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吟遊詩人ウィル

冒された森

−19−

 森は危険である。
 幼い頃からそう戒められて、ミシルは育てられてきた。
 だから、これまではイスタの集落の中だけが、ミシルの世界のすべてだった。小さく、変化に乏しい世界。
 それでも小さい頃はそれを不服とも思っていなかった。歳の近い同性はミシルを避けていたが、常にサラフィンとトーラスがミシルのそばにいて、いつも一緒に遊んでくれたからである。三人はまるで兄妹のようだった。
 しかし、互いに成長するにつれ、その関係を保つことは難しくなった。サラフィンは次期族長として、ジェンマから様々なことを学ばねばならなくなったし、何より、他のエルフたちに対して公平に接する必要性が出てきて、ミシルにばかりかまけていられなくなった。また、トーラスは昔からのあこがれであった《監視者》への道を進むことに決め、その訓練と任務で、イスタから離れることが多くなっていったのである。よって、他に親しい友人などいないミシルは一人になってしまった。
 サラフィンとトーラスから距離を置くようになったミシルは孤独だった。元々、他のエルフたちからはハーフ・エルフとして蔑視を浴びており、イスタでの自分の居場所を見つけることが難しい。やがてミシルはまだ知らない世界──イスタの外へ出たいと考えるようになった。
 意を決して、初めて森へ出たときの興奮を、ミシルは今も憶えている。何もかもが初めて目にするものだった。名も知らぬ花々や草木、森に棲む小動物や鳥に昆虫たち。そこにはミシルにとって新しい世界があった。そして──
 新しい友がいた。
 一角獣<ユニコーン>との出会いである。
 一角獣<ユニコーン>がどのような幻獣であるか、ミシルはかねてより博学なサラフィンから聞いていた。しかし、聞くのと見るのとでは大違いだ。その純白な馬体は神々しく輝き、その場でミシルを金縛りにした。さらに一角獣<ユニコーン>の方からミシルに近づいてきたときは、息が止まるのではないかとすら思った。だが、一角獣<ユニコーン>が自分から鼻面をすりよせてくると、不思議に意志の疎通が出来るような気がした。
 ──淋しいのかい?
 一角獣<ユニコーン>はミシルに、そう語りかけてきたかのようだった。
 それからは毎日、ミシルは森へ出掛けていって、一角獣<ユニコーン>と一緒に過ごすことが多くなった。サラフィンには外へ出ないよう、再三、注意されたが、それを素直に聞くミシルではない。いつもこっそりと抜け出しては、イスタの集落の近くにある小川で“彼”と会った。
 しかし、そんな楽しかった日々もダーク・エルフの出現によって一変してしまった。ミシルを守ろうとした一角獣<ユニコーン>は、傷ついたままいずこかへ姿を消し、サジェスの集落はダーク・エルフの襲撃によって全滅である。きっと、この知らせを受けた各集落は大騒ぎに違いない。
 サジェスの集落に忘れた母の形見──《幻惑の剣》をトーラスが探しに行っている間、ミシルはたった一人、森の木の上で待つはめになった。
 木の上からサジェスの方角を見ると、まだ火は燃え続けているらしく、もうもうと黒煙が上がっていた。あれでは取って返したトーラスもサジェスに入れないのではないかと思う。これはまだしばらく時間がかかりそうだと、ミシルは退屈そうにあくびをした。
 太い幹にもたれるようにして枝の上に座ると、ミシルは何の気なしに下を見下ろした。するとウサギやシカが群を為すようにして、サジェスの方角から離れるようにして走り去っていくのが見える。この火事で犠牲になったのは、エルフたちだけではないのだ。森に棲む動物たちにとっても、これは大変な災厄であった。
 そこへ一匹の黒い獣が現れた。黒豹だ。さっきのシカなどに比べると、のっそりとした動きをしている。ひょっとすると、動物たちが逃げていったのは、火事だけが原因ではなく、この黒豹のせいかもしれなかった。
 それにしても、どうしてこの黒豹は獲物を追いかけないのか。昨夜からの火事のせいで、まともな食事にありついていないはずである。それなのにこれまでの追跡を放棄してしまうとは。
 すぐにその理由が分かった。必死になって追わずとも、黒豹は新たな獲物を見つけたのだ。
 黒豹はミシルが登っている木の周りをぐるぐると回り始めた。ミシルはイヤな予感がする。まさか、ひょっとして……。
 何周かしたところで、不意に黒豹は上を見上げた。ミシルと目が合う。やっぱり。黒豹は木の上のミシルを臭いか何かで見つけていたのだ。
 森は危険である。
 昔からイスタで言われ続けてきた言葉が思い出された。
「う、ウソでしょ……」
 ミシルは怖くなって、少しでも黒豹から離れようとするかのように、枝の上に立ち上がった。今のミシルに武器はない。もちろん、魔法も知らず、襲われたらおしまいだ。
 だが、ミシルは木の上だ。いくら黒豹にジャンプ力があっても、ここまでは届くまい。ミシルはそう自分に言い聞かせて、落ち着こうとした。
