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宿へと帰ったヴァルキリーがまずしたのは、巨大なアリの巣を歩き回って埃りまみれになった身体を洗うことだった。
いくら昔より栄えるようになったラバンの村でも、まだ都会にあるような公衆浴場はないし、個人でも風呂を持った贅沢なところなどあろうはずがない。せいぜい湯水を使った行水が関の山である。
たらい一杯の湯は、宿屋の主人が用意してくれた。もうすっかりと、この素顔を隠した女魔術師をひいきにしてくれている。ヴァルキリーもサービスに見合っただけの金を握らせていた。
丹念に全身を洗い終え、ヴァルキリーはようやく生き返った心持ちになった。昼間はずっと穴蔵の中で過ごしていたから、なおのことだ。部屋に一人きりでいるヴァルキリーは、いつもつけている仮面も外し、生まれたままの姿でいた。
裸のまま着替えが置いてあるベッドへ近づくと、ドアのノブがそっと回されようとしているのに気がついた。ヴァルキリーは立ち止って、それを見つめる。ノブは用心深く回されたが、いざ開ける段になってドアがびくともしないのに気づき、やや焦ったような気配が伝わってきた。
「ムダよ、ジョー。ドアは魔法で施錠してあるんだから」
姿も現わしていないのに名指しされ、ドアの向こうの人物は慌てふためいたようだった。
「そ、そうか。いや、ハハハ、オレは寝てるんじゃないかなーと思ってよ」
ヴァルキリーが見破った通り、声の主はジョーだった。また、自分たちの宿屋を抜け出してここへ来たらしい。
「どうせ、私が身体を洗っているだろうと予想をつけて、覗きに入ろうとしたんでしょ?」
疑わしそうな指摘に、ドアがガタンと音を立てた。
「な、ななな、何を言っていやがるんだ!? オレがそんなことするわけねえだろ!」
否定する声が上ずっていたせいで、ヴァルキリーは笑いを噛み殺すのに必死になった。どうやら図星だったようだ。
「何か用なの?」
「いやぁ、また昨日みたいにメシを一緒にと思って」
「もう少し待ってもらえる? まだ何も着ていないの」
「な、何も!? ――あ、ああ、分かった」
ドアの外でドギマギしているであろうジョーの様子を思い浮かべて、ヴァルキリーはおかしくなった。そして、たっぷりと時間をかけて――きっとジョーはじれていたことだろう――着替える。もちろん、素顔を隠す仮面をつけて。
「お待たせ」
魔法を解除して、ようやくドアを開けると、ジョーは気まずそうな態度で立っていた。ところが、ヴァルキリーの姿を見た途端、急に顔が赤くなる。なぜならば、彼女の衣裳が昼間のものと違い、夜会にでも出かけるような肩の大きく開いた紫のナイトドレスに、首からストールという艶めかしい装いだったからだ。こんな田舎の宿屋では、場違いな姿だった。
「どうしたの? 行きましょ」
口を開けたまま魅入られたようになっていたジョーをからかうように、ヴァルキリーは階下の食堂へと誘った。ジョーは自分で自らの頬をピシャリと叩き、ようやく動けるようになる。
「お、おお」
二人が食堂兼酒場へ降りて行くと、案の定、女性の美を露わにしたヴァルキリーの姿は人々の注目を集めた。まるでどこぞの貴婦人のような出で立ち、立ち居振る舞いに、誰もが呆けたように見とれる。そんな彼らに微笑を返しながら、ヴァルキリーは空いているテーブル席へ座った。
「まったく、あんたには驚かされるよ」
向かいに座ったジョーは正気を取り戻したようだったが、まだ口の中がカラカラの様子だった。別のテーブルへ運ばれようとしていた水をひったくるようにすると、それを一気に飲み干し、ようやく人心地つく。ヴァルキリーはそのウェイトレスに謝罪しながら、今夜もワインを頼んだ。
「そんなに驚くようなことかしら。まさか、あの汚れた服をまた着るわけにもいかないでしょ」
「そうかもしれねえが、他にもうちっと目立たない服はなかったのか? 妙なヤツが変な気を起しても知らねえぜ」
ジョーは油断なく周囲を窺った。こんな荒くれ者の酒場で、露出度の高いドレスを着た大胆な女など非常識だ。あちこちから差すような視線が向けられている。
しかし、元より常識など彼女には当てはまらなかった。
「着る物は他にもあったけど、せっかくの夕食のお誘いだから、おめかししないと、と思って。それに何かのときは、もちろん、私を守ってくれるのでしょう?」
ヴァルキリーはウインクしてみせた。こうなってはジョーも文句を言えない。惚れた弱みもある。
もっとも、下心のある男が言い寄ってきたところで、この仮面の魔女の身を案ずる必要はないだろう。なぜならば、そんな男どもよりも始末に悪いジャイアント・アントを一人で氷漬けにしてみせたくらいなのだから。
「それにしても、あの遺跡の中にあんなのがうじゃうじゃいるとはな」
肉料理を何皿か注文したジョーは、昼間の出来事を回想した。ヴァルキリーは先に来たワインを一人で開け、飲み始める。
「事前に情報をつかんでいなかったの?」
「化け物がいる話は聞いていたさ。そのせいで探索がはかどっていないこともな。しかし、もろにアリの巣だったとは、びっくりだぜ」
結局、ジャイアント・アントが徘徊する穴をどうやって突破するか良策が思い浮かばず、一行は今日の探索を打ち切った。今後どうすべきかは、明日以降に話し合われることになっている。
