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追跡者<CHASER>
#04.蝕まれゆく日々
香里は冷たいシャワーを浴びながら、火照った身体を鎮めていた。同時に、動揺で混乱しかけている気持ちの整理をしようと懸命だった。
だが、身体の火照りは修まりつつあるものの、心の乱れはどうしようもなかった。
殿村庸司。
その顔が目をつむっても浮かんでくる。
全国でもトップクラスのスイマー。あこがれだった先輩。そして、香里にとって初めての男……。
その香里と殿村の関係は、一度、終わったのだ。もちろん、まだ忘れられるほどの時間がたったわけではない。つい昨日のことだ。それを……
「やりなおそう」
何度も何度も反芻される言葉。
殿村を忘れようとした決意が鈍る。いや、それどころか、信じていた殿村の言葉が真実なのか否か、確信が持てなくなってくるのがなにより怖かった。
「つき合って欲しい」という言葉もウソ。
「終わりにしよう」という言葉もウソ。
そして「やりなおそう」という、先程の殿村の言葉も……。
シャワーを浴び終わっても、殿村の声が耳から離れなかった。バスタオルで濡れた髪を拭いながら強く頭を振って、それを振り払おうとも試みる。だが、そんなものはささやかな抵抗にしかならなかった。簡単には消せないほど、殿村の存在が香里に深く刻まれている証拠だ。
バスルームを出るなり、バスタオルを身体に巻いたままの姿で、香里は二階の自分の部屋に上がった。帰宅してすぐにシャワーを浴びようとバスルームに駆け込んだため、着替えは部屋に取りに行かねばならなかったからだ。
香里は二階の自分の部屋に入ると、カーテンを閉めようと窓に近寄った。
ふと窓の外を見やると、家の前の道を一人の少年が立ち去って行く姿があった。香里が通う森里高校の男子の制服に似ている。香里はそれが同級生の矢代圭祐ではないかと思い当たった。
「矢代くん……」
放課後、コーチに水泳の練習を休むと告げた後、殿村と鉢合わせし、動揺で我を忘れてしまっていたが、圭祐は自分を送ってくれると言っていた。鞄も圭祐に持ってもらったままだ。
香里は圭祐の後を追いかけて、先程のことを謝ろうと思ったが、まだバスタオル一枚だけの姿だったことに気がついて、慌ててクローゼットの引き出しを開けた。手早く着替えを済ませ、玄関へ急ぐ。
ミュールをつっかけ、玄関を出ようとすると、ドアが何かに当たる感触があった。開いた隙間から外を覗くと、それは香里の鞄だった。やはりさっきの後ろ姿は圭祐だったのだ。
香里は圭祐を追いかけようとしてやめた。圭祐が鞄を届けてくれたのなら、家のインターフォンを押していたはずだ。シャワーを浴びてはいたが、インターフォンが鳴ればバスルームでも分かる。それが聞こえなかったのは、圭祐が押さなかったということだ。
圭祐がどういうつもりでインターフォンを押さずに、玄関先に鞄だけを置いて行ったのか、それを考えると香里は追えなかった。
きっと圭祐は香里と殿村の様子を見て、二人がどういう関係か悟ったはずだ。だから香里とは顔を合わせないようにしようと考えたに違いない。
圭祐が香里に対してどのような感情を抱いているのか、今日の態度を見ていればなんとなく分かった。そこまで香里は愚鈍ではない。それは好意として素直に受け止めたかったが、まだ殿村を引きづっている香里にはできない。
香里は鞄を抱きかかえたまま、圭祐が立ち去った方向に滲む夕焼けを見つめた。
森里高校の正門から約五十メートル離れたところにある坂道の途中に、無骨な白いバンが止められていた。運転席には鹿島がおり、MDウォークマンをヘッドフォンで聴きながら、焼きそばパンをかじっている。だが、その視線はジッと森脇高校の校舎に注がれていた。
