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「ドッグか」
背後に現れた気配を察知し、アッシュは振り向きもせずに言った。
自分のアジトに戻っていたアッシュは、イスにもたれたまま眠っているように見えたが、常に周囲を警戒を怠ってはいなかった。盗賊ギルドの幹部となってからは、安眠など味わったことはない。ここベギラでは、盗賊ギルドに歯向かう者はいなくても、アッシュの寝首を掻こうとする者は、内部にいくらでもいる。だから、アッシュがベッドを使うのは女と寝るときだけであって、普段はイスに座ったまま、浅い眠りにつくのだった。
「朗報です」
二名の部下を率いたドッグはうやうやしく告げた。まだ、ウィルに受けた傷が痛んでいたが、休んでいる暇などない。
「捕らえたか?」
「はい。あのラークという男を捕らえました。例の場所へ、すでに連行しております。ただし、ロベリアは逃がしてしまったようです」
「そうか」
アッシュはイスから体を起こした。そして、上目遣いでドッグの方を見る。
「あのウィルとかいう吟遊詩人の行方はどうなっている?」
アッシュは一番気になっていることを尋ねた。ウィルがラークを手助けしていることは、すでに把握している。地下酒場《涸れ井戸》に現れたときから、ただの吟遊詩人ではないと思っていたが。
ウィルという名に、ドッグの表情はしかめられた。ドッグに手傷を負わせた男。恨みに思わぬわけがない。
「現在の足取りは分かっていませんが、《堕楽館》を訪れたという報告が入っています」
「《堕楽館》だと?」
アッシュは初めて意外そうな声を上げた。
《堕楽館》は、ベギラのギルドマスター、マダムの根城だ。ウィルが偶然にそこを訪れたとは思えなかった。
「あの吟遊詩人、マダムの命で動いているのでしょうか?」
そう問いかけたのはドッグである。
アッシュは笑った。
「確かに、あの吟遊詩人の顔を見たら、マダムが惚れ込みそうな感じだな。だが、オレにはヤツとマダムが組んでいるようには思えない。敵同士というのなら、まだしもな」
そう言いながら、アッシュはウィルの目的を頭の中で考えていた。
マジック・アイテム《恭順の耳》のことは、マダムには秘密にしてあった。それはギルドの掟を破ることにもつながる。もしも、それがウィルの口から語られたとすれば、アッシュに何らかの処罰が下されるだろう。
そう考えていた矢先だ。突然、ドッグが部屋の扉の方へ振り向き、緊張した顔つきで短剣<ショート・ソード>を抜いた。くわえていた爪楊枝が、ピンと立てられる。やや後退した。
扉の外に誰かがいる。それも息をひそめて、こちらを窺うかのように。
それはアッシュも気がついていた。だが、焦った行動は取らない。ただ、壁に立てかけていた大小二つの剣を手にした。
アッシュとドッグの顔から感情の色がすっと引き、無表情になった。ピリピリとした緊張感が走る。
何者か。言えることは、アッシュの部下ではないということだけ。彼らなら、気配を殺すようなマネはしない。
ドッグは二人の部下に目配せし、扉を開けるように指示した。二人の部下は固唾を呑み、互いの顔を見合わせてうなずく。剣を手にしたまま、扉の両側に配置し、外を窺う二人。だが、彼らでは、扉の向こうに誰かがいるのかどうかさえ分からない。意を決して扉を開け、武器を構えた。
そこには誰もいなかった。一瞬、ホッと気がゆるむ。
刹那──
頭上より黒い影が襲った。
「ヒッ!」
見上げる間もなかった。二人の頭に振り下ろされる凶刃。一瞬にして、二名の部下たちの命は奪われた。
「おでましか」
降り立った黒い影に、アッシュは笑みすら浮かべた。黒い影は小山のように盛り上がり、こちらへと向き直る。
