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吟遊詩人ウィル

暗黒街の歌姫

−33−

 フィアーが戦いに加わった隙に、アッシュは《堕楽館》の奥へと侵入していた。ギルド・マスターのマダムがいるとすれば、この奥の支配人室か、三階にある私室のはずだ。すでにこの娼館の内部は知り尽くしている。アッシュは用心深く、廊下を進んだ。
 角を曲がると、支配人室の前にスマイルが立っていた。だが、特に敵対する意思はないのか、身構える様子は見られず、いつもの穏やかな笑み。アッシュもこのスマイルだけは、昔からマダムの寵愛を受け続けてきた同じ境遇だけに、弟のように思って接してきた。スマイルもまた、アッシュを慕っているようなところがある。しかし、だからといって、ここまで来たからには決して油断はしないアッシュだ。
「スマイル、マダムは中か?」
 いつでも《灰燼剣》で攻撃できるように備えながら、アッシュはスマイルに尋ねた。スマイルは拍子抜けするくらい、あっさりとうなずく。すでにアッシュの裏切りを知っているにも関わらず。
「お久しぶりです、アッシュさん。ですが、ここをお通しするわけには参りません」
 柔らかい物腰はそのままに、スマイルは言った。
 アッシュは肩をすくめる。
「なあ、スマイル。お前はマダムに利用されたままでいいのか? オレたちの力は、もっと有意義に活用すべきだ。それだけのものをオレたちは持っているんだぞ。そうだろう? それをムダにしていいのか? スマイル、オレと共に来い。そして、もっと上を目指そう」
「アッシュさん……」
 スマイルの表情から笑みが消え、悲しげに曇った。そして、かぶりを振る。
「僕はアッシュさんのようにはなれません。穢<けが>れた血と忌み嫌われてきた僕を拾い、ここまで育ててくれたのはマダムです。今度は僕がマダムに恩を返す番。ですから、この扉は、たとえアッシュさんでもお通しできません」
 兄貴分であるアッシュに対し、スマイルは真っ直ぐに見つめて言い切った。その瞳は深紅。闇の貴族たる吸血鬼<ヴァンパイア>の血を引くダンピールの証だ。
 アッシュは唇を噛んだ。目線を伏せる。
「どうしてもか?」
「はい……」
「ならば仕方あるまい」
 アッシュはすでに左手に握っていたガラスの小瓶を宙に放り投げ、《灰燼剣》でそれを粉々にした。灰色の煙が生じ、中から三匹の巨大なネズミが現れる。ジャイアント・ラット。昔からベギラの地下下水道に巣くっており、その凶暴性と繁殖力が恐れられているモンスターだ。群で襲われたら普通の者はひとたまりもない。
 三匹のジャイアント・ラットは、スマイルへと襲いかかった。人間くらいの大きさがあるのに、素早さは他のネズミと変わらない。
 ジャイアント・ラットの襲撃に対し、スマイルはようやく戦闘態勢に入った。爪が伸び、剣のような鋭さを増す。
「キキーッ!」
 耳障りな啼き声を発し、一斉に飛びかかるジャイアント・ラットたち。スマイルの右手が一閃する。
 直後、ジャイアント・ラットの動きが空中で止まった。それが刹那にして灰と化す。スマイルの攻撃が的確に急所を捉えたのだ。だが──
 崩れ去る灰を突き破るように、アッシュの《灰燼剣》がスマイルへ迫った。これこそがアッシュの狙い。ジャイアント・ラットは目くらまし。三匹を一撃のもとに葬り去ったスマイルは虚を突かれた。
 ドッ!
 スマイルの眼が見開かれた。そして、アッシュも。
 《灰燼剣》はスマイルの胸を貫いていた。剣先が背中に抜けている。しかし──
 スマイルは灰にならなかった。刺される一瞬、わずかに体を逸らし、《灰燼剣》から心の臓を守ったのだ。
 だが、傷が深いことに変わりはなかった。スマイルはアッシュにもたれ込むようにして派手に吐血する。全身が痙攣した。
 アッシュはスマイルの身体を支えるようにして、《灰燼剣》を抜いた。スマイルは壁に寄りかかるようにして立つが、元々、青白い顔色が、益々、血の気を失っている。それでも絶命しないでいられるのは、吸血鬼<ヴァンパイア>とのハーフであるダンピールの驚異的な生命力のお陰だろう。
「アッシュさん……」
「すまないな、スマイル」
 瀕死のスマイルに対し、アッシュはあえてトドメを刺すようなことはしなかった。動けぬスマイルをそのままに、アッシュは目の前の扉を開け、支配人室に踏み込んだ。
 そこは相変わらず悪趣味と言えるほど毒々しい色使いの部屋だった。むせるような芳香が蔓延しており、思わず口と鼻を覆いたくなる。
 マダムは捜すまでもなかった。ちょうど窓のところでたたずみ、アッシュに対して背を向けている。背中が大きく開いた真紅のドレス。しかし、その肩幅はがっしりとして男のものに他ならない。
 踏み出した足音は、深い絨毯によって吸収された。そのまま、ゆっくりとマダムへ近づくアッシュ。
「死ぬときの記憶って、残るものなのかしらね、アッシュ」
 振り向きもしないまま、不意にマダムが呟くように言った。ぴくりと、アッシュは足を止める。
「オレに訊かれても分かりませんね、マダム」
「そう。お前でも知らないのかい?」
「試してみちゃどうです? オレが手を貸しますから」
 アッシュは《灰燼剣》をマダムに向けた。
 マダムが悠然と振り返る。手には広げた豪奢な扇を持ち、口許を隠しながら。
 さらに一歩踏み出したアッシュの足がぐらついた。慌てて持ちこたえるが、まるで千鳥足のようだ。意識がぼーっとし、視界がかすむ。
 アッシュの直感が危険を知らせていた。何かがおかしい、と。
 マダムの忍び笑いが聞こえてきた。
「どうやら効いてきたようね。この香水の匂いは、免疫のない者が嗅ぐと、たちまち眠りに誘われるのよ。ここへわざわざ飛び込んできたのが命取りだったわね。まあ、ここまで私に逆らったのは、お前が初めてだけど。すべては私を甘く見た報い。後悔しても、もう遅いわ」
 マダムはそう言うと、手に持っていた扇を投げつけた。その瞬間、扇の両端が金属のような反射を見せる。刃がついているのだ。
 扇は天井近くまで浮かび上がってから、突如、アッシュを目がけて急降下した。予測不能の動き。アッシュはそれを床に倒れ込むようにして、避けようとする。しかし、香水のせいで身体が満足に動かない。扇は反応の遅れたアッシュの頭をかすめた。髪の毛が数本散る。扇は、まるでブーメランのようにマダムの手元へと戻った。
「よく交わしたわね。でも、今度は外さないわよ」
 再びマダムは扇を構えた。
 その通り、今度はさすがに回避できそうもないだろう。アッシュは覚悟を決めた。
 マダムは扇を投げた。またしても空中で急カーブを描く。アッシュは最後の抵抗とばかりに重たい身体にムチ打って、必死に転がった。扇はまたもや外れる。しかし、ホッとしたのも束の間、扇はそのままマダムへと戻らず、百八十度方向を変えて、三度、アッシュへと襲いかかった。
「くっ!」
 観念するアッシュ。
 だが、そこへ思わぬ助けが現れた。
 キィン!
 扇がアッシュを切り刻む寸前、振るわれた長剣<ロング・ソード>がそれを弾いた。叩き落とされた扇。それを見たマダムの眉がひそめられた。
「何者!?」
 アッシュを助けた人物──それは、あろうことかラークであった。


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