唐突にバンのドアがノックされ、窓からカンナが顔を覗かせた。エアコンが効いた車内の快適さは捨て難かったが、鹿島はドアの窓を半ばまで開けた。もわっとした空気と共に、カンナの甘い香りも車内に入り込む。カンナは学校の時とは違って白衣を脱いでおり、ボディ・ラインが強調された服装の直視は、男の本能を刺激せずにはいられなかった。まだ、付き合いが長い鹿島だからこそ、平静を装うこともできる。
「どう?」
挨拶抜きにカンナが切り出した。
「異常なしだな」
鹿島がむすっと答える。
「こっちも異常なしだったわ。まあ、ヤツが本格的に活動するのはまだまだ先でしょうけど」
「んなこった分かってる。しかし、早いとこ特定しないとマズイぜ」
「こっちこそ、アンタに言われなくたって分かってるわよ。犠牲者は水泳部の誰かよ」
「特定したのかよ!?」
鹿島の口から焼きそばの食べカスが吹き出した。露骨にカンナの顔が歪む。
「鹿島ぁ!」
「うっ! す、すまん!」
慌てて飛び散った食べカスを大きな手の平で拭い、鹿島は謝罪する。プロレスラー顔負けのガタイを持つ大男が女にペコペコする姿は、情けないと言うよりユーモラスに見える。だが、カンナの眼は冷たい。
「まだ特定したワケじゃないわ。でも、夜遅くに室内プールを使った人間となれば、水泳部の部員、もしくはそのコーチだという推理はすぐに成り立つでしょ?」
「そう言や、そうだな」
ポケット・ティッシュで手を拭き拭き、鹿島がうなずく。
カンナは真顔に戻って、
「ヤツが人体に潜り込んだのなら、まず一週間から十日は人間の肉体に馴染もうとする準備期間よ。その後、栄養供給の確保をして、体内に産卵を始める。これがさらに十日くらい。だから、まだ約二週間から二十日の猶予があるわ。その間に被害者を特定すればいい。それも水泳部の関係者をマークすれば簡単よ。特にあのコ……」
最後の一言は囁きのごとく小さく呟かれたので、鹿島の耳には聞こえなかった。
下校途中の生徒たちが、車内の鹿島と立ち話をしているカンナに視線を投げながら通り過ぎていった。
なにしろ体育館で行われた始業式での自己紹介で、その教師らしかぬ破天荒な服装はどよめきを呼んだ。全校生徒に「一条カンナ」の名前がインプットされたのは間違いない。鹿島との会話は早めに切り上げた方が良さそうだ。
「──そういうことだから、今日はこれで上がるわね」
「うぃっス! じゃあ、乗ってけよ」
鹿島はカンナを車に乗せようと思い、助手席にばらまかれたスポーツ新聞や雑誌を片づけ始めた。だが、カンナはかぶりを振った。
「私、これから歓迎会なのよ」
「歓迎会?」
「そ。新任教師の歓迎会。メインの私が抜けるわけにいかないっしょ?」
コロコロと変わるネコのように、意地の悪そうな瞳でカンナが同意を求める。逆に鹿島の顔はしょっぱくなった。
「うまいこと言って、どうせ高校の男性教諭が目当てなんだろ?」
「これがなかなか、いいオトコ揃いなのよねぇ、ここのガッコ」
ついつい、カンナの笑みがこぼれる。どのみち、鹿島に勝ち目はない。
「チッ、勝手にしろ!」
「じゃあね、所長への報告書、よろしく!」
これ見よがしに手などを振りながら、カンナはいそいそと歓迎会に出掛けていった。
面白くない鹿島は、食べかけの焼きそばパンをグイッと口にねじ込むと、ペットボトルのミネラル・ウォーターで流し込んだ。
一週間後──
森里高校は表面上、何事もなく平和な夏の日々を送っていた。
それは“学校”という一つの集合体で見た場合のことで、生徒一人一人には何かしらあるものだ。
城戸倉香里の場合、二学期の学校生活は豹変したと言ってよい。
まず、夏休み最後の日につき合っていた水泳部の先輩、殿村庸司にフラれた。
