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吟遊詩人ウィル

冒された森

−23−

 ダーク・エルフに変化が生じたのは、目だけではなかった。骨がバキバキという音を立て、前傾姿勢になる。口からはニッと牙が伸びた。
 ミシルはサラフィンから話を聞いたことのあるライカンスロープを思い出した。いわゆる人間から獣人化するワーウルフなどのことである。
 しかし、ダーク・エルフはライカンスロープではなかった。その能力はデスバルクから植えつけられたものだ。
 まず仕掛けたのはダーク・エルフだった。真っ向からイェンティに襲いかかる。
 体の大きさではイェンティが勝っていた。前肢でダーク・エルフの顔面に一撃を入れる。だが、ダーク・エルフはひるむことなく、そのままイェンティに組み付いた。
 イェンティの上体が起き上がりかけた。ダーク・エルフの凄まじいパワー。押している。さすがのイェンティも驚いた目をした。
 ダーク・エルフが体をひねるようにすると、イェンティは横向きに転がされた。上を向いた無防備な下腹部に向かって、ダーク・エルフが頭から突っ込んで牙を立てようとする。その獰猛さは凶獣そのもの。二足歩行のダーク・エルフが仕掛ける攻撃だとは、とても思えない。
 土をつけられたイェンティであったが、さすがは森の王者、素早く立ち上がると、再びダーク・エルフに爪を立てた。今度の一撃は痛烈。ダーク・エルフが吹き飛んだ。
 先程の黒豹相手であれば、これで決着はついていただろう。しかし、このダーク・エルフは難敵であった。イェンティの攻撃にさしたるダメージも受けなかったのか、軽く身をひねって着地すると、血の滲んだ頬をひと撫でし、牙をニッと出して見せた。笑っているのだ。
「ヒヒジジイのくせに、結構、やりやがる!」
 一方、険しい表情を見せたのはイェンティだ。
「貴様、ただのダーク・エルフではないな?」
 半獣人への変身。普通のダーク・エルフにそんなことができるはずがない。
「オレ様の名はバララギ。不死王<ノーライフ・キング>デスバルク様によって選ばれ、この素晴らしい肉体を得た戦士だ」
「デスバルク……」
 森の外へは出たことのないイェンティだが、その名は、昔、入植してきたエルフたちから聞いたことがある。《魔界大戦》にて、ダーク・エルフたちを指揮していた彼らの王。その力は闇の軍勢を率いた魔界の王に匹敵したと言われる。
 デスバルクの配下がここにいるということは、その魔の手をこの森へ伸ばしてきたということだ。イェンティの闘志は掻き立てられた。森を守る。それがイェンティが持つ生まれながらの使命だ。例え、今は最後の一頭になっていても。
 イェンティは咆吼をあげた。
 それを耳にしたミシルは震えた。上半身が硬直し、逆に足は力が抜ける。つい、へたり込みそうになった。
 イェンティの咆吼には魔法に似た効果があった。その咆吼を聴いた者は、イェンティの迫力に抑圧され、戦意を喪失してしまう。それがイェンティの森の王たるゆえんだ。
 だが、半獣人のダーク・エルフ、バララギは、まったく平然としたものだった。イェンティの咆吼が魔法であれば、己の魔法抵抗力を高めることによってレジストすることも可能である。ましてや、バララギはデスバルクによって、何もかもが従来よりも強化されていた。
「ほほう、負け犬の遠吠えってヤツか。だが、声のデカさばかりあってもな」
 バララギはイェンティを嘲弄した。この森でイェンティに敬意を払わない者は、この男だけだ。
 大いなる寛容さを示すイェンティも、この男にだけは違った。生涯初めてと言ってもいいほどの敵意をバララギに向ける。
「貴様がいかに邪悪なる存在か分かった。この森には不要! ワシの全力を持って、排除してくれよう!」
 イェンティはそう言い放つと、今度は自分からバララギに仕掛けた。白い四肢が宙に躍る。
 対するバララギは、いきなり背中から倒れ込んだ。その上にイェンティが覆い被さろうとする。その寸前、バララギは両脚を上に向けた。イェンティの体がその脚によって阻まれる。そのままバララギは巴投げの要領でイェンティを弾き返した。
 投げ飛ばされたイェンティだが、空中で身をひねると、見事、脚から着地した。しかし、そのときにはバララギの姿が消えている。どこへ──
「上よ!」
 ミシルがすべてを見ていた。
 イェンティを放り投げたバララギは、逆立ち姿勢のまま体を前屈させ、その反動を利用して跳び上がったのだった。まるで軽業師。その体は放物線を描き、着地したイェンティの頭上を取った。
 ミシルの助けがあっても、イェンティが頭上を振り仰いだのは遅かった。バララギがイェンティの背に跨る。その白いたてがみに手をかけた。
「偉そうな、ヒヒジジイめ! このたてがみを引っこ抜いてやろうか!」
「貴様、そこからどかぬか!」
「イヤだね! どうしてもと言うのなら、力ずくでどかしてみろ!」
 バララギは跨ったまま、イェンティの腹を蹴った。イェンティはバララギを振り落とそうと、まるで狂ったように跳びはね、体を揺する。それでもバララギは振り落とされなかった。それどころか、まるで暴れ馬を御すかのごとく楽しんでいる。
「はっはっはーっ! いいぞ! もっと暴れろ! それーっ!」
 バララギは何度もイェンティの腹を蹴った。イェンティの顔が苦悶に歪む。
 命の恩人がダーク・エルフに苦しめられているのを見て、ミシルは歯噛みするしかなかった。《幻惑の剣》があれば、きっと後先考えずに助けに駆け出していただろう。しかし、今のミシルに武器はない。
