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吟遊詩人ウィル

暗黒街の歌姫

−30−

 ベギラの街に夜の帳<とばり>が降りようとしていた。
 昼間、あれだけ死んだように静まり返っていた街が息を吹き返す。あちこちで明かりが灯され始めた。人々はそれに吸い寄せられる蛾のように、酒や賭事、そして女など、それぞれの欲望を満たすものを求めて、街路へと繰り出す。
 《幻夜通り》に建つベギラ最大の娼館《堕楽館》にも、開店と同時に大勢の客が訪れていた。ここへは上物の客しかやって来ない。それだけ高級の娼婦しか揃っていない証拠でもあった。
 だが、客のほとんどは、ここの主人が女装趣味の気色悪い男だと知っていても、このベギラの街を牛耳るギルド・マスターだとは知らない。もし知っていれば、簡単に近づこうとはしないだろう。噂でささやかれるギルド・マスターは冷酷非情。どんな悪党も震え上がる。
 その《堕楽館》の裏口に、音もなく人影が立った。フィアーだ。裸である上半身は秘伝の塗料のお陰で真っ黒で、夜目には目立たない。盗賊ギルドの刺客は周囲の様子を窺いながら、そっと裏口の扉を開けた。
「──!」
「お待ちしていましたよ、フィアーさん」
 扉を開けると、そこには白いシャツに黒のチョッキを着た美少年が待ちかまえていた。この店の従業員であるスマイルだ。
 その名の通りの微笑みを向けながら、スマイルはフィアーを迎え入れた。
 一瞬、逡巡したフィアーであるが、すぐに無言でうなずき、中に入った。セスタスはベルトの後ろに挟んである。
「もう来る頃だと思っていました。さあ、マダムがお待ちかねです」
 スマイルはそう言うと、先に立って歩き始めた。フィアーは無言で後に続く。
 スマイルは支配人室へと案内した。一度、フィアーの方を振り向いてから、ドアをノックする。
「フィアーさんがいらっしゃいました」
「通してちょうだい」
 中から返事があり、スマイルはドアを開けた。そして、フィアーを招き入れる。
 この店の支配人であり、この街のギルド・マスターであるマダムが、煙管<キセル>をふかしながら、深々としたソファーに腰掛け、ゆったりとくつろいでいた。赤いスパンコールが輝くドレスを身につけ、白いフワフワとした襟巻きをしているが、歴とした男である。室内は咽せ返りそうなほどの芳香が立ちこめていた。
 フィアーはマダムを前にして、跪いた。恭順の礼を取る。
 スマイルはその後ろ、ドアの脇に立った。
「面を上げなさい。それで首尾はどうだったかしら?」
 野太い声なのに女言葉を使い、マダムは子飼いの刺客に尋ねた。これまでフィアーが仕損じた仕事はない。それはマダムも充分に承知している。
 フィアーは顔を上げた。
「はっ、ご命令通り、マダムに従うようアッシュに警告しましたが、ヤツはまったく聞き入れず、やむなく命を奪いました」
「そう……」
 マダムは気のないような返事をして、紫煙を深く吐き出した。それきり何も言わず、ただフィアーを眺めたまま。
 フィアーもまた、動けなかった。何百人も平然と殺してきた盗賊ギルドの刺客が、マダムの前では完全に萎縮している。冷や汗すら浮かんでいた。
「本当に?」
 ぽつりと思い出したようにマダムは尋ねた。思わず、フィアーの頬の筋肉が動く。
 もう一度、煙管<キセル>を口にするマダム。
「ねえ、本当にアッシュを殺せたの?」
「……はい」
 努めて普通に答えようとすればするほど、声に緊張が含まれた。フィアーの下げている頭がぐらつく。限界だった。
「──お、お命頂戴!」
 突然、フィアーは弾かれたように、目の前でくつろいでいるマダムに飛びかかった。ベルトからセスタスを抜き、斬りかかる。
 キン!
 甲高い金属音が響いた。フィアーの凶刃がマダムの持つ煙管<キセル>ただ一本によって受け止められたのだ。驚愕するフィアー。
 続いて繰り出した二撃目も、マダムには通用しなかった。さすがはギルド・マスターと呼ぶべきか。
 マダムはソファーに座ったまま、深紅の絨毯を蹴った。ソファーごと、後ろへひっくり返る。マダムはそれを利用して後方一回転し、起き上がった。
「スマイル!」
 フィアーの背後からスマイルが襲いかかった。右手の人差し指、中指、薬指を揃えると、爪が鋭く伸びて、一枚の刃と化す。フィアーは素早く、それを回避した。二人の位置が入れ替わる。
 フィアーは振り返り、マダムとそれを守るように立つスマイルを見た。せっかくの仕留めるチャンスを逸し、次にどうすべきかを考えているようだ。
 そんなフィアーに眼を向けながら、マダムは煙管<キセル>をくわえた。
「やっぱり、《灰燼剣》でアッシュの手先になったのね。まあ、お前じゃ、本当にアッシュを斃せるかどうか不安だったんだけど。どうやら、刺客も次のを育てないといけないようね」
