。だが、透き通った印象を受ける美声だ。
 その声に誰もが振り向いた。そして、男の顔が旅帽子<トラベラーズ・ハット>の下から現れる。
 そのとき、誰もが絶句した。
 美しさとは、ときに畏怖を抱かせるものだと、この場の者たちは初めて知ったに違いない。感嘆の吐息さえ許さぬ美貌。男の眼に射抜かれると、魂すら抜かれるのではないかと思えた。このような人間が世界に存在しようとは。誰もが震えた。
 時が動き始めたのは、男が歩を進めたときだった。皆、ハッと我に返る。
「貴様!」
 男の美貌に恍惚となったことを打ち消すかのように、用心棒である大男はつかみかかった。だが──
 用心棒の手は空振りした。信じられないといった様子で自分の手を見つめる。
 男はすでに下へ降りる階段を歩んでいた。用心棒がその背中を呆然と見送る。魔性のごとき美貌に心を奪われていたせいで、つかみかかろうとした意識と行動がともなわなかったのだ。すなわち、男をつかまえようとしてから、実際に手を伸ばした間には、無意識のタイムラグが生じていたのである。それは、いかに用心棒の思考が麻痺していたかの表れであった。恐るべきは凄絶なる男の美貌だ。
 男は悠然と階段を降り、フロアへ到達した。そのまま、カウンターの近くにいるアッシュやロベリアの方へと近づいていく。
 靄がかかったような思考をようやく振り払い、《涸れ井戸》にわずかに残っていたギルドの構成員たち四人は、男に対しての敵意を奮い立たせた。先程、ラーク一人にまんまとしてやられた彼らにとって、同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。男の行く手を遮るように、武器を構えた。
「とっとと帰れ! さもないと、その顔に傷がつくぜ!」
 ギルドの一人が恫喝した。半ば、自分を鼓舞するためのものである。でなければ、再びこの男の魔性に取り込まれかねない。
 アッシュは黙って、それを眺めた。そのそばにはドッグが守るように控える。
 ロベリアはカウンターから離れようとしたが、アッシュに腕をつかまれ、それを阻まれた。仕方なく従い、再びスツールに腰を落ち着かせる。
「オレは尋ねたいことがあるだけだ。事を荒立てたくない」
 男は無感情に言った。決して目の前の武器を持った四人を恐れている様子はない。それは彼らにとって屈辱となり、怒りに火をつけた。
「なめた態度しやがって!」
 ラークに逃げられた腹立たしさを男にぶつけようと、四人の構成員たちは取り囲むように動いた。
 その刹那、男はマントの裾を持ち上げ、身を半分ひねるようにして覆い隠した。男の口から耳慣れない言葉が漏れる。
「クライマン・ザヒーバ!」
 マントがはねのけられるや、その影から黒くて大きな何かが飛び出してきた。獰猛な咆哮が上がる。
「ガアアアアアッ!」
 一体どこに隠れていたのか。男の黒いマントから現れたのは、一匹の黒豹であった。鋭い牙を剥き出しにして、構成員の一人に襲いかかる。
「うわああああっ!」
 黒豹に押し倒されるようにして、構成員は弾き飛ばされた。その他の者たちは、突然の猛獣の出現に目を剥く。
 黒豹は俊敏だった。着地と同時に身をひねり、次の目標へと飛びかかっていく。爪が武器を払い、構成員を縮み上がらせた。
 すぐに四人の戦意は喪失した。人間相手にはひるまない彼らも、凶暴な黒豹が相手となれば別だ。
 二人に襲いかかった黒豹は、物足りないとでも言いたげに口の周りを舐めると、男の足下へ主人に甘えるようにすり寄った。ただし、喉は雷のように鳴らしたままだ。
 それを見たアッシュは、愉快そうに笑い、拍手をした。
「素晴らしい! このような見せ物、初めて見た! ──いや、失礼。部下たちの非礼、お詫びしよう。何なら、一杯おごらせてもらおうか?」
 賛辞を述べるアッシュに、男はまたしても表情を変えなかった。一度、チラリとロベリアを見やった後、アッシュに向き直る。
 その男の一瞬の眼に、ロベリアはぞくりとした。何もかも見透かすような眼。あらゆる危険な者たちが集まるベギラでも、このような眼の持ち主はいないだろう。ロベリアは男の美しさに魅了されながらも、底知れない恐怖を禁じ得なかった。
 だが、男はそれきりロベリアに関心を示さず、盗賊ギルドの若き幹部であるアッシュに対した。
「話を少し聞くだけだ。ここへラークという男が来なかったか?」
 男の出した名前に、ロベリアの目は大きく見開かれた。この男はラークの知り合いなのか。
 しかし、尋ねられたアッシュはといえば、まったく表情を変えずに質問を受け止めていた。さすがである。他の者たちも余計な口は差し挟まなかった。
 アッシュは男に首を傾げて見せた。
「知らないな。ここは常連ばかりが来る店だ。余所者が来たら、一目で分かると思うぜ」
「本当か?」
「ああ」
「邪魔したな」
 男はあっさりと踵を返すと、黒豹をともないながら、引き返していった。近くまでやって来ていた用心棒の大男が、ヒッと引きつった声を上げて、脇へどく。
「待ちなよ」
 アッシュが引き止めた。男は背を向けたまま立ち止まる。代わりに黒豹がアッシュの方を向いた。
「その捜しているヤツは、あんたの知り合いか?」
「いや。ある人物に頼まれて捜しているだけだ」
「へえ。そりゃ大変だな。オレたちが見つけたら教えてやろうか?」
「そうだな。また夜にでも来てみよう」
「分かった。オレはこの街で顔が広い。気にかけておこう。──オレはアッシュ。あんた、名は?」
 尋ねるアッシュに、ようやく男も振り向いた。そして、呟くように答える。
「ウィル。ただの吟遊詩人だ」


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