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追跡者<CHASER>

#06.忍び寄る影


 口を開けたまま、しばらく圭祐は二の句が継げなかった。
 香里の体内にエイリアンが……。
 普通なら信じられない話だが、最近の香里の異常さを考えると、カンナの語った内容はその裏付けになる。それを証明するかのように、カンナが続けた。
「その外的生命体は水棲生物で、外見的にはヘビのような感じよ。そいつは肛門もしくは膣口から人間の体内に入り込み、寄生することによって卵を産みつけるの。産卵するときは腹を破られるから、宿主となった人間は死んでしまうわ」
「じゃあ、早く城戸倉さんを何とかしないと!」
「大丈夫。ヤツはまず準備期間として、宿主の人間に拒否反応が起きないよう、徐々に寄生していくの。卵を産みつける前に死んでもらっては困るからね。その兆候として、まず最初に体温が上がって熱っぽくなるわ。身体が体内の異物に抵抗するためにね。でも、ヤツもその辺は心得ているわ。宿主の負担にならないよう、活動は極力、押さえる。そして、身体が拒否反応を起こさないよう、脳内麻薬を促進させることによって、一種の麻痺状態を作り出すのよ。それが異常な身体能力の上昇を促すわけ。あなたも心当たりがあるでしょ?」
「………」
 香里の超人的な運動能力の開花は、やはりそういった原因があったのだ。いきなりの競泳タイムの更新、体育授業での目覚ましい活躍、そして不良たちとの対等以上の腕力。それは今までの香里からは想像もできないような超能力であった。だが、それが宇宙から来た寄生生物による脳内麻薬に秘密があるとすれば、納得できなくもない。
 元来、人間は、その潜在能力の約十パーセントしか発揮できていないという。それは肉体への負担を軽くするために、無意識に力をセーブしているのだ。その十パーセントをさらに引き上げるのが、オリンピックなどで活躍する運動選手である。もちろん練習によるキャパシティーの拡大は必須だが、それ以上に彼等は、セーブしようとする無意識をコントロールすることによって、必要なときに最大限の力を得ることが出来る。それでも普段、発揮している十パーセントに、ほんのわずかなプラス・アルファがあるだけだ。だが、逆説的に言えば、普通の人間には自分の能力をコントロールしきれていないわけで、誰もそんなことは意識していない。しかし、それは学者たちの間で通説になっていた。
 答えない圭祐を見て、カンナは肯定と受け取ったらしく、ゆっくりとベッドの方へ歩み寄った。圭祐がドキリとするくらい間近に顔を近づける。何かの香水なのか、ほのかに甘い匂いが香った。
「そこで、あなたにお願いなの」
「お、お願い?」
「ええ。城戸倉さんの体内にいるヤツを除去しなければ、やがて彼女の命も危ないわ。だから、除去手術をしたいの。そのために、彼女に真実を伝えなければならないわ」
 カンナはじっと圭祐を見つめた。
 女の色香にふわついた気分になりかけていた圭祐は、突然、その真意をさとって狼狽した。
「ま、まさか、僕の口からそれを伝えろと?」
「ビンゴ!」
 カンナはにっこりと微笑んだ。圭祐はブンブンと首を横に振って、青ざめた。
「む、ムリムリ、無理ですよ!」
「どうして?」
 ちょっとカンナの眉が寄った。
「だって、そんな大事なこと、僕から伝えるなんて……。先生が伝えればいいじゃないですか」
「あなたの方が適任だと思ったんだけどな」
「どうしてですか?」
「だって、好きなんでしょ?」
 今度はその言葉に、圭祐は赤面した。青から赤へ。まるで信号機である。
「わっかりやすーい」
 カンナはからかうように軽口を叩いた。完全に面白がっている。しかし、見抜かれているのも事実なので、圭祐は反論できなかった。
「ぼ、ぼぼぼ、僕は、ただ……」
「城戸倉さんを大切に想う、その気持ちがあるのなら勇気を出して」
 真摯なまなざしで見つめられ、圭祐の心は揺らいだ。そうなのだ。香里を助けたい気持ちに偽りはない。全然関わり合いのない赤の他人のように、黙って目をつむるわけにはいかなかった。
「少し、考えさせてください」
 すぐには答えられそうになかった。だが、決心がつくのも、そう長くはかからないだろう。
「分かったわ。じゃあ、名刺を置いていくから、引き受ける気になったら連絡ちょうだい。ケータイの電話番号が書いてあるから」
「はい」
 圭祐は香里からピンクの名刺を受け取った。名前と連絡先が書いてあるだけだ。どうやら個人的な名刺らしい。
「エッチな電話をかけてきちゃだめよ」
「………」
 がっくりと圭祐はうなだれた。まったく、真面目と不真面目さが忙しく入れ替わっている。まともに相手をしていると疲れるだけだ。
「じゃあね! 早く治して、学校に来るのよ!」
「はいはい……」
 カンナは手をひらひら振って、退出した。それを見送った圭祐は、ひとつ大きな息を吐いてから、卒倒するようにベッドへ倒れ込んだ。