その夜、学校の室内プールで傷心を癒していると、正体不明の何かに襲われ、そいつは香里の膣口より体内に侵入してきた。その影響なのか、身体はだるく熱っぽい。ただ、それ以外の痛みや違和感はないので、今のところそれを相談した相手はいなかった。実際のところは恐いというのが本音ではあるが。
そして、自身も驚く、泳ぎの上達。二学期の初日、何気なく出したタイムは全国レベルのもので、それがフロックでなかったことは、後日の泳ぎが証明している。泳げば泳ぐほど、タイムは縮まっていった。森里高校のO・Gでもあるコーチは香里に可能性を見出し、マン・ツー・マンでの指導をしてくれるようになった。これまで『一軍』であった香里だが、ここまで熱心な指導は過去になかった。それは香里の気持ちに素直な喜びを与えてはくれなかったが、泳いでいるときは気にならない。むしろ日に日にタイムが更新される楽しさの方が上回っていった。それはこれまで水泳をやってきて、初めて体験する心地よさだった。
だが、その反面でイヤなこともある。背泳ぎで好タイムを出すようになって、陰湿なイジメに遭うようになった。誰かがこれ見よがしに嫌がらせをするのではない。こそこそと隠れて行われるのだ。
例えば、下駄箱の中の上履きに画鋲を入れられた。
例えば、教室の机の中に「お前なんか死んでしまえ」という手紙が入れられていた。
例えば、更衣室のロッカーに閉まっていた制服が、ハサミのようなもので切り刻まれていた。
同じ部の仲間やクラスメートに聞いても知らないと言う。いや、何人かは知っていたようだったが、知らないフリを必死にしているようだった。
中原怜子。やはり水泳部の先輩だった彼女かも知れない、と香里は考えている。
二学期の初日、更衣室に閉じ込められたときに聞いたあの声。部の元先輩であり、上級生でもある怜子の仕業だとすれば、誰も告げ口できないのは納得できる話だ。それに彼女には殿村とつき合っていたというウワサがある。香里と殿村の仲を知った怜子が嫉妬を抱いたというのも考えられなくはない。それも殿村と別れた今頃になって……。
だが、その殿村が一番、香里の心を苦しめていた。
離別を宣言したはずの殿村が、再び香里とヨリを戻そうとしている不可思議な事実。香里は殿村のどの言葉を信じればいいのか混乱していた。あれから毎日、水泳部の練習で顔を合わせるたびに、殿村はその話を切り出してくる。なるべく避けるようにしている香里だったが、揺れている自分の気持ちには、正直、戸惑っていた。
そして、殿村との関係を知ったクラスメート、矢代圭祐とのぎこちない接し方。元々、保健室で初めて会話を交わすまでは親しくもなんともなかったが、あの日以来、逆によそよそしくなってしまった圭祐の態度を、香里は憂慮していた。好意を持ってくれていたはずの圭祐を傷つけたのは自分なのだ、と。そう考えると、もう一度、圭祐と話し合いたいと香里は願わずにいられなかったが、毎日同じ学校、同じ教室で顔を合わせているにも関わらず、チャンスは訪れてくれなかった。
また、これは悩みと言うほどではないのだが、新任の生物教諭、一条カンナの存在が気になっていた。美人で聡明、うらやむほどのプロポーションと、同性として香里もあこがれるが、その服装は教師としていささか常識に外れる派手さで、別の意味で校内の注目になっているのも確かである。だが、それ以上に香里が気にしているのは、カンナが自分に興味を持っているような態度をとることだ。
更衣室に軟禁されたとき、助けてもらったのが出逢いの始まりだが、折に触れてカンナの姿をよく見かける。授業中はともかく、登校時や水泳部の練習中、昼休み、そして帰宅途中と、気がつけば色々な所で自分を見つめているカンナがいた。まるで見張られているかのようだ。もちろん、同じ通学路を使い、同じ学校で生活しているわけだが、それにしたって単なる偶然では片づけられないような気がする。カンナの目的は分からないが、少々、薄気味悪い。だが、それを直接、カンナに問いただす勇気も香里にはなかった。
