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そこにあるのは暗闇だけだった。いくら目をすがめようとも、その先を見通すことはできない。まるで凝り固まったような厚い闇――
一行が“キング”の部屋を突破し、さらなる通路を進んだ先が、この暗闇に満ちた部屋であった。もっとも、暗闇がカーテンのように覆っているのは、部屋の入口から数歩先であり、入口からわずかの部分は見ることができる。ただし、床は一部だけを残しているのみで、そのほとんどがなくなっているという、これまた奇妙奇天烈な造りではあったが。
かろうじて残された床は、いわば橋のように入口から反対側――と言っても、そこがどうなっているのか見えないのだが――へ一直線に伸びており、その横幅は成人男子が両腕を広げた程度はありそうだった。渡るには充分の幅とも言えるが、橋のようになった床に欄干のようなものは見当たらず、しかも両側は床が抜け落ちてしまっているので、歩いているうちに誤って転落する可能性は拭えない。ヴァルキリーたちが、そんな不可思議で、とても危険な感じがする部屋を前にして黙り込んでしまったのも無理はなかった。
「……ど、どうする?」
当然の疑問を口にしたのは、やはり、いつものようにジョーだった。彼は、剣の腕前にはかなりの自信を持つ傭兵であったが、その反面、頭脳労働の方はといえば、どちらかというと苦手としているもののひとつである。そもそも、こんな信じられない光景を目の当たりにして、おいそれと、まともな思考など働くはずもなかった。
それは他の者たちも、少なからず同様であっただろう。ただ、何とか平静を装いながら、眼前に広がっている現状を受け入れようと努めるばかりだ。
「そりゃあ……どうするったって、渡るしかないでしょう、やっぱり」
マーベラスはそう言ってはみたものの、心ならずもためらいが声音に含まれていた。何しろ、部屋の真ん中に伸びている橋のような床は、すぐに暗闇の中に呑まれ、その先がどうなっているのか、皆目、見当もつかないのだ。ここを平然と渡ろうというのは、余程の命知らずだけであろう。
「とにかく、この暗闇が何なのか、調べてみる必要があるわね。光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>を先行させてみるわ」
茫然としかける一行の中にあって、ヴァルキリーは明かり代わりに使役している光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>のひとつを操り、目の前を覆っている闇の中へ突っ込ませた。すると、部屋にわだかまる闇は、光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>の光をもってしても払うことはできず、そのまま呑まれてしまったかのように見えなくなってしまう。ヴァルキリーはすぐさま戻って来るようにコントロールしようとしたが、まるでつながっていた糸が切れてしまったかのように手応えは失われ、そのまま光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>は帰って来なかった。
「……ロストしたわ」
「ロスト?」
「ええ、消滅したということよ。多分、この暗闇は魔法によるものね。――ランタンを貸してくれる?」
ヴァルキリーは次に、ジョーが持っていたランタンを借りた。それから、これ以上、明かりがなくなってしまうのは得策ではないので、予備の光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>を呼び出しておいてから、さらなる実験を試みてみる。
「見てて」
ヴァルキリーは、持っていたランタンを闇の中へ差し入れた。次の瞬間、ヴァルキリーの手首が消え、一同はギョッとしかける。しかし、当のヴァルキリーの表情からは、苦痛はもちろんのこと、どのような感情の変化も見受けられず、至って冷静なまま。手首がなくなったように見えたのは、その先が暗闇の中に潜ったからだと、一同は遅れて理解した。その証拠に、元に戻したヴァルキリーの手は何ともなっていない。ただし――