それは筋骨隆々とした大男だった。ただし、上半身は裸で、髪を剃り上げた頭から濡れ光る真っ黒な塗料を塗りたくっているという、奇妙な姿である。その両手には、アッシュの部下たちを屠った武器が握られている。親指を除いた四指にはめて握る、半円形の刃──セスタスだ。
大男はニッと笑った。顔は真っ黒なので、白い歯ばかりがやけに目立つ。体格は大きいが、扉の上に潜んでいたことを考えると、身のこなしは驚くほど軽いと思われた。
「お前がフィアーだな?」
アッシュが問うた。すると大男はうなずく。
「ほう。オレのことを知っているとは」
感心するフィアーに、アッシュは肩をすくめた。
「こうして会うのは初めてだが、ギルドのフィアーと言えば有名だ。殺しを専門に引き受けるハゲタカがいるってな」
アッシュは挑発するように言った。だが、フィアーは、それに怒った様子も見せず、笑ったままだ。
「そうかい。じゃあ、もう一つ、知っているだろう? オレの姿を見た者は、一人残らず死んじまうってことを」
フィアーはそう言って、両手にはめているセスタスの刃を打ち合わせるようにして鳴らした。シャキン、シャキンと、切れ味の良さそうな音がする。
「マダムからの命令か?」
アッシュは言わずもがなのことを尋ねた。首肯するフィアー。
「最近、マジック・アイテムを手に入れたらしいじゃないか。あれはどんな品物でも高価なものだ。魔力も宿っている。入手したときはマダムに報告すること。それがベギラのギルドの掟じゃなかったか?」
表情は笑みを保ったままだが、その眼はギラギラとアッシュを狙っていた。このフィアーという男は、生まれつきの野獣なのだ。
だが、アッシュもまた、ベギラで恐れられている盗賊ギルドの幹部だ。不敵さでは劣らない。
「そうだったな。つい、うっかりしていた。──こんな答えじゃ、満足いただけないのだろう?」
「ああ、満足できないな。それに最近の貴様の動きは不穏だという情報も、あちこちから入っている。貴様、マダムを裏切るつもりではないだろうな?」
フィアーの鋭い眼がアッシュを射抜いた。アッシュはそれを平然と受けきる。
「アッシュ、お前をここまで育ててくれたのは誰だ? お前はその恩義すら忘れたというのか?」
右手のセスタスを前に構えながら、フィアーは中へと入ってきた。その巨躯に似ず、素軽い移動だ。
アッシュを守るようにドッグが立ちふさがった。短剣<ショート・ソード>を構え、微動だにしない。
アッシュは答えた。珍しく、吐き捨てるようにして。
「恩義? 幼かったオレが、どれだけヤツに弄ばれたか、お前は知るまい。死んだ方がマシだと思うほど、毎日が恥辱に紛れた日々だった。オレは十三歳になるまで、ヤツの玩具同然だったのさ! その屈辱をオレは忘れはしない! いくらヤツがオレをギルドの幹部に仕立て、寵愛を受けようともな!」
フィアーの眼が、スッと細まった。
「愚かな。マダムに逆らうとは……」
「ふっ。何ならお前が、その尻を差し出してやれ!」
そう言うや否や、アッシュは床のスイッチを踏んだ。すると突然、フィアーの床下が消失する。落とし穴だ。その下には背も立たぬほどの水がたたえられている。
だが、フィアーは反応良く、その罠を回避していた。割れた戸板を蹴るようにして、後方へ着地する。巨躯の割に見事な身のこなしだった。
仕留め損なったアッシュだが、恐るべき刺客を前に微笑んだ。
「さすがだ。しかし、ここはオレのアジト。生きて帰れると思うなよ」
フィアーの後ろから、続々とアッシュの部下たちが現れた。落とし穴を開くと、待機している部下たちに報せが行く仕掛けだ。
その危機に対し、フィアーもまた愉悦を禁じ得ない者であった。
「さて、死ぬのはどちらかな?」
フィアーはセスタスを握り直すと、敵の攻撃に備えた。
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