唯一、香里の悩みの中で軽減しているのは、体の復調であった。まだ、真夏日の強烈な陽射しもあって完全とは言えないが、ばったりと倒れるようなことはなくなってきた。気温がもう少し低くなる時期になれば、もっと復調できることだろう。
放課後の練習を終え、水着から制服に着替えた香里は、まだ着替えている仲間たちよりも先に更衣室を出ようとした。
普通の学校ならば、香里は一年生なので、プール周辺の清掃や片づけなどをしなくてはいけないのだが、森里高校では事情が異なる。完全な実力主義の世界で、年功序列に関係なく、雑務は全て『二軍』に任せっきりである。だから、『二軍』がいない夏休みの間中はともかく、普段は『一軍』である香里に雑用を言いつけられることはない。
今日は香里がお気に入りである人気アーティストの新曲が発売される日で、練習後は急いでCDショップに駆け込もうと決めていた。もちろん、予約してあるので品切れということはないが、ファンの心理としては一刻も早く入手したいもの。先輩や仲間たちへの挨拶もそこそこに更衣室を飛び出した。
更衣室から正門、そして通学路を、香里は軽やかに駆け抜けた。プールで泳ぐときもそうだが、このところ運動するときは自分でも驚くほど身体が切れる。体育の授業でも苦手だった懸垂が出来たり、走り幅跳びの自己記録も更新、陸上部の人間にも引けを取らないくらいの上達ぶりだ。普段、身体がだるく感じるにも関わらず、いざ動かしてみるとこれまで出来なかったことがあっさり出来たりする。まるで自分の身体ではないような気がした。
順調に駆けていた香里だったが、ふと足下が鈍った。行く手の道端で、四人の学生たちがたむろしていたのだ。ここはちょうど住宅地の外れで、人通りは少なく、空き地と無人になって久しい小さなビルがあるだけの淋しい場所である。そこに、誰もが同じポーズで地面にしゃがみ込み、けだるそうにタバコをふかしていた。隣町にある工業高校の生徒らしく、ときどきここで見かける。どうやらここを溜まり場にして、だべったり、タバコをやったりしているようだ。一見して不良というのは分かるが、他校の生徒に感心がないのか、絡むようなことは普段してこない。とはいえ、いい感じがしないのも確かで、森里高校の女子生徒は皆、ここを足早に通り過ぎる。
だが、今日に限って、香里はそのうちの一人と何気なく視線が合った。すぐに工業高校の生徒は眼を逸らしたが、なんとなくその仕草がわざとらしく、イヤな予感を禁じ得なかった。
何かされる前に行ってしまおうと、香里は走ったまま通り過ぎようとした。
そんな香里の足下に学生鞄が放り投げられたのは、そのときだった。
「キャッ!」
脚に鞄が当たった拍子に、香里は転倒した。膝を強くアスファルトの路面に打ち付け、手の平を擦り剥いてしまう。痛みに眉間を歪めた。
「あーあー、オレの鞄を蹴飛ばしてくれちゃて」
大袈裟に、学生鞄を投げた学生がのたまう。明らかに因縁をつけるつもりだった。
香里は苦痛と恐怖に、倒れ込んだまま、首を横に振ることしかできなかった。
「何だよ、ユキオ。その女に鞄、蹴られたのか?」
他の生徒たちも手頃な獲物を見つけた獣のように、香里を取り囲むように立ち上がった。「ネエちゃん、ひどいことするなぁ」
「こんなことしていいと思ってんの?」
迫力のある恫喝ではないが、ねちねちとしたいたぶり方だった。大人しそうな香里みたいなタイプには、この程度でも有効な方法である。一人が香里の顎に手をかけ、上を向かせた。
「へぇー、結構、可愛い顔してんじゃん」
「パンツの方も可愛かったぜ」
もう一人の手が伸びて、短い襞スカートの裾をめくろうとする。慌てて香里は、その手を阻んだ。思わず力が入って、相手の手を叩く景気のいい音が響いた。
「いってぇ! こいつっ!」
