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吟遊詩人ウィル

暗黒街の歌姫

−21−

 瞬く間にアッシュの部下たち八名がフィアーを取り囲んだ。だが、異様な姿の侵入者に、少なからず動揺を隠せない。真っ黒い顔の中で眼だけが動き、一人一人を睥睨するかのようだった。
「侵入者はたった一人だ! 生きて帰すな!」
 ドッグの声が部下たちを鼓舞した。そう、目の前の侵入者はわずかに一人。どんなに恐ろしかろうと、八名が束になれば敵わぬ相手ではないはず。八人は冷静さを取り戻した。
 フィアーを落とし穴に追い込むように、八人は半包囲の形を作り、じりじりと間合いを詰めた。
 一方、フィアーは低く重心を落とし、攻撃に備える。一度、両手のセスタスの刃を打ち鳴らした。
 シャキーン!
 室内に響き渡る金属音。それはこもるように長く尾を引き、周囲は聞き入ったかのように沈黙に落ちる。
 ──と。
 その余韻が消えた刹那、それが合図であったかのように戦いは開始された。
「やあーっ!」
 恐怖を克服するかのように腹の底から声を絞り出し、部下の一人が短剣<ショート・ソード>を突き出した。
 フィアーの武器であるセスタスは、刃の形状が半円形であるため、剣を受け止めることには向かない。代わりに素早く反応し、突き出される短剣<ショート・ソード>を払いのけた。
 だが、フィアーに襲いかかるのは、アッシュの部下たち八名だ。一撃目を防いでも、次々と剣は繰り出される。
 それでもフィアーは両腕を素早く動かし、八方からの攻撃をことごとく弾いた。驚嘆すべきは、その体技と判断力の正確さ、そして反応スピードだ。どれひとつ欠けても、八名の攻撃をここまで見事に回避することはできまい。
 裸になっている上半身の筋肉は躍動しているかのようだった。黒い野獣。そういう表現がフィアーにはぴたりとはまった。
 しかし、そんなことはフィアーにとって稚技にも等しかった。やがて、一人一人の攻撃がパターン化し、より読みやすくなる。すると今度はフィアーが攻勢に出た。
 カキーン! 
 短剣<ショート・ソード>の攻撃を弾かれた一人が大きく体勢を崩した。フィアーが本気を出し始めたのだ。一人、二人とよろめき、半包囲の陣形が崩れ出す。八人で手傷も負わせられなかった彼らが、数を減らして抑えられるわけがない。攻撃の間隙を見逃さず、フィアーは完全に陣形を崩壊させてしまった。
 黒い肉体が愚かな獲物へと襲いかかる。
「うわぁっ!」
 ひるんだ相手の喉笛に、フィアーはセスタスを一閃させた。鮮血がほとばしるようにしぶく。わずか一撃。まさに野獣だ。
「うわあああああっ!」
 声にならない悲鳴を上げて、アッシュの部下はフィアーの背後から襲いかかった。だが、黒い風が巻き起こり、次の瞬間、激痛と共に武器を放り出してしまっている。それがフィアーの後ろ回し蹴りの仕業だと気づいたかどうか。粉々に砕けた痛む手を押さえる間もなく、セスタスの凶刃が男の命を奪った。
 強い。圧倒的な強さだ。残った六人は、殺しのエキスパートを見上げ、おののいた。
「一斉にかかれ!」
 再びドッグから指示が飛ぶ。六人は横に並んで囲むようにし、一斉に突撃していく。突き出された六本の剣。逃げ場はない──はずであった。
 寸前、フィアーは適当な一人に向かってダイブするような動きを見せた。両腕のセスタスの刃が、不運な男の肩の肉はもちろん、骨にまで怖気立つような音を響かせて食い込む。そのままフィアーは倒立するような格好で、男の上を乗り越えた。その巨躯に似合わず、何という身軽さか。
 両肩をずたずたにされた男は、あまりの激痛にのたうち回った。もう剣は握れないだろう。その無惨な有様に、仲間たちはすっかり青ざめた。
 戦意を失った者たちを屠るのは、フィアーにとって造作もなかった。一人は頭をかち割られ、一人は顔を切り裂かれる。それを見ながら、フィアーは笑った。
 フィアー。その通り名のごとく、“恐怖”こそ、この男にふさわしかった。
「アッシュ様……」
 部下たちの劣勢に、ドッグは振り返った。だが、アッシュはまだ動かない。ドッグにも戦うよう命じなかった。
