←前頁]  [RED文庫]  [「吟遊詩人ウィル」TOP]  [新・読書感想文]  [次頁→



吟遊詩人ウィル

冒された森

−11−

「ヤベェな」
 ダーク・エルフとミシルの探索を託されたイスタの集落の《監視者》であるトーラスは、東の方角を見ながら一人呟いた。
 夜だというのに、空が明るくなり、もうもうたる黒煙が立ち昇っている。火事だ。
 それは《神秘の森》に六つある集落のひとつ、サジェスの方角だった。森での火事は、今までにも何度かあるが、これほどまでの規模になったことはない。
 これはダーク・エルフの仕業に違いなかった。トーラスは身じろぎひとつせずに立ち尽くしながら、唇を噛む。
 《監視者》としてダーク・エルフの侵入を許したばかりか、おそらくは犠牲者を出してしまったことは痛恨の極みであった。自分の力のなさを悔いる。そして、必ず自分の手でダーク・エルフを討つことを改めて誓った。
 自らを奮い立たせたトーラスは、サジェスに向かって急いだ。森の中を風のように疾る。
 その足が急に止まった。森の異変を感じたのだ。
 白魔術<サモン・エレメンタル>を使う白魔術師<メイジ>は、精霊の力によって夜の闇をも見通せる能力《インフラビジョン》がある。その目が有り得ない森の様相を捉えた。
 森のほとんどの大地は肥沃な腐葉土であるはずだが、今、トーラスが立つ場所は石のように固かった。槍の先で地面を叩いてみる。間違いなく、石そのものだ。
 《監視者》として森を熟知しているトーラスは、この場所の地面が石ではなく土であったことを憶えていた。だが、足裏から伝わってくる感触は明らかに石。しかも、その上に立つ木や、その葉一枚一枚に至るまで石になっているのは驚きだった。
 どうしてそうなってしまったのか、トーラスはその原因を探ろうと、周囲を警戒して歩いた。
 やがてトーラスは、ひとつの岩を見つけた。トーラスの記憶によれば、以前、ここを通りかかったときにはなかったはずの岩だ。トーラスは慎重に近づいた。
「これは……?」
 岩の近くに立ったトーラスは、その奇妙な形に呟きを漏らした。まるで人が横たわったような形だ。大きさもトーラスと変わらないくらいである。
 最初、トーラスは打ち捨てられた彫像なのかと思った。しかし、眺めているうちに、別の考えがよぎる。
「まさか、ダーク・エルフなのか?」
 それは確かに──肌の色こそ、石になっていたので分からなかったが──ダーク・エルフの姿をしていた。その表情は苦悶に歪められている。それを中心にして、周囲が石化していた。その様子を見て、トーラスはひとつの仮説を立ててみる。
 サラフィンの話によれば、森に侵入したダーク・エルフは、デスバルクの禁呪により、自らの肉体を毒薬のように改造されているという。そのせいで、自らの命すらも削ることになり、侵入には成功したものの、満足な目的も果たせぬうちに死んでいったのではなかろうか。
 さしずめ、このダーク・エルフの能力は石化だったのだろう。死しても呪いは解けず、死体を石にしたばかりか、周囲の森まで石化してしまったに違いない。
 これで侵入した七人のうち、三人が斃れたことになる。だが、あと四人。どれも相当な強敵であることは想像に難くなかった。
 もっと詳しく調べたいところであったが、今はそうもいかなかった。残る四人のうち、少なくとも一人はこの先にいる。トーラスは再びサジェスへと走り始めた。
 ダーク・エルフとの死闘を予感しながら。