スカートをめくろうとしていた男が大仰に喚いた。お返しに頭を小突かれる。殴るまでの力は入れてなかったが、香里を再び地面に転がすには充分だった。男子生徒たちがげらげらと笑う。
香里は怖くて怖くてたまらなかった。「やめて」の声すら出ない。寒さに凍えるかのように唇が震えた。
「落とし前をつけてもらおうか、ネエちゃん」
「そうそう。ちょっとオレたちを楽しませてくれればいいんだ」
男子生徒たちは下品な笑いをしながら、香里の両腕をつかんで、強引に立たせた。
「ちょっと中に入ってもらおうか」
廃墟のような小さなビルに、香里を連れ込もうとする。ここに至って、ようやく香里は抵抗を始めた。
「イヤッ……」
香里はつかまれた腕を振りほどこうとする。だが、男の力だ。そう簡単には振りほどけない。思い切って腕を振った。
「うわっ!」
右腕をつかんでいた男子生徒が地面に転がった。
一瞬、他の男子生徒たちは凍り付いたようになったが、すぐにげらげらと笑い出した。
「カサイ、なに、女に吹っ飛ばされてんだよ!」
「情けねぇー!」
一番、驚いていたのは香里自身だった。まさか本当に振りほどくことが出来るとは。
だが、転がされた男子生徒にとって、それは屈辱だった。見る間に顔が紅潮する。
「この女、ふざけやがって!」
怒り狂った男子生徒は立ち上がると、香里の髪を鷲掴みにした。そして容赦なく、無人のビルへと引っ張って行く。
「痛い! やめて!」
香里は痛みに涙が出た。懇願した。なぜ自分がこんな目に遭うのかと嘆いた。
髪をつかんでいる以外の男子生徒たちは、この遊びがいたく気に入ったかのように楽しそうだった。とても同じ人間として生きているとは思えない。彼等には温かい血など通っていないかのようだった。
薄暗い廃ビルの中に連れ込まれると、香里は思い切り突き飛ばされて、埃だらけの床に倒れ込んだ。痛みと恐怖に流した涙は舞った埃に刺激され、止めどなくあふれてくる。呼吸も苦しくなり、たまらず咳き込んだ。
「さあ、オレたちと楽しもうぜ」
四人の野獣は香里を取り囲む格好で見下ろし、残忍で好色な笑みを浮かべた。
水泳部の練習を終えた殿村庸司は着替えを済ませると、帰宅するであろう香里を待ち伏せようとしたが、他の女子部員からなにやら急いで帰っていったことを聞くと舌打ちした。
今日こそ香里と話をつけようと思っていたのに。まあ、焦らずとも香里の心が揺れていることは手に取るように分かっている。チャンスは遠からず訪れるはずだ。
殿村はそのスマートな姿勢を崩さずに、ひとり微笑した。
踵を返して帰ることにした殿村を、校門の所で待っていたのは中原怜子だった。その姿を見た殿村の眉がピクリと動いた。
「また、何か用ですか、先輩」
先輩に対してぞんざいな言葉を吐きながら、殿村は歩く速度を緩めなかった。
だが、そんな殿村に対し、今日の怜子は目くじらを立てることもなく、悠然と微笑んだ。
「あら、城戸倉さんは一緒じゃないの?」
殿村は怜子の余裕のようなものに不審を憶えたが、すぐに元の顔に戻って、
「残念ながら彼女は先に帰ってしまったようです。今日こそ、彼女とじっくりと話し合おうと思っていたのに」
「そう。それは残念ね」
怜子は殿村の横に並んで歩き出した。
「先輩、ボクの横を歩かないでくださいよ。誰かに見られたら誤解される」
「何を誤解されるっていうの? 私たちはそういう間柄でしょ?」
「冗談はやめてください。ボクがあなたとつき合っているとでも?」
「そのうち、イヤでもそうなるわ」
「どういう意味です?」
殿村の足が止まった。怪訝な表情になる。嫌な予感がした。
十歩ほど先で立ち止まった怜子が、やや芝居掛かった動きでゆっくりと振り返る。
「彼女、今頃どうなっているかしら」
怜子は笑みを浮かべていた。それはぞっとするような悪意が含まれていた。
