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追跡者<CHASER>

#03.嫉妬と純愛

 矢代圭祐は、始業式が始まろうとしている体育館に城戸倉香里の姿がないことに気がつき、心配になっていた。
 すでに体育館内には全校生徒のほとんどが集合し、整列が行われている。体育館の入口はもちろん、周囲の扉も開け放たれているが、涼やかな風など少しも吹き込まない。教師たちの号令に、生徒たちはダラダラとした動きしか見せていないが、これでも真夏の陽射しを受ける校庭よりはマシだろう。始業式は間もなく始まりそうだった。
 それにしても、先程まで元気に泳いでいた香里に何かあったのだろうか。突然なことだけに、余計に不安になる。
 香里の身に何かあったとすれば病気か怪我か。どちらにせよ保健室にいるはずだろうと圭祐は思い当たった。
「オレ、気分悪いから、ちょっと保健室に行って来るわ」
 後ろに並ぶクラスメートにそう告げて、圭祐は整列を抜け出した。さも具合が悪そうに口許を押さえておく。仮病など初めてだった。
 圭祐は体育館入口に立った生活指導の教師にも同じ理由を述べた。普段、真面目で大人しい生徒なので、生活指導の教師も圭祐の仮病を信じたようだ。それより壇上の方ではなにやらトラブルがあったらしく、教師たちは皆、慌てた様子だった。
「おい、新任の一条先生は?」
「さあ。先程まで一緒に体育館の方に歩いてきたのですが」
「どこへ行ったんだ? 生徒たちに自己紹介してもらおうと思っていたのに」
 そんなやりとりが教師の間で交わされていたが、圭祐は逆にチャンスとばかりに、気分が悪そうな演技を続けながら先を急いだ。
 自分でも、なぜここまでして香里の身を案じているのか不思議でならなかった。これまでなら教室やプールで香里を眺めているだけで幸せだったはずだ。それが今、香里のことが気になって仕方がない。
 あえて理由を探すなら、わずか三十分前に見た香里の泳ぎ。それはこれまでの香里とは明らかに違い、大きさ、力強さを感じるものだった。あの泳ぎに魅了されたと言ってもいい。それに……。
 始業式のため、生徒も教職員も体育館に集まったせいで、校舎の中はひっそりと静まり返っていた。リノリウムの廊下を歩く自分の足音だけが響く。
 保健室の前まで来ると、圭祐は少し緊張した。中に香里だけならともかく、保健医もいた場合はどうするか。香里の様子を見に来たと言ってもいいが、それでは香里に自分の気持ちを悟られてしまう恐れがある。保健委員であれば、それらしい理由になるだろうが、あいにく圭祐は違うし、さらに香里とは一度も口を利いたことがないのに「気になって」では見え見えである。やはり仮病を通すしかないだろう。
 念のため、保健室のドアを少しだけ開けて覗いてみた。いなければ余計なウソをつく必要はない。
 だが、圭祐の願いとは裏腹に、保健室の中では白衣姿の女性が忙しそうに歩き回っていた。なにやらタオルを濡らしたり、薬品棚を調べたりと動いている。
 ところが、やがて圭祐はこの白衣の女性が保健医ではないことに気がついた。保健室を利用したのは、春の健康診断の時だけだが、保険医の女性はもう少し年輩だったはずだ。今いるのは明らかに二十代の半ばくらい。別人だ。その他の教師かとも思ったが、他の学年を通じても見かけない顔である。それに白衣の下がハデだ。発色鮮やかな黄色いボディコン・ミニで、教師というよりはイケイケ姉ちゃんである。そのくせ顔は知性にあふれたような容貌で、ギャップが激しい。
 どうやら白衣のイケイケ姉ちゃんは、ベッドに寝ている人物を介護しているようだった。それが香里ではないかと圭祐は思い、狭い隙間から目だけを動かしてベッドに寝ている人物を確かめようとした。
 ベッドに寝ているのは女生徒のようだった。圭祐の位置からでは、頭は見えるものの顔までは見えない。それでも頭髪の形や長さから香里に間違いないと思われた。制服姿のまま毛布も掛けられずにベッドに横たえられ、額にはイケイケ姉ちゃんが先程濡らしていたタオルが乗っている。貧血か何かで運び込まれたのだろうか。