 私大病院から出てきたカンナを、巨大な体躯をした男──鹿島が、白いバンにもたれかかり、まるで忠犬のように待っていた。それにしてもこの忠犬、そのでかさのせいで目立ちすぎる。度々、病院を出入りする人間に見咎められ、二人以上の連れ添いがいれば、必ずひそひそと陰口を叩かれていた。もっとも、そのプロレスラーのような体格と、表情を隠すサングラスの取り合わせは、怪しさを増幅させているようなもので、文句も言えないのだが。不審者として警察を呼ばれなかっただけでもマシだろう。
「お待たせ」
 鹿島は吸っていたタバコを投げ捨てると、運転席側に回り込み、ドアを開けた。カンナも乗り込む。
 車内はうだるような外気をシャット・アウトしてあり、心地よいエアコンの涼風で満ちていた。
「どうだった、あのボウヤは?」
 大して気遣ってもいない口振りで、鹿島が尋ねた。
「誰かさんがすぐに助けに入らなかったものだから、包帯ぐるぐる巻きで今にも死にそうだったわ」
 カンナが毒舌をかます。しかし、鹿島はなれっこである。
「オレは戦闘向きじゃないからな」
「その見事なボディを維持するために鍛錬を欠かさないクセして、よく言うわ」
「フッ、いい肉体だろ? どうだ、オレに惚れ直したか?」
「バカ言ってなさい」
「昔はこの肉体に入れあげてたクセに」
「終わった話よ」
 カンナはあくまでも素っ気ない。鹿島もそれを気にした素振りはなかった。
「まあ、冗談はともかくだ──」
 と、鹿島は一つ、前置きして、
「オレたちは、一般人と関わりを持ってはいけないはずだ。被害者の女の子ならともかく、ただのクラスメートの野郎にまで接触するなんて、それこそ服務規程違反だぞ」
「………」
「オレたちの任務は常に極秘で遂行されている。一般人に関われば、秘密の漏洩にもつながるんだぞ」
「彼なら大丈夫よ」
 カンナは視線を前に向けたまま言った。鹿島はなおも食い下がった。
「何をあの野郎に入れ込んでやがるんだ? どうかしてるぜ、カンナ」
「別に入れ込んでいるワケじゃないわ。彼女の説得に彼が必要だと思ったから、協力をあおいだだけじゃない」
「本当にそれだけか?」
「………」
 しばらく、二人は車中で押し黙ったまま、身じろぎ一つしなかった。ただエアコンの涼しい風が吹き出す音だけが、時間の制止から逃れているかのようだ。
「お前には弟がいたな」
 鹿島がぽつりと漏らした。カンナは微動だにしない。
「名前は拓己だったか? 三年前、突然、蒸発。生きていれば、あの高校生と同じ歳か……」
「………」
「まさか、あの野郎に自分の弟を重ねているんじゃないだろうな?」
 鹿島の言葉に、カンナは鋭い視線を投げた。それは、射抜かれた者に戦慄を与える、殺意のこもった視線だった。付き合いの長い鹿島でさえ、ぞくっと怖気立った。
「鹿島、今日はずいぶんとおしゃべりだねぇ」
「………」
 サングラスから表情は窺えないが、きっと鹿島には後悔の念が強かったことだろう。血の気が引くとはこのことだ。
「私は仕事に私情をはさまない。でしょ?」
「あ、ああ……」
 鹿島の声はかすれ気味だった。夏の暑さに喉が渇いたばかりではない。隣に座る同僚から発せられる鬼気のようなものに気圧されたのだ。
「出して」
 カンナの命令に、鹿島の手は自然に動いた。車をスタートさせる。
 二人を乗せた白いバンは私大病院を離れ、全ての事の始まりの地である、森里高校へと向かった。