「香里に何をした?」
殿村は怜子をねめつけて問いただした。口調に怒気がこもる。
「さあ、私は別に」
一瞬の出来事だった。雷の如き速さで、殿村は怜子の顔を平手打ちしていた。力に加減はない。怜子はその場に崩れ落ちた。
「香里に何かあったら、アンタもただじゃおかないぞ!」
殿村はそれだけを言い放つと、足早に立ち去って行った。
取り残された怜子の肩は震えていた。
痛みに? いや──
悲しみに? いや──
「あっはっはっはっはっ!」
怜子は大声をあげて笑った。それは狂気に似ていた。いや、そのものだったかも知れない。
「苦しめてあげる。私を捨てようとしたあなたを、私から奪おうとした城戸倉香里を! あっはっはっはっは!」
怜子の笑い声は、いつまでもいつまでも響いた。
矢代圭祐は後悔していた。
片想いだった城戸倉香里とようやく親しくなれるチャンスが訪れたというのに、水泳部のエース殿村庸司と香里のただならぬ関係を感じ取ってから、妙に避けるような行動を取ってしまったことを。
そもそも始業式があった放課後、一緒に帰ろうとしたまでは良かったが、帰り際、殿村となにやらあった香里が逃げるように走り去ってしまったのを、圭祐が勇気を出して追えなかったのがまずかった。
そして、圭祐に預けたまま忘れていった香里の鞄を届けるという第二のチャンスもものに出来なかった。あのとき、香里の家まで鞄を持って行ったにも関わらず、インターフォンのボタンを押すことも出来ず、玄関に鞄を置いたまま帰ってしまったのが悔やまれる。鞄を返すことを口実に香里と会って、殿村との関係を尋ねることもできたはずだ。それをひとり悶々とし、考えは悪い方へとエスカレートし、香里の家から逃げ出した。そう、逃げたのだ。
それが負い目となって、翌日から香里の顔をまともに見ることすら出来なくなった。真実を知る勇気もなく、香里を諦めようとする自分では、いくら片想いでも好きになる資格はない。そう思った。
だが、一週間経っても香里を諦めることなど圭祐には出来なかった。それどころか、益々、香里のことばかり考えて頭から離れない。一度なりとも親しくなりかけたのだ。あの淡い夢はなかなか消せない。
そのうち、香里と殿村の関係を勘ぐっている自分が情けなくなってきた。
圭祐が香里のことを好きなのは、紛れもない事実なのだ。その事実は曲げられない。それに、あの放課後に取った香里の行動を考えると、殿村との関係は終わっているのではないだろうか。ならば万が一、圭祐が香里に告白しても問題はないはずだ。
まあ、告白はともかく、せっかく香里と親しくなりかけたのだから、それを拒絶する必要はないはずだ。何はともあれ、友達にもなれなければ、その先はない。
圭祐は一大決心をして、放課後にもう一度、香里と一緒に帰ろうと思った。
水泳部の練習が終わる頃を見計らって、圭祐は校門で香里がやってくるのを待った。ところが待ちくたびれて、ふと余所見をしていると、急いだ様子の香里が校門から出てくるなり、走り去ってしまったのだ。声をかける間もない。その姿はあっという間に遠ざかった。
圭祐はがっくりと肩を落として、明日があるさ、と自分を慰めながら、香里が走っていった通学路を歩き始めた。
住宅地の外れに差し掛かったとき、圭祐は道端に落ちている鞄を見つけた。近づいてよく見てみると、それは学生鞄で、おまけに見覚えがあった。
香里のだ。
間違いない。つい先日、香里の家にこれを届けたのだから。何より鞄についたマスコットがその証拠だ。
圭祐は周囲を見回した。辺りは民家や人通りなどはなく、空き地とすぐ近くに小さな廃ビルがあるだけだ。廃ビルの中かと思って入口から覗いてみたが、夕方ということもあって内部は薄暗く、見通すことは出来ない。だが、香里の鞄がここに落ちていたということは、近くに香里がいるということだ。そして、何かがあったに違いない。