 けだるそうにマダムは言う。この状況を何とも思っていないかのようだ。
 シャキーン!
 フィアーはセスタスの刃を打ち鳴らした。どうやら、是が非でもマダムを殺すことに決めたらしい。
「マダム、お下がりください」
 スマイルが油断なくフィアーを窺いながら言った。
 するとフィアーがスマイルをねめつける。
「お前こそ、どいたらどうだ? その若さで死ぬことはないぞ」
「残念ながら、僕にはマダムをお守りするという役目があります。簡単にどくわけにはいきません」
「そうか。では──力ずくだ!」
 フィアーはマダムよりも先に、スマイルを殺しにかかった。
 スマイルは、さすがに日頃からマダムに付き従い、すべてを教え込まれているのだろう。弱冠十五歳くらいにして、その動きは刮目に値する。が、相手はフィアー。ギルドの刺客だ。到底、及ばない。
 スマイルの爪がフィアーの喉笛に突き立ったのは僥倖。だが、皮膚を突き破れない。黒い塗料のせいだ。
 フィアーがニッと笑った。右手のセスタスが振るわれる。
 ザクッ!
 セスタスはスマイルの胸元を切り裂いた。
 手応えは充分。スマイルは信じられないといった表情で、深々とした絨毯に音もなく倒れた。
 マダムは寵愛していた美少年の死を冷徹に見下ろした。そんなギルド・マスターに、フィアーはようやくいつもの調子を取り戻し、ゆっくりと迫る。
「次は貴様だ……」
「次? それはスマイルを本当に斃してからのセリフじゃないかしら?」
「何?」
 マダムは倒れたスマイルを指し示した。
 フィアーは見た。殺したはずのスマイルが、見えない力に操られたかのように立ち上がるのを。それは命のない人形がそのままの姿勢で起き上がるような不気味さがあった。
 スマイルは茫然とした様子で、フィアーに受けた胸元の傷を見つめた。シャツが切り裂かれ、白い肌が露出している。血の気がないような肌の白さに、生々しい流血。そして、左手で傷を触り、ついた血をペロリと舐める。その刹那、スマイルの眼が妖しく輝いた。
 フィアーは後ずさった。スマイルの傷は決して浅くないはずだ。それはフィアーが一番分かっている。だが、こうして起き上がってくるとは。目の前の美少年が、とんでもない化け物に思えた。
 自らの血を口にしたスマイルには変化が生じていた。まず、傷が瞬く間に消えた。そして、グレーだった瞳は赤へと変じ、犬歯が異様に伸び始める。それは牙──いや、乱杭歯だ。
 スマイルはゾッとした笑みをフィアーに向けた。
 よろけるフィアーが呟く。
「吸血鬼<ヴァンパイア>……」
 それに対し、マダムは首を横に振った。
「それでは半分しか正解にならないわ。スマイルはダンピール。吸血鬼<ヴァンパイア>と人間のハーフよ」
 ダンピールのスマイルは、爪の刃を閃かせ、再びフィアーへと挑んだ。だが、ダンピールとして覚醒した今、そのスピードは先程の比ではない。フィアーは防戦一方に回った。
 スマイルの攻撃は、とてもセスタスでは受けきれなかった。もし、フィアーが黒い塗料を全身に塗っていなかったら、とっくの昔に切り刻まれていたことだろう。フィアーの巨体が縮こまるように丸まる。
「しぶといですね、フィアーさん。でも、その黒いのが塗ってないところを狙えば──」
 スマイルの爪がフィアーの眼へと迫った。ドッグの爪楊枝に貫かれた恐怖が甦る。フィアーは咄嗟に顔を防御した。
 そこへスマイルの蹴りがボディへめり込む。これには秘伝の塗り薬も通用しない。フィアーはその巨体を二つに折った。
 よろけるようにして、その場に膝をついたフィアーは、腹を押さえたまま、胃の中の物を吐き出した。それほどに強烈なキック。スマイルはくすくすと笑った。
 顔をしかめたのはマダムだった。
「スマイル。私の部屋を汚さないでちょうだい」
「申し訳ございません、マダム」
「──さて、そろそろアッシュの居場所を教えてもらおうかしら、フィアー。それとも灰にされたい?」
「………」
 フィアーは苦痛に顔を歪めながら、マダムたちを見上げた。
 そのとき──
 複数の悲鳴が聞こえてきた。《堕楽館》の正面入口の方だ。
 反射的に、マダムとスマイルは、そちらへ注意を向けた。その隙にフィアーは立ち上がり、頭から窓を突き破って、外へと脱出する。だが、スマイルは追わなかったし、マダムも追わせなかった。
 マダムは煙管<キセル>を灰皿に叩きつけ、一服するのをやめた。そして、呟く。
「どうやら、あちらから乗り込んできたようね」
 マダムはドアの向こうを見通すように見つめながら、楽しそうな笑みを浮かべた。


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