「あっ、火が……」
暗闇の中に入れたランタンには、最初、確かに火が灯っていたはずなのに、なぜか今は消えていた。そんなことは予想の範疇に過ぎなかったのか、ヴァルキリーは淡々とランタンに火をつけ直してから、それをジョーに返す。そして、ひとつの結論を出した。
「この魔法で作られた暗闇は、あらゆる光を呑み込んでしまうんじゃないかしら。だから光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>の光も、ランタンの明かりも中に入れると消えてしまうのよ」
「ということは、これから、まったく見えない中を歩かなきゃいけないっていうわけかよ?」
ジョーが弱々しい声を出した。どんな敵を前にしても臆さない戦士であるが、こういう自分の力ではなんともし難い見えない恐怖には、どうにも萎縮してしまうらしい。
「ドワーフの目でもダメか?」
珍しくスカルキャップが口を挟んだ。
ドワーフは夜目が効く。暗視能力<ナイトビジョン>だ。暗いトンネル内で生活する習慣から身についた能力だと言われている。昼間のように色彩までの判別は出来ないが、姿形はハッキリと見ることができた。
だが、ヴァルキリーはかぶりを振った。
「無理でしょうね。ドワーフが暗闇の中を見られるのも、そこにほんのわずかな光があるから。一切の光を通さない、この暗闇の中では、いくらドワーフの目でも役立たないと思うわ」
「なんてこった! しかも床は橋のようになっていて、足下を間違えればお陀仏か」
ジョーは髪の毛を掻きむしった。
ヴァルキリーはさらなる調査として、橋の下にも光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>を飛ばしてみたが、予想通り、光は豆粒程度にまで小さくなり、かなりの深さがあることが判明した。落ちたらひとたまりもないであろうことは、想像に難くない。まさに奈落だ。
「おそらく、橋は真っ直ぐ部屋の向こうまで伸びているでしょう。あとは、どうやって暗闇の中を橋から落ちることなく通るか、だけど」
「こういうのはどう?」
今まで熟考していたマーベラスが口を開いた。短剣<ショート・ソード>を抜く。
「剣をこのように橋の淵に当て、なぞりながら前に進むの」
マーベラスは橋のところまで行って、言葉通りに実践してみせた。
「なるほど。剣よりもこっちへ行かなければ落ちることはないわね」
ヴァルキリーもうなずく。単純そうだが、いい方法に思えた。
「剣とかがない人のためにも、歩くときは縦一列に。前の人の背中をつかみながら行くと、少しは安心できるんじゃないかしら」
一同はうなずいた。ただし、ジョーを除いて。
「この闇の中に、モンスターが潜んでたりしねえかな? 目が見えなくても大丈夫な、たとえば臭いでこっちを察知して襲ってくるようなヤツとか。そんなヤツの前へのこのこ行って食われたんじゃたまらねえぜ」
誰もジョーのことを憶病なヤツだなどと笑わなかった。ここは罠だらけの古代遺跡の中。わずかな油断が死につながることがある。あらゆる可能性は考えておくべきだ。
「多分だけど、その可能性は低いと見るわ」
ヴァルキリーは考えながら言った。
「その根拠は?」
「確かに、この遺跡は他者の侵入を拒む罠が多いけど、ここまでを見た限り、正しい選択をすれば、ちゃんと通れるようになっているわ。もしも、ここでモンスターを潜ませていたら、誰も無事に通り抜けられなくなってしまうんじゃないかしら。ただ、他の罠がある可能性は考えられるわ。ただ道が真っ直ぐに伸びているだけでは芸がなさすぎるもの」
その推測を聞いたマーベラスが、誰よりも難しい顔でうなずいた。様々な危険を想定しているのだろう。
結局、ザカリヤが決断を下した。
「ここはマーベラスに託そう。皆、気をつけてくれ」
かくして、賽は投げられた。
隊列は、マーベラス、スカルキャップ、ジョー、ザカリヤ、アルコラ、ヴァルキリーの順になった。ザカリヤとアルコラは、剣や、それに類するものを持っていないので、前の人の背中をつかむだけだ。アルコラの場合、ザカリヤが座る魔法の安楽椅子<マジック・チェア>の背もたれが頼りだ。