「元・大物盗掘家はどうするつもりなのかしら?」
ヴァルキリーはワインを傾けながら、一行のリーダーであるザカリヤのことを言った。ジョーは頭の後ろで手を組み、身を逸らせる。
「さあ、な。なにせ、ウチのボスは腹黒いところがあるから。所詮、一介の傭兵程度にゃ、何も教えちゃくれねえよ」
「まあ、あのザカリヤが簡単に諦めるとは思えないけど」
「そう言うあんたは、何かアイデアを持ってないのかい?」
「うーん、そうね。それこそ虫除けの魔法かアイテムでもあれば悩まなくて済むのだけれど」
「やっぱり、一匹ずつ始末していくしかねえか」
「何十匹どころじゃないのよ。何百、いえ、何千かも」
「そこは魔法の力も借りるさ。頼りにしているぜ、白魔術師<メイジ>殿」
「当てにしてもらって光栄だけれど、魔法だって無限じゃないことを憶えておいて」
ニ杯目のワインを注いだところで、ジョーが頼んでおいた肉料理が運ばれてきた。早速、食欲を満たそうと手を伸ばしかけるが、焼けた肉に黒い粒コショウがかかっていて嫌な顔になる。言うまでもなく、アリが群がっているように見えたのだ。
「知ってる? 東のインディハーン聖王国では、アリをスパイス代わりにして食べているそうよ。その粒コショウみたいに」
「あのなぁ、これから食べようってのに、食欲を失くすようなことを言うなよ」
とかなんとか言いながらも、ジョーは粒コショウにまみれた肉にかぶりついた。
そんな食事中の二人のところへ、別のテーブルから三人の男たちがやって来た。ヴァルキリーは気にも留めず悠然とワインを口にし、ジョーは肉の咀嚼に忙しいらしく、まるで警戒していない様子だ。三人の男たちは無視されたことに腹立たしさを覚えながら、不敵な面を向けてきた。
「あんたたち、ザカリヤの手下なんだろ?」
一番年かさらしい男が尋ねた。剣士として鍛え上げられたジョーの身体よりもひと回り大きい。他の二人は細身だが、だからといって侮れず、強靭なバネのようなものが感じられた。
「いいえ、違うわ」
ヴァルキリーが静かに否定した。年かさの男の眉が吊りあがる。
「誤魔化すつもりか? この村の連中は、かの盗掘王ザカリヤが現役に復帰したっていう噂で持ち切りなんだぜ」
男に威嚇の意図はなかったであろうが、全身から発せられる威圧感は尋常ではなかった。普通の人間ならば縮みあがるだろう。実際、場内は不穏な雰囲気に会話が途切れ、何事が起きようとしているのか見守るように静まり返っていた。
だが、ヴァルキリーは男たちに対して臆してなどいなかった。そっとワイングラスをテーブルに置き、男たちを見上げる。
「私が違うと言ったのは、ザカリヤの“手下”っていうところよ。一緒に遺跡を探索することは了承したけど、手下になったつもりはないわ」
すると、ジョーも、
「同じく。オレも雇われ剣士だが、別に忠誠を誓っているわけじゃねえ。金のために仕事はするが、それが意に反することなら、いつでも金を突っ返して、おさらばしてやるつもりさ」
と言ってのけた。
二人の不遜な態度に、男の仲間たちが色めき立つ素振りを見せたが、それは制された。年かさの男が微笑む。それはまるでゴリラが笑ったようで、不釣り合いだった。
「言うな。さすがにあのザカリヤと組むだけのことはある」
「あなたたちは? 先に声をかけてきたのだから、そちらから名乗ってもらいたいものだけど」
それをヴァルキリーの挑戦と受け取ったものかどうか。
「いいだろう。オレはタイラー。こっちは弟のザックとマーク。この半年、例の遺跡に潜っている」
「私はヴァルキリーよ」
「ジョーだ」
二人も自己紹介した。
「それで、私たちがザカリヤの仲間なら、何か痛い目でも遭わせようっていうわけ?」
皮肉めいたヴァルキリーの言葉に、タイラーは苦笑した。
「オレたちがそんなことをするとでも? 笑わせないでくれ、オレたちはザカリヤじゃない」
昨晩、ジョーが話していたように、ザカリヤが商売敵を始末してでも財宝を手に入れるという噂は、彼らの耳にも入っているらしい。そういうザカリヤがラバンに乗り込んできたことは、同業者である彼らにとって由々しき事態だろう。
「悪いが、あの遺跡のお宝はオレたちが戴く。そのためにこの半年、粘って来たんだ。お仲間のザカリヤに言っておけ。爺さんは早く引退した方が身のためだって」
「言って聞くようなタマじゃねえと思うけどな」
ジョーが聞えよがしに言った。それはタイラーたちも分かっているはずだ。
「今日のところはお近づきの挨拶だ。だが、オレたちの邪魔をすればただじゃおかねえ。そのつもりでいろ」
そう言い捨てると、タイラーは自分たちのテーブルに帰って行った。弟だというザックとマークも、二人をねめつけて戻る。一触即発の事態が回避され、場内はホッとしたような安堵が漂った。
「やれやれ。どうやらオレたち、すっかり悪役みたいだな」
ジョーがしゃぶりつくした骨を皿の上に投げると、うんざりしたように肩をすくめた。ヴァルキリーも頬杖をつく。
「そうみたいね」
次に遺跡の中で彼らと出会ったらどうなるのか、それを考えると憂鬱な気分になった。
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