どうしようかと圭祐が思案していると、突然、
「キャーッ!」
絹を裂くような女の悲鳴とは、まさにこのことか。それは明らかに廃ビルの上の方から聞こえてきた。
悲鳴を発したのが香里であると、圭祐は信じて疑わなかった。
圭祐はすぐさま廃ビルの入口に飛び込んだ。
中は薄暗かったが、見えないと言う程じゃなかった。これが昼間なら、目が薄闇に慣れるまで少し苦労したろうが、夕方だったのは幸いだ。すぐに上へ通じる階段を見つけ、注意を払いながら登った。
「大人しくしろ!」
途中、男の怒声も聞こえてきた。香里は何者かに乱暴されているのかも知れない。心臓が早鐘のようになり、口の中が乾き始めたが、香里を見捨てるわけにはいかなかった。ここは住宅地の外れで、滅多に人が通らない。助けなど呼んでいる暇はない。相手がどのくらいいるか分からなかったが、やるしかないのだ。
二階に上がった圭祐は、場所を特定しようと耳に神経を集中させた。
「おい、ちゃんと押さえてろよ!」
「こいつ、華奢なクセして意外に力が!」
「バカ、女の力くらいに負けてどうする!」
複数の男たちの声が、先程よりも明瞭に聞こえる。どうやら、このフロアらしい。
物音を立てないように気をつけながら、圭祐は崩れかけた廊下を進んだ。
「イヤーッ、イヤイヤーッ!」
泣き叫ぶ香里の悲鳴が、圭祐の気持ちを焦らせる。
廃ビルの入口から見て裏手に当たる一室のドアが取り払われ、中が見えるようになっていた。声はそこから聞こえており、圭祐はそっと入口に近づいた。
いた!
仰向けの格好で床に倒れている香里に、三人の男たちが群がるようにのしかかっている。二人が香里の両腕をそれぞれ押さえ、一人が口を塞ごうと悪戦苦闘していた。もう一人、香里の足下の方に立っていて、イライラとしながらそれを眺めている。男たちは高校生のようだ。制服から察するに、隣町の工業高校の生徒ではないだろうか。
「いいかげん、オレたちと楽しもうって気にならねえのか? 可愛がってやるぜ」
口も塞がれた香里は、足をバタつかせて抵抗を試みた。だが、それは白く生々しい太腿を露呈するばかりで、男たちの欲情を煽る結果にしかならない。
ただ一人立っている男はそれを見て、ズボンのベルトを緩め始めた。やはり香里をレイプしようと言うのだろう。
最早、猶予はなかった。
圭祐は足下に転がっていたコンクリート片を手にすると、室内に飛び込んだ。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
自分でも意味不明の叫びを上げながら男たちに殴りかかる。
その声に気がついた男たちは、素早く香里から離れた。
男たちに散開された圭祐は、一瞬、目標を定めかねた。それがケンカし慣れない圭祐のあだとなった。
男たちは躊躇している圭祐に反撃を加えた。
まず後ろから蹴りが。
続いて顔面パンチ。これで武器のコンクリート片をどこかに落とした。
そして、強烈なボディー・ブロー。
あとはなすがままに殴られ蹴られ、身体のありとあらゆる箇所を攻められた。
圭祐は苦痛に呻きながら、埃まみれの床に倒れた。もう体の自由が利かないくらい痛めつけられている。そのくせ、男たちに一矢を報いることすら出来なかった。
「ちっ、脅かしやがって! てんで弱いじゃんか!」
予想外の闖入者に男たちも冷や汗をかいたようだったが、ケンカのイロハも知らない圭祐に、すっかり平静を取り戻していた。腹いせに容赦ない蹴りが圭祐の腹部を見舞った。
「ぐっ!」
圭祐は息が詰まるような衝撃に顔を歪めた。
「矢代くん!」
香里の悲痛な声が耳をついた。だが、それもすぐに遠いものとなってゆき、やがて圭祐の視界は暗転した。
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