 イケイケ姉ちゃんの介護は一通り終わったらしく、ホッと息をついて、ベッドの脇に置かれた丸イスに腰をかけた。そして香里──おそらくだが──の顔の辺りの汗を拭うようにする。どうやら怪しい人物ではなさそうだ。
 だが、圭祐が安心したのも束の間、イケイケ姉ちゃんはおもむろに妙な行動へと移った。香里の足下の方へ回ると、なんとスカートの中に両手を差し入れていったのだ。
 これには圭祐もギョッとした。まるで香里の下着を脱がそうとしているかのようだ。
 その推察は正しかった。イケイケ姉ちゃんは香里の腰を持ち上げるようにして、履いていた下着を抜き取ろうとしたのだ。下着が膝の辺りまで降ろされる。
 何をしようと言うのだろう。まさか……。
 圭祐の頭に「レズビアン」という言葉が浮かんだ。もちろんビデオでしか見たことはないが、このイケイケ姉ちゃんがそういった趣味の人間だと考えられなくもない。ましてや香里は大人しそうなお嬢様タイプ。狙われる可能性は充分だ。
 圭祐は思わず生唾を呑み込んだ。意識しなくても下半身のある一部分に血液が集まってくるのが分かる。腰が引けた。
 スカートは着用したままだったので、肝心なところは圭祐に見えなかったが、やはり健全な男子、見てみたいというのは正直な気持ちである。つい首を伸ばして、保健室のドアに体重をかけてしまった。おかげでドアの軋みが静かな保健室に響くのは当然で、
「誰!?」
 と、イケイケ姉ちゃんから誰何の声があがった。
 こうなっては降参して姿を見せるしかなかった。
「す、すみません、覗くつもりじゃ……」
 消え入りそうな声で、圭祐はドアを開けて、保健室へ足を踏み入れた。ズボンの前が膨らんでいるのが情けない。
「何の用?」
 自分の行為を見られたことに少しの動揺もないのか、イケイケ姉ちゃんは平然と圭祐に問うた。
「いえ、あの……彼女の姿が見えなかったものですから、もしかしたら保健室じゃないかと思って……」
「同じクラスなの?」
「はい……」
 イケイケ姉ちゃんに真っ直ぐ見つめられて、圭祐は仮病で通すことも忘れていた。威圧的ではないが、なんとなく迫力めいたものが女から感じられ、それどころではなかったのだ。
「そう。彼女、脱水状態みたい。室内プールの更衣室のところで倒れてね、偶然、通りかかった私が発見したの。保健の先生があいにくいなかったけど、さっき水を与えて、頭をタオルで冷やしているから、そのうち意識が戻ってくると思うわ。ご苦労ね、保健委員なんでしょ?」
「あ、いえ……」
 圭祐は否定も出来ず口ごもり、顔をうつむかせると、視界に香里のナマ脚が目に入ってきた。スカートで重要な部分はもちろん見えないが、膝下まで下着が降ろされたままなので、ものすごくエッチに見える。視線が釘付けになった。
 それをイケイケ姉ちゃんは見咎めたようだった。
「コラッ! 女の子のこんな姿をジロジロ見ない!」
「す、すみません……」
「ほら、元に戻すから後ろを向いて」
「はい……」
 素直に女の言葉に従って、圭祐は後ろを向いた。ついでに目もつむる。これが香里に対する誠意のつもりだったが、半分はもったいないことをしたな、という思いもある。
「どうしてそんな、その……下着なんかを脱がしたんですか?」
 圭祐は疑問を口にした。
「私、こういう可愛い娘、タイプなのよねぇ」
 それを聞いた圭祐は赤面した。一応、可能性として考えてはいたが。
「──な〜んてね、冗談よ、冗談。ほら、年頃の女の子っていろいろあるから」
「いろいろ、ですか」
「そ、いろいろよ。──よし、もうこっちを向いて平気よ」
 許しが出されたので、圭祐は女の方を向いた。女は少し警戒心を解いたのか、いたずらっぽい笑みを浮かべている。それは圭祐ならずともドキッとするような表情だった。
「ふふふ、ウブねェ」
「そ、そんな、からかわないでください」
 まともに女の顔を見られなかった。そのすぐ近くには香里が寝ているのに。もちろん自分が香里の恋人というわけではないが、なんだか浮気者のように思えた。