 そんな様子を見て、フィアーは不敵な笑みを見せた。アッシュが手も足も出せず、すくみ上がっていると思ったのだろう。フィアーはゆっくりとアッシュの方へ近づいてきた。
「どうやら、オレの恐ろしさがようやく分かったようだな。だが、もう遅い。ギルドの掟は絶対。マダムに歯向かった者は容赦しない」
 フィアーはまたセスタスを打ち鳴らした。両者の間を落とし穴が隔てているが、フィアーの身体能力ならば、易々と跳び越えることが可能だろう。むしろ逃げ場がないのはアッシュの方だ。
 それでもアッシュは平静さを保っていた。まだ何か秘策が残されているのか。恐るべき刺客に対し、命乞いなどしない。それどころか、
「フィアー。お前こそ考え直したらどうだ? オレと手を組め。そうすれば、このベギラの半分はお前にやろう。あんなオカマ野郎はぶっ殺し、オレとお前で、このベギラを支配するのだ」
 と提案までしてくる。これにはさすがのフィアーも呆れた様子だった。
「何をバカなことを。そんなことをオレが受け入れると思っているのか?」
「お前のためを思って言っているんだ、フィアー」
 アッシュの言葉を聞いて、フィアーの顔から笑みが消えた。
「……つくづく愚かなヤツめ。オレの恐ろしさを心底から教えてやるぞ」
「ふっ。お前の方こそ殺しのことしか頭になく、この好条件を呑まぬとは」
「何を? ──おい、お前ら!」
 フィアーは不意に振り返り、逃げ出す算段をしていたアッシュの部下たちを呼んだ。残っていた三人がすくみ上がる。
「最後のチャンスをやろう。どこでもいい。オレはこれから後ろを向くから、一斉に斬りかかってこい。それでオレを殺すことが出来れば、お前たちの勝ち。もし、十数えても、お前たちがかかってこないなら、今度はオレの方から行って殺すぞ」
 とんでもない提案だった。だが、否を言うことは出来ない。この場での主導権はフィアーにある。
 フィアーは約束通り、三人に対して後ろを向いた。つまりは、アッシュたちの方に向く格好である。さらに両手を上げ、無防備を装った。
「一、二、三……」
 フィアーは数え始めた。アッシュの部下たちは逡巡する。行くも地獄、帰るも地獄。三人のうち、二人が剣を握り直した。
「……六、七、八……」
「わああああああああっ!」
 二人が奇声を上げながら、フィアーに襲いかかった。フィアーはカウントダウンを続けるだけで動かない。眼すらつむっていた。
 フィアーの首筋と側腹部に渾身の一撃が浴びせられた。だが、次の瞬間、攻撃した二人の目が驚愕に見開かれる。
 短剣<ショート・ソード>は、確かにフィアーを捉えていた。しかし、その肉体を少しも傷つけることが出来ていない。剣はフィアーの黒い肉体に阻まれていた。
「ご苦労。──だが、仕留め損なったようだな」
 無情にも、フィアーは両腕を横にし、振り向きざまの斬撃を二人に見舞った。アッという間に二人の首が真っ赤な口を開ける。それを見た残った一人が、恐怖に駆られて逃げようとした。
「かかってこなかったら殺すと言ったはずだ」
 フィアーは死体が握っている短剣<ショート・ソード>を奪い取ると、それを逃げる男の背へ投げた。矢のごとき速さで飛んだ剣は、男の背から胸へと突き抜ける。男は糸を断ち切られた操り人形のように、その場に倒れた。
 フィアーは満足そうにアッシュの方へ振り向いた。
「見たか? オレに剣は通じんぞ。この黒い染料が全身に塗られている限りな」
 それは特別な染料だった。とある北の蛮族が秘伝として伝えてきたものと言われているが、その製造法などを含めて、確かなことは分からない。ただ、それを人間の肌に塗ると、その柔軟性や弾力性を失うことなく、鋼の鎧以上の強度を得ることができるのだ。
 もちろん、水などに濡れても染料が落ちることはなく、約一日は持続する。これほど強固な鎧は他になかった。
 フィアーはアッシュたちにおぞましい笑みを向けた。そして、死刑執行を告げるかのようにセスタスの刃を打ち鳴らす。
 シャキーン!
 最凶の刺客は、ゆっくりと獲物の方へ足を踏み出した。


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