 しかし、黒豹と初めて対面するミシルは知らなかった。黒豹は木に登ることが出来る肉食獣であると。
 黒豹は体勢を低く構えると、四肢の力を爆発させ、軽やかに跳躍した。そして、木の幹を蹴り、まずは地面に一番近い枝に飛び移る。しなやかな動きだった。
 ミシルは戦慄を覚えた。あそこまで登れるのなら、あとは容易いものだ。ミシルのところまで登るのは造作もない。
 身の危険を察知し、ミシルはすくんだ。逃げなくては。そうは思うが、木の上に逃げ場などない。その間にも黒豹は枝から枝へと飛び移りながら近づいてきた。
「どうしよう!?」
 焦りつつ周囲を見渡すミシル。目に付くのは森の木々ばかり。手頃な枝を折って武器にするか。いや、そんなものでは黒豹に通用しないだろう。
 残された道は、やはり逃げるしかない。ミシルは意を決した。
 森の木々はひしめき合い、その枝は互いに触れあうほど近い。それを利用して、隣の木に飛び移れないかとミシルは考えたのだ。
 ミシルはうまくバランスを取りながら、枝の先端へと進み始めた。枝は先へ行くほど細くなり、不安定に揺れ、いつ折れてしまうかとヒヤヒヤする。この高さから転落したら、ただでは済まないだろう。柔らかい土の上で死ぬことはないにしても、倒れ込んだところを黒豹に狙われたら一巻の終わりだ。
 黒豹はミシルの逃亡を看破して、さらに登るペースを早めた。黒豹も空腹を満たすために必死だ。
 ミシルは枝が折れるギリギリのところに立つと、大きく腕を振ることによって反動をつけ、隣の木の枝に飛び移った。
 ところが、恐怖にすくんだその足は、思ったように動いてくれなかった。ジャンプが弱い。枝が指先をかすめた。
「──っ!?」
 ミシルは悲鳴すら呑み込んだ。落ちる。懸命に何かにすがろうと手足を動かした。
 バキッ!
 ミシルの腹部が痛打された。伸びていた一本の枝が、落下するミシルに当たったのだ。しかし、その枝は細すぎて、ミシルの体重を支えることは出来なかった。ミシルは枝を折りながら、再び転落。結局、地面に激突した。
「うっ!」
 ミシルはうめいた。やはり柔らかな地面と、途中でぶつかった枝が落下の衝撃を緩和してくれたが、ダメージが皆無というわけではない。すぐに起き上がることは困難だった。
 黒豹は獲物の突飛な行動に面食らったような感じだったが、すぐに身を翻すと、軽々と木を降り始めた。登るのよりも早く地面に降り立つ。
 ミシルは痛みを堪えつつ、身を起こした。黒豹がゆっくりと近づいてくる。もう飛びかかってこられたら逃げられない距離だ。ミシルは金縛りにあったように動けなくなった。
 黒豹が身を沈めた。来る。ミシルは目をつむった。
 その刹那である──
 体と体がぶつかるような音がした。ミシルには何も起きていない。獣の唸り声がふたつ聞こえた。
 ミシルは目を開けた。どこから現れたのか、黒いのと白いのとが地面を転がり、もつれ合うようにして戦っている。
 黒いのは黒豹だ。そして白いのは──
 それはミシルも初めて見る動物だった。肉食獣のごとき体は黒豹そっくりだが、白い方が一回りくらい大きい。しかも首の周りには、やはり白いたてがみがあった。
 知識のある者が見れば、それは獅子だと思っただろう。ただし、真っ白な獅子が存在すればの話だが。
 両者の戦いは激しかった。互いに首筋へ噛みつくような格好で、目まぐるしく攻守と上下が入れ替わる。ミシルはそれをただ固唾を呑んで見守るしかなかった。
 やがて、黒豹が白い獅子に弾き飛ばされるような格好で離れた。黒豹はまだ戦意を失っておらず、執拗に攻撃の構えを取る。
 そこで白い獅子が吼えた。大気が振動する。ミシルは心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。
 それはいかなる獣をも震え上がらせる咆吼であった。まるで百獣の王だ。それに歯向かおうとするものは森の中にはいない。
 黒豹もまた、白い獅子に圧倒され、とうとう踵を返して逃げ出した。白い獅子が勝ったのだ。ミシルはホッと息を吐き出した。
 しかし、考えてみれば、これでミシルが助かったというわけではなかった。一難去って、また一難。今度は白い獅子がミシルを喰らおうとするはずだ。
 ミシルは白い獅子がこちらを振り向かぬうちに、この場から逃げ出そうと思った。立ち上がろうとする。だが、右足に体重をかけた途端、激痛が走った。
「痛っ!」
 ミシルは思わず悲鳴を上げた。おそらく、転落したときに痛めたのだろう。だが、それよりもまずかったのは、声を出してしまったことだ。
 白い獅子が振り返った。
「せっかく助かったのだ。ジッとせい」
 喋った。白い獅子が。
 いや、それは白い獅子ではなかった。顔はネコ科のそれではなく、まるで人間の老人かヒヒのようだ。
 ミシルは思いもかけないことに言葉を失う。
「大丈夫。取って食おうなんどは思っとらんよ」
 その奇妙な白い生き物は、まるで好々爺のように笑っていた。


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