「せ、先生は新しい保健の先生ですか?」
 今の圭祐には話題を変えるのが精一杯だった。
「いいえ。私は生物の橋本先生の替わりに赴任してきた一条カンナよ。よろしくね」
「一条先生……」
 なるほど、生物教諭ならば白衣もうなずける。しかし、その下のボディコンは派手すぎるだろう。校長や他の先生から注意されないのだろうか。
「じゃあ、あとはキミに任せて、私は失礼するわ。保健の先生も戻ってくるだろうし。あとはよろしく」
「は、はあ……」
「じゃあね」
 一条カンナと名乗った女は、保健室から出ていこうとした。その寸前に立ち止まり、指を鳴らして圭祐を呼んだ。
「そういえば、キミと彼女の名前は?」
「僕は一年B組の矢代です。彼女は同じクラスの城戸倉香里」
「ふーん、矢代くんに、城戸倉さんね。──二人だけになって、ヘンな気を起こさないように」
「ちょ、ちょっと、先生!」
「ふふふ、冗談だってば」
 カンナはまたいたずらっぽい笑みを見せると、今度こそ本当に保健室から出ていった。
 すると廊下から慌ただしい足音が聞こえ、
「ああーっ、一条先生こんなところに! 早くしてください! 先生の自己紹介、始まっちゃいますよ!」
「あちゃーっ、やってしまったぁ! すぐ行きます!」
 慌ただしい足音は二つに増え、やがて遠ざかっていった。どうやらカンナは、香里の看護にかまけて、始業式での挨拶を忘れていたらしい。
「なんだかなぁ、あれが先生かねぇ」
 圭祐は呆れるやら面白いやらで、思わず呟いていた。
「ううん……」
 寝ている香里から声が漏れて、圭祐は驚いた。廊下の騒がしさに一因があったのか、どうやら意識が戻りつつあるらしい。そこで初めて、圭祐は香里と二人だけだということに思い当たった。何百回と心の中に描いてきたシチュエーションだったが、途端に緊張してくる。正直、逃げ出したいような気分だった。
 しかし、制服姿のまま保健室のベッドに寝ている香里を見ていると、離れ難いのも事実だ。ここには、あこがれだった香里がすぐ近くにいる。手を伸ばせば触れられる距離に。
 もちろん、寝ている香里に対して触れるなどという勇気は、圭祐には微塵もない。ただ、こうしてそばにいるだけで胸がいっぱいになってくる。
「ん……」
 仰向けに寝ていた香里の身体が、圭祐の方へわずかに傾いた。それに伴って、スカートに隠れていた脚の付け根があらわになる。先程、カンナが脱がしかけていた短いスカートの奥が見えそうで見えない。圭祐のノドが思わず鳴った。
 スカートの裾をめくれば見えるのは分かっているが、そんなことは圭祐にはできない。だが、もう少し香里の足下の方へ移動すれば、あるいは……。
 そうだ。移動するだけだ。悪い事じゃない。別に覗こうとかそう言うつもりはないのだ。ただ、移動して、もしかしたら見えてしまうかも、というだけのこと……。
 圭祐が動きかけた刹那、香里の瞼がゆっくりと開いた。圭祐の顔も身体も凍り付く。
「ここは……?」
 香里はねぼけたような目で、緩慢に室内を見回す。その瞳が圭祐の姿を映し出すと、大きく見開かれた。
「きゃっ!」
「わっ! ご、ごめんなさい!」
 圭祐は慌てて、後ろに跳ぶようにして離れた。その拍子に、足下にあった丸イスを引っかけ、派手に転倒してしまった。
「い、ててててっ!」
「大丈夫?」
 香里は圭祐が倒れたのにビックリして、上半身を起こした。
 圭祐はまともに尻餅をついたため、すぐに起き上がれそうもなかった。それにしても片想いの相手である香里の目の前で、車にひかれたヒキガエルのような格好をさらすのは、なんとも恥ずかしかった。自己嫌悪に陥る。
「矢代……くん?」
 香里は少しショックから立ち直ったらしく、圭祐の名字を呼んだ。香里が圭祐の名前を憶えていてくれたのは、嬉しくもあり、安心もした。なにしろ同じクラスでありながら一言も会話を交わしたことがなかったので、圭祐の存在など知ってるかどうかも疑問だったのだ。その杞憂は一瞬にして消し飛んだ。
「ご、ごめん……」