「準備はいい? 足場を確かめながらだからゆっくり行くけど、何か異常を感じたら、すぐ声に出して知らせて」
マーベラスは一行に注意を促した。そして、数珠つなぎになって暗闇に挑む。一歩間違えれば奈落の底だけに、胃が締めつけられるような緊張を禁じえない。
最後尾のヴァルキリーは、前にいるアルコラの背中に触るのをためらった。なぜなら、アルコラには失礼かもしれないが、何となく不浄なものに触れるような嫌悪感を抱いたからだ。しかし、そんなことも言っていられない。極力触れないよう気をつけながら、指先でローブをつまむような感じで我慢した。
「行くわよ」
マーベラスは仲間に合図すると、用心深く歩き始めた。一行は、まるで互いの足をロープで結ばれた囚人のように、ぎこちなく、小さな歩幅で進む。一番後ろのヴァルキリーから見ていると、最初にマーベラスの姿が消え、次にスカルキャップの姿が消えた。
そうして全員が暗闇の中に入ると、そこは当然のことながら真っ暗で、一寸先も見通すことができなかった。頼るのは前を行く者の背中と、橋の淵に滑らせるように触れた剣のみ。あとは何がどうなっているのか、天地が逆さになっていても分からない有様だった。
「どう、スカルキャップ? 見える?」
「ダメだ。真っ暗闇だ」
やはりドワーフの暗視能力<ナイトビジョン>も効果を発揮しないようだった。あとはマーベラスに頼るしかない。
行軍は慎重を期した。橋は真っ直ぐだと思われるが、それはヴァルキリーたちの単なる予想に過ぎず、ひょっとすると、とんでもない形になっているかもしれない。先頭を行くマーベラスはもちろんのこと、全員がかつてない神経をすり減らしながらの前進であった。
ヴァルキリーは歩きながら目を閉じた。どうせ開けていても真っ暗で見えやしないのだ。見ようと意識して、何も見えないという恐怖に襲われるより、自発的に目を閉じていた方が不安を紛らわせることができる。それに、その分だけ触覚や聴覚に神経を集中させることができた。
この暗闇がどこまで続いているのか、次第にヴァルキリーたちは時間と距離の感覚が麻痺し始めていた。前へは遅々としか進まず、極度の緊張感が恐怖と焦燥を生む。早くここを渡り切りたいと誰もが願い続けていた――
最初、異変に気づいたのはマーベラスであった。亀のような歩みがぴたりと止まる。
「気をつけて。これは――」
次の瞬間には、全員が変調を感じ取っていた。どこかからか聞こえる唸りにも似た音。緊張が走った。
「突風よ!」
マーベラスが叫んだとき、左からの凄まじい横風が一行を襲った。反射的に足を踏ん張り、飛ばされまいと姿勢を低くする。すぐ右は奈落の底。落ちれば待つのは死。背筋が怖気立った。
一行のほとんどが、すぐ身構えただけあって、強風に吹き飛ばされることはなかった。しかし、一番の煽りを喰らったのはザカリヤだ。空中を漂うザカリヤの魔法の安楽椅子<マジック・チェア>は、不意討ちに制御がままならなくなり、大きく右へ流されかけた。
「おあっ!?」
ザカリヤは慌てて、魔法の安楽椅子<マジック・チェア>を立て直そうと焦った。魔法の安楽椅子<マジック・チェア>は、座った人間の思考によって自在に移動する。左からの強風に逆らい、元の位置に戻ろうとした。
その変異は、アルコラを挟んで後ろにいたヴァルキリーにも伝わった。前にいたアルコラが体勢を崩す。おそらく、ザカリヤの魔法の安楽椅子<マジック・チェア>がふらついた余波を受けたに違いなかった。
「――っ!」
アルコラの背をつかんでいたヴァルキリーの手が離れた。どうやら、アルコラが弾き飛ばされたらしい。突如として、前にいたはずのアルコラの気配が消失した。
「おい、大丈夫か!?」
ジョーの大きな声がした。何も見えないこの暗闇の中では、声だけが頼りだ。マーベラス、スカルキャップの返事に続き、ザカリヤの喉が渇いたような、かすれた声が続いた。
「ヴァルキリー! おい、無事なら返事しろ! ヴァルキリー!」
自分を呼ぶ声に、ヴァルキリーは恐怖にすくんでいた。
「アルコラが……アルコラが……」
とうとう最初の犠牲者が出てしまった。
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