 ネーアは兄アルフリードを追いかけていた。
 アルフリードにはサジェスの集落から脱出し、イスタを頼るよう言われたが、一人で逃げ遅れた者がいないか探しに行った兄の安否が気になって仕方なかった。悪い予感がする。ネーアが生まれ育ったサジェスは、今や炎に支配され、生命を育んできたはずの緑は跡形もなく焼失してしまっていた。この大火の中を走り回ることは自殺行為に等しいと思えてならない。
 炎と煙に巻かれ、ネーアはすぐに兄の姿を見失ったが、それでも一緒に逃げるのだと、懸命に探し続けた。しかし、火の回りはアッという間で、度々、その行く手を遮られてしまう。しかも苛烈なる熱気がネーアの体力をたちまちのうちに奪っていった。
「兄さーん! アルフリード兄さーん!」
 ネーアはアルフリードを呼んだ。だが、その声は炎がはぜる音と支えを失った木々が次々と倒れる音にかき消されてしまう。ネーアは途方に暮れた。このままではネーア自身も危ない。兄は無事に脱出できただろうか。
 アルフリードはサジェスでも一番の戦士であり、森を守護する《監視者》の一人だ。槍の使い手であるばかりか、精霊を使役する白魔術<サモン・エレメンタル>にも長けている。ネーアが心配するほど、彼女の兄は脆弱ではない。
 ネーアはアルフリードを信じようと努めた。兄はきっと大丈夫だ。イスタの集落まで行けば、無事に再会できる。ネーアは自分にそう言い聞かせると、脱出口を捜し始めた。
 ところが慣れているはずのサジェスは、大火事のせいですっかり様変わりしており、ネーアにもどっちへ進めばいいのか分からなくなっていた。なにしろ周囲に見えるものといったら激しく燃えさかる炎と毒々しい黒煙だけだ。星の位置で方角を知ろうにも、その夜空さえ覆われていた。
 バキバキバキッ!
「──っ!?」
 突然、ネーアの目の前に燃えたブナの木が倒れかかってきた。ネーアは恐怖に目を見開き、その場に立ちすくんでしまう。
 幸運なことに、ブナの木はネーアから少し逸れて、横倒しになった。その大きな音と舞い上がった火の粉の熱さにネーアは飛び退き、身を固くする。一歩間違えれば下敷きになっていたところだ。このときばかりは炎の熱風を忘れ、背筋が凍るような思いをした。
 いよいよ、この場所にいることは出来なくなった。早く逃げないと、またいつ同じような目に遭うか。ネーアはとにかく出口を求めて、炎の中を逃げまどった。
 兄や集落の他の者たちは無事に逃げおおせたのだろうか。この火事の中、まったく、そんな気配も声もネーアには伝わってこなかった。そのうち、この大火の中で自分だけが取り残されたのではないかという不安が胸を押し潰そうとし始める。泣きたくなるのを懸命に堪えた。
 エルフは人間などに比べると、とても長寿だ。およそ五百年から六百年くらい生きるのが普通で、中には千年以上も生きたエルフもいるという。そのせいで、エルフは普段から死への恐怖が希薄であった。確かに、どんなエルフでも長生きできるというものではない。病気や不慮の事故などで、若くして命を落とすこともある。しかし、この平和な《神秘の森》で生活する限り、そのようなことは稀であったし、死によってこの《物質世界》から解き放たれ、エルフたちの真の故郷である《妖精界》へ還れるのだという教えも幼い頃から聞かされ続けていた。
 だが、今のネーアは死への恐怖にすっかり怯えていた。何より、ずっと平和に暮らしてきたはずの《神秘の森》が、このような襲撃を受けること自体、考えてもいなかったことだ。この森はずっと姿を変えずに存在し続けると思っていただけに、それを信じていたネーアにとってはショックだった。
 一体どうしてこんなことに。そのとき、ふと一人のハーフ・エルフの少女の顔を思い出した。何という名前だったか。憶えていないが、あの娘はダーク・エルフが森に侵入したと言っていた。しかし、《魔界大戦》以降、これまでエルフとダーク・エルフの間では小競り合いこそあったものの、このような本格的な攻撃はなかったはずだ。それがどうしていきなり、《神秘の森》に仕掛けたのか。
 平穏な日常を過ごしてきたネーアにとって、今回の事態の背景を考えることは難しかった。とにかく、この森は安全だと、ずっと思って生きてきたのである。それがどうして覆ったのか、今のネーアにはとてもではないが考えも及ばない。
 だからといって、分からないことをいつまでも考えている場合ではなかった。とりあえず、この炎の中から脱出することこそ先決だ。ネーアは少しでも火の勢いが足りないところを捜し、そこを目指した。
 どれほどの時間を逃げまどっただろうか。ネーアはようやく突破口らしき場所を見つけた。わずかではあるが、行く手に夜の暗さが見える。まだ、そちらにまで延焼が及んでいない証拠だ。ネーアはすでに脱水症状を起こしたようにフラフラだったが、少しだけ元気を取り戻した。これでようやく助かる。
 ネーアは先を急いだ。しかし、何歩も行かぬうちに、視界の隅に何か動くものを認め、そちらを振り返った。
 それは炎のベールの向こうに陽炎の如く揺らめいていた。ネーアは息を呑む。
 地面に力なく横たわった者と、その上に馬乗りになった者。こんなときに何をやっているのだろうと思った。
 さらによく見てみると、下になっているのは兄のアルフリードであることが分かった。ネーアは思わず声を上げる。
「兄さん!」
 そのとき、馬乗りになっている人物が振り向いた。その顔にネーアは表情を凍りつかせる。
 それは兄が捕らえたハーフ・エルフの少女──ミシルだった。
 ミシルは立ち尽くすネーアに、ニヤリと笑いかけた。その笑いに含まれた邪悪さに、ネーアはゾッとする。
 ミシルはアルフリードの上から立ち上がった。その手には槍<スピア>が握られている。そして、穂先からしたたり落ちる血のしずく。
 それを見たネーアは血の気が引いた。
「あ、あなた……な、何をしたの……?」
 ミシルは答えの代わりに、もう一度、冷酷な笑みを浮かべた。
 ネーアは倒れている兄を見た。アルフリードの胸は鮮血に染まっている。
「兄さん!」
 ネーアは絶叫した。そして、慌てて炎を迂回して、アルフリードに駆け寄ろうとする。
 それをミシルが阻止した。手にしていた槍<スピア>をネーアに向かって投擲する。
 ビュン!
 小さな身体のどこにそんな力があったのか、槍<スピア>はネーアの足下に突き刺さった。ネーアの足が止まる。
 次にネーアが顔を上げたとき、ミシルの姿はいずこかへ消えていた。ネーアは唇を噛みしめる。そして、思い出したようにアルフリードへ駆け寄った。
「兄さん!」
 兄を抱き起こそうとしたネーアだが、すでに息絶えているのが分かった。ネーアはアルフリードの頭を掻き抱き、号泣する。
「兄さぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
 炎に包まれた森で兄を失ったネーアの悲嘆は虚しく響き渡った。


<次頁へ>


←前頁]  [RED文庫]  [「吟遊詩人ウィル」TOP]  [新・読書感想文]  [次頁→