 とはいえ、まだまだ香里を前にして普通の会話はできそうもない圭祐だった。緊張と恥ずかしさから赤面していくのが分かるし、まともに顔も見られない。
「ううん、こっちこそ驚いたような声を出しちゃって……」
 香里は首を横に振って、ベッドから立とうと脚を降ろそうとした。その途端、香里の顔の表情が硬くなり、今度は見る間に赤くなっていった。そして、慌てた様子でベッドの足下に畳まれていた薄い夏布団を引っ張ると、下半身を隠すようにした。
 最初、圭祐には何がなんだかさっぱり分からなかったが、香里がこっちの方を気にしながら、夏布団の下でなにやらゴソゴソやっているのを見て思い当たった。どうやらカンナが香里の下着を戻したとき、ちゃんと上げ切っていなかったようだ。またエッチな想像力を働かせてしまった圭祐は、慌てて顔を背けた。
「い、い、一条先生が……」
 自分のせいではないと弁解したくて、圭祐はカンナの名前を出した。だが、なかなか言葉になって出てこない。
 香里の方はその名前で状況を思い出したようだった。
「そうだ。私、あの先生に……」
「そ、そうなんだ、あの先生が……」
 圭祐は保健室の床から立つと後ろを向いた。これは香里に配慮したものであったが、本当は自分の節操がない下半身を見られたくない理由でもあった。
「な、なんか、更衣室で倒れていたって聞いたけど……」
「………」
 圭祐は答えを待ってみたが、香里は無言のままだった。後ろを向いてしまったせいで、香里の表情を窺うことが出来ない。だが、なんとなく触れてはいけないことなのかも知れないと圭祐は思い、それ以上、問いかけるはやめた。
「私……」
「え?」
 圭祐は後ろを向いたまま問い返した。気配で香里がベッドから降りたのが分かる。
「私、どのくらい寝てたのかな?」
「さあ……。でも、もう始業式が始まってる頃だよ」
「そっか……。行かなきゃね、始業式」
「うん……」
 股間もなんとかおさまってきたので、圭祐は振り返った。まだ、香里は本調子じゃないのか、少しフラついている。
「大丈夫?」
「うん……。あっ!」
 言ってるそばから、香里は倒れそうになった。慌てて、圭祐が抱くようにして受け止めた。
「き、城戸倉さん!?」
「ご、ごめんなさい……」
 内心、圭祐は──不可抗力の上とは言え──香里を抱きしめることが出来て、有頂天だった。できることなら、ずっとこうやって抱きしめていたかった。
 だが、香里の身体は異常なくらい火照っていた。熱でもあるのか、尋常な体温ではない。どうやら具合が悪いのは確かなようだ。
「やっぱり、まだ寝ていた方がいいよ」
 圭祐は初めての女体の扱いに苦労しながら、香里をベッドに座らせた。香里は大人しく横になる。その間に圭祐はタオルをもう一度濡らして来て、香里の額に乗せてやった。
「先生には僕の方から言っておくよ。もしよかったら、放課後、家まで送っていくし……」
 言ってしまってから、圭祐は赤面した。これでは自分の気持ちを香里に知られてしまったようなものだ。
 だが、香里は特に気づいた素振りも見せずに、自然に首を横に振った。
「いいよ、悪いから。それに水泳部の練習もあるし」
「そんな身体で泳ぐつもり!? よしなよ、今日は。体を壊しちゃ、元も子もないよ」
「うん、でも……」
「保健の先生だって止めると思うよ。せめて今日一日は休みなよ」
 つい力を入れて喋っている自分にハッとして、圭祐はまたしても恥ずかしさに紅潮した。今まで会話も交わせなかった自分が本物なのか、それとも今の自分が本物なのか、わけがわからなくなってくる。
 香里も圭祐の迫力に気圧されたようだ。
「わかった……」
 とりあえず香里が言うことを聞いてくれたようなので、圭祐は安心した。
「じゃ、じゃあ、僕はもう行くから」
 その場を取り繕うように引きつった笑顔を作りながら、圭祐は体育館に戻ろうとした。
「矢代くん」
 出て行こうとする圭祐を、ベッドの上から香里が呼び止めた。
「ありがとう……」
 はにかんだような表情で香里が礼を言うのを、圭祐は信じられない思いで見つめた。途端に緊張感が甦ってくる。
「え、いや、そんな……」
「ホント、ありがとう」