 イェンティはバララギを乗せたまま、その場に転がった。振り落とせないのなら、諸共に地面に叩きつけるだけだ。
 その刹那、バララギはイェンティの首筋に噛みついた。イェンティが悲鳴を上げる。そのまま両者は地面に転がった。
 地面とイェンティに挟まれて、バララギは息が止まったはずだ。だが、それでもイェンティの首筋に牙を立てたまま、しがみついている。このままではラチがあかないと感じたイェンティは、起き上がると、バララギが最初に座っていた大きな岩へと突進した。今度はスピードを利用して、激突させようというのだ。
 もちろん、バララギがそれを察知しないわけがなかった。バララギは背中から飛び降りる前に、イェンティの首を噛み切る。その途端、白い毛が朱に染まった。
 イェンティは声にならない叫びをあげた。その背からバララギが悠然と離れる。イェンティは自らつまずくようにして、岩に激突した。
「おじいさん!」
 ミシルが悲痛な声を発した。すぐにでも駆け寄りたい。しかし、イェンティのすぐそばには、残忍な表情を浮かべるバララギが立っていた。
「おやおや、ざまぁーねーな。こういうのを年寄りの冷や水って言うんだ」
 そうほざきながら、バララギは噛みちぎったイェンティの肉片を咀嚼した。それを見たミシルが生理的嫌悪を露わにする。
 するとバララギの表情が変わった。驚きに目を見開いている。
「おっ! ヒヒジジイの肉だから硬くてマズいのかと思っていたら、結構、イケるじゃねーか! 何か、こう力が涌いてくるような感じがするぜ!」
 森の霊獣の血肉を味わい、バララギは動かなくなったイェンティに改めて視線を向けた。バララギの腹の虫が鳴き始める。口腔に唾液があふれた。
 これもデスバルクの力の影響によるものか、強化を受けたバララギは絶えず空腹を抱えるようになった。どんなに食べても、それは満たされることがない。それゆえ、バララギは食べるために獲物を殺した。殺しまくった。
 バララギはもっとイェンティを味わおうと近づきかけた。だが、その後ろ頭に投擲された石が当たる。バララギはギロリとした目を後ろに向けた。
 バララギに石を投げたのは、言うまでもなくミシルだった。これくらいのことでバララギを何とか出来るとは思えないが、倒れたイェンティを前にして何もしないわけにもいかない。黒豹から助けてくれたイェンティを、今度は自分が救いたかった。
 バララギは石をぶつけられた頭をさすりながら、不機嫌そうにミシルをねめつけた。
「何をしやがる、このハーフ・エルフ! オレ様は食事を邪魔されるのが一番でえっきれーだって言ったろーが! てめえから先に食っちまおうか!」
「や、やれるもんならやってみなさいよ!」
 ミシルは相手に気圧されながらも、精一杯の強がりをしてみせた。せめて手元に《幻惑の剣》があってくれればと思う。
 バララギは唾を吐いた。
「ケッ! そんな痩せっぽちな体、腹の足しにもならねえぜ! これだからエルフやダーク・エルフは好かねえんだ!」
 自分だってさして変わらない体型のダーク・エルフにも関わらずよく言う。
 ミシルは河原から石を二つ拾い、両手にそれぞれ持った。武器になりそうなのはこんなものしかない。
 バララギは余裕綽々だった。こんな武器らしい武器も持たない小娘に不覚など取るわけがない。ゆっくりとミシルに近づいた。
 逆にミシルはバララギを待った。石を投げるにしても、この距離では当たるかどうか怪しいし、避けられてしまう可能性大だ。さっきのような偶然はもうない。できるだけ引きつけてぶつける。それしかなかった。
 シカとイェンティの肉を食べたバララギの口の周りは真っ赤だった。本来、エルフ族は肉食よりも草食を好む。ダーク・エルフも大差ないと思うが、このバララギだけは明らかに違った。この男は凶暴な野生動物なのだ。
 ミシルは自分が天敵に狙われる小動物になったような気がした。しかし、どんなに絶体絶命でも、自ら獲物になろうとするものはいない。例え助かる可能性が低くても、逆転の機会をジッと窺う。それが“生きる”ということなのだ。
 あと五歩でバララギがミシルのところへ辿り着く。もう限界だった。
 ミシルはバララギの顔面に向かって、石を投げた。狙いは良かったが、バララギはそれを難なく交わす。
 すぐさま、ミシルは左手の石を右手に持ち替えた。最後のチャンス。
 だが、バララギは一気に間合いを詰めていた。ミシルの眼前にバララギの顔。ミシルは悲鳴を上げそうになった。それでも右手を振ろうとする。その手がバララギによって止められた。
「オレ様はよぉ〜、腹が減って、腹が減って、てめえなんかと遊んでいらんねーんだよ!」
 飢えがバララギの苛立ちを募らせていた。大きく開けられた口から鋭い牙が覗き、そのままミシルの首へ突き立てられようとする。
 その刹那、バララギの体が大きく横へ吹き飛んだ。信じられない光景に、ミシルは言葉を失う。
「お嬢さん、ワシの背に!」
「おじいさん!」
 バララギを蹴散らしたのはイェンティだった。傷は深く、とても痛々しいが、どうやら、まだ充分な力を残しているようだ。
 ミシルは言われたとおりにイェンティの背に跨った。イェンティはそのまま身を翻し、滝のある崖を登り始めた。ミシルは振り落とされそうになり、必死にイェンティにしがみつく。
 不意を突かれ、さらにミシルたちが逃げだそうとしているのを見て、バララギは頭に血を昇らせた。
「この野郎! 逃がすか!」
 バララギはすぐさまミシルたちを追った。


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