 香里にもう一度言われ、圭祐は緊張の他に別の感情が湧き上がってくるのを感じた。それは高揚感とでも言おうか。あこがれの香里に感謝されているという喜びに、圭祐は震えた。
「じゃあ、ゆっくり休んで」
 香里を安心させるように言って、圭祐は保健室を出た。すでに始業式が行われているはずの体育館に戻りながら、顔がほころんで来るのを止めようがなかった。それこそ叫び出したい気分で。



 退屈な二学期の始まりに生徒たちはうんざり顔であったが、ただ一人、圭祐だけはスキップでも踏みかねないほどの上機嫌で始業式を終えた。
 連絡事項のみのホームルームが終了すると、友人たちの誘いも耳に入らない様子で、圭祐は保健室に直行した。すでに香里を家に送り届けることを使命のように決めてしまっているので、他の些事が目に入らなくなっている。
「失礼しまーす!」
 ほんの二、三時間前とは別人のような意気込みで圭祐は保健室に入った。
 ちょうどベッドから立ち上がろうとしていた香里が、少し驚いたような表情を見せたが、すぐにはにかんだような笑顔になる。
「矢代くん……」
「城戸倉さん、やっぱり送っていくよ。S町でしょ? 僕はY町だから方向的には同じだし」
「そんな、いいのに」
 遠慮がちに香里が首を横に振る。だが、今の圭祐は押しが強くなっていた。
「具合が悪いんだから、人を頼ることは別にカッコ悪いことじゃないよ。それより、起きて平気なの?」
「うん、大丈夫。保健の先生も帰っていいって」
 相変わらず保健医はどこに行ってしまったのか、朝同様に席を外していたが、香里の顔色を見ても大丈夫そうなのは間違いなさそうだ。
「じゃあ、帰ろう。鞄は僕が持つから」
 少し強引とも言える圭祐だったが、香里は親切心からの行為なのだろうと解釈してくれたらしく、嫌な顔ひとつせずに従ってくれた。
 級友たちに見つかって冷やかされることを危惧していた圭祐だったが、昇降口までは何事もなく並んで歩くことができた。他人の目を気にしてしまうのは馬鹿馬鹿しいと思うが、それで香里が不快な思いをしては元も子もない。できれば帰り着くまでは無事に通り過ぎたいものだ。
 下足に履き替え、校門の方へ歩き出した圭祐を、香里は袖を引っ張って止めた。
「待って。コーチに今日の練習を休むって言ってくるから」
「分かった」
 二人は正門とは反対側にある室内プールへと回った。
 香里の付き添いとは言え、部外者の圭祐が中にはいるわけにはいかない。圭祐は入口が見える少し離れたところで待つことにし、香里一人で中へ入っていった。
 圭祐が待っている間も、続々と水泳部員たちが室内プールへと入っていく。
 しばらくして、香里とコーチらしい女性が入口に姿を見せた。離れて聞き取りにくいが、コーチが香里の具合を心配しているようだ。だが実際のところは、今朝の香里の泳ぎを確かめてみたかったというのが本音だろう。素人の圭祐にはよく分からなかったが、香里が出したタイムは相当なものだったはずだ。それをいきなりマークした香里に、コーチが興味を持たないはずがない。
「ゆっくり休んで」
 と、香里の背中をぽーんと叩いて、コーチは室内プールの奥へと姿を消した。香里はそちらの方に深々と会釈して、圭祐がいる場所へ歩き出そうとした。
 ──だが、その動きが不意に止まった。表情も強張ったものになっていく。
 原因は──香里の視線の先にいる人物──殿村庸司だった。
 一年生の圭祐でも、男子水泳部バタフライのエース、殿村庸司のことは知っていた。女子に人気があることも、その人気に違わぬ実力の持ち主であることも。
 その殿村と香里。同じ部活の先輩と後輩。だが──
 圭祐はただならぬ二人の雰囲気に胸騒ぎをおぼえていた。
 黙ってうつむく香里に、殿村が何かを喋った。聞こえなかったが、殿村の口の動きは「香里」と言ったようだった。「城戸倉」ではなく、もっと親しげに呼ぶ名で。
 殿村は続けて何かを喋っているようだったが、圭祐の所まで話の内容は聞こえてこなかった。だが、香里がうつむきながらも、ある言葉にピクリと反応したのは確かだった。
 唐突に香里が駆けだした。まるで、その場から逃げるかのように。殿村の脇をすり抜け、圭祐にも目もくれず、校門の方へと走っていく。
「香里ーっ!」
 今度はハッキリと殿村の言葉が聞こえた。それは圭祐の全身を貫く刃物でもあった。
 今日、久しぶりに香里の姿を見て感じた違和感は、ただ泳ぎがうまくなっただけではないのだと、圭祐はようやく思い知った。
 そう、彼女はこの夏でオンナになったのだ……。
 相手は間違いなく、あの殿村だろう。そして、二人の間には何か関係がまずくなるようなことが起きたのだ。
 知らなかったこととはいえ、ほんの少し保健室で会話できたことに有頂天になって、ナイト気取りで香里を送り届けようとしていた自分が情けなくなってきた。
 自分はなんて幼稚なんだろう。
 自分はなんて子供なんだろう。
 香里の鞄を握りしめながら、圭祐は打ちのめされていた。



 殿村から出た言葉に動揺し、香里はただ逃げるように走った。
「やりなおそう」
 殿村は言った。
 でも、昨日は違う言葉を香里に言った。
「終わりにしよう」
 どっちがホント?
 どっちがウソ?
 香里には判断がつかなかった。
 昨日の言葉がウソなら、なぜウソをつかなくちゃいけなかったの?
 今の言葉がウソなら、なぜ心にもないことを口にするの?
 分からない。
 分からない、分からない、分からない……。
 夕べ枯れたと思われた涙がまた流れ出していた。
 香里はその涙を拭うことも忘れて走り続けた……。



 走り去った香里の後を追うことはせずに、殿村は練習のために室内プールへ向かおうとした。冷ややかなセリフが吐かれたのは、その刹那だった。
「大したプレイボーイぶりね」
 殿村はめんどくさそうに振り返った。
「見てたんですか、先輩」
 女子水泳部で副主将を務めていた中原怜子は、微笑を浮かべながら殿村に近づいた。美人にも関わらず、その笑みには邪気が含まれている。
「フッた女と寄りを戻そうだなんて、虫が良すぎない?」
「誰が別れるように仕向けたんですか?」
「あら、私が何かしたかしら?」
 怜子はしらばっくれながら、殿村の襟元辺りに手を伸ばす。それは淫靡な行為を連想させた。
「よしてください」
 殿村は冷たくその手を払った。「学校でそういうことはしない約束でしょう?」
「言うようになったわね、庸司」
 怜子の柳眉がつり上がる。だが、殿村は意に介さない。
「先輩には悪いですが、水泳部を退部した人にとやかく言われたくはないですね」
「誰があなたを可愛がってあげたと思ってるの?」
「今の僕があるのは実力ですよ。そうでしょう?」
「そんな実力のあるあなたのパートナーがあの女? 笑わせてくれるわ」
「今朝の彼女の泳ぎ、見たでしょ?」
 笑みだけは絶やさなかった怜子の表情が強張った。殿村が何を言わんとしているのか、同じ天才肌の彼女には分かったのだ。
「先輩のバタフライは確かに速い。でも、僕が見るところ、記録はもう伸びませんよ。しかし、香里は違う。まだ水泳選手としては未熟な肉体にも関わらずあの記録だ。これから練習を積むごとにもっと速い泳ぎが出来るでしょう。僕はね、世界記録も可能だと見ているんですよ。多分、コーチもね。どうです? これでも彼女は僕にふさわしくありませんか?」
 怜子の肩は怒りに震え、般若の形相で殿村をねめつけていた。
「そこまで言うなら覚悟があるんでしょうね? あの女に、私とあなたの仲をばらすわよ。それでもいいのね?」
「かまいませんよ。過ちは正せばいい。彼女は分かってくれるはずです。──では、練習があるんで」
 殿村は会話を打ち切ると、怜子に背を向けて練習に向かった。
 その場に残された怜子の怒りはおさまるどころか、どす黒い憎悪へと変じていた。近くに誰かがいれば、その険悪さにきっと逃げ出してしまったことだろう。それほどの迫力があった。
「庸司、そして城戸倉香里……許さないわ。私をないがしろにするヤツは、絶対に!」


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