 カンナが見舞いに訪れた夜、圭祐は消灯された病室のベッドの上で、香里に何と言おうかと思い悩んでいた。
 体内にエイリアンがいるなどと、香里は信じてくれるだろうか。いや、そもそも体内に侵入されたのなら、香里は気づいている可能性がある。ならば話は早いか。だが、そんなことは一言も話していなかった。もちろん、そんなに親しくない圭祐に対して、悩みを打ち明けることなどないのかもしれないが、少なくともレイプ未遂事件が起きるまで、体調を崩した様子こそ見せるも、学校に登校してきている。とすれば、きっと親にも内緒にしているのだろう。親に相談していれば、学校どころではないはずだ。香里が自分の身に起きていることを認識しているかどうか、まずこのことから考えても説得の方法が変わってくる。
 だが、これは香里の命に関わることなのだ。絶対に香里を救わねばならない。いや、救ってみせるのだ。
 ところが──
 今夜はこのことを考えると、とても眠れそうにないなと踏んでいた圭祐であったが、あろうことか先程から睡魔が襲ってきていた。このところの入院生活では出歩くこともままならないので、昼間から居眠りをしている状態だ。睡眠は充分にとっている。それなのにこの眠気は何なのか。頭が重く、のたりのたりと左右に揺れる。意識が闇に引きずり込まれる。瞼は閉じられ、両腕はおろか指先一つ動かすこともままならない。
 これは、おかしい。
 さすがに圭祐はいぶかった。こんな事は、これまで一度もなかった。まるで睡眠薬でも飲んだかのようだ。
「!」
 先程、消灯前に看護婦にジュースを買ってきてもらった。紙パックに入ったオレンジ・ジュースだ。しかし、頼んだ看護婦と持ってきてくれた看護婦は別人だった。そのときは気にも止めなかったが、今考えると怪しく思えてくる。
 だが、なぜそんなことを。自分を眠らせて、何をしようというのだ。
 睡魔は易々と圭祐の意識を攻略せしめた。
 ダメだ、眠たい……。
 意識がなくなる寸前、病室のドアが開き、誰かが入って来るような気がした。
 誰なんだ……。
 しかし、もう確認のしようがない。
 圭祐は深い眠りの底に引きずり込まれた。



 香里は、四日ぶりに学校へ登校した。
 事件を知った両親は、当分の間、学校を休んではどうかと言ってくれたが、なにもせずに部屋に閉じこもるの方が憂鬱だった。ケガは擦り傷程度だし、精神的ショックも意外に軽い。なにしろ、このところ色々なことがありすぎたので、精神的に鍛えられたのかも知れない。失恋に始まって、謎の生物に襲われたことや、陰湿ないじめ、そして今回のレイプ未遂事件だ。人間は何があっても、生きていられれば乗り越えられるものなのだと、香里は感心していた。
 しかし、何より香里の足を学校に向けたのは、泳ぎたい一心であった。とにかく、泳ぎたくて泳ぎたくて身体がうずいた。プールが恋しい。身体の火照りを鎮める水に、思い切り飛び込みたい。
 不安げな両親を、明日は土曜日で早く終わるから、と説得し、母親同伴での登校という条件を呑んで、ようやく許された。まるで小学一年生が初めて学校に登校するような気分を味わいながら、香里は久しぶりの通学路を歩いた。
「おはよう!」
 親しいクラスメートの顔を見つけて、香里は声をかけた。相手は、チラッと香里を見ると小さな声で挨拶を返してくれたが、そそくさと早足でその場を逃げるように先を急いで行ってしまった。
 きっと香里がどんな目にあったのか知っているのだろう。そして、なにかしら歪んで伝わった話を信じているに違いない。
 香里の母もその様子を見て、眉をひそめた。
「やっぱり休みましょうか、香里」
 それは娘を気遣って出た言葉だった。だが、香里はかぶりを振った。
「ううん。私、行くわ。大丈夫、話せばみんなだって分かってくれるから」
「話すって、あなた……」
「何にもなかったんだもん、何にも。ね? そうでしょ、ママ?」
「……ええ」
「こちらから歩み寄って行かなくちゃ、相手との距離は縮まらないわ。勇気を出して、一歩を踏み出さなくちゃ」
 娘の言葉に、母は目を丸くした。香里がくすっと笑う。
「──なんてね、最近読んだ小説にそう書いてあったの」
 母の顔もほころんだ。二人で笑った。高校に入学してから、こんな風に笑い合ったことがなかったかもしれない。親子の会話なんて、あってなかったようなものだ。
 校門まで送ってもらった香里は、まだ心配そうな母を帰し、そのまま水泳部の練習場である室内プールへと向かった。思わず足が早まる。それほど泳ぎたかった。
 だが、そのウキウキする気持ちは、突然、しぼんでしまった。室内プールの入口で、遭遇したくない人物と鉢合わせしてしまったのである。殿村庸司だ。
「香里……」
 いつもの優しげな表情を見せて、殿村は香里に声をかけてきた。反射的に背を向けてしまう香里。
「良かった、無事だったんだね?」
 あこがれだった先輩は、夢中だったときといささかも変わらず、香里に優しかった。いや、いつもそうだった。ただ一度、夏休み最後の日を除けば。
「心配していたんだ。香里が他校の生徒に襲われたって聞いていたから。家にも行ったんだけどね、キミのお母さんに入れてもらえなかった」
 それは初耳だった。担任教師と親しいクラスメートが来たことは伝え聞いていたが、殿村が来たことは聞いていない。もちろん、会うつもりはなかったが、来たことぐらいは教えて欲しかった。やはり親は、男女交際に融通が利かない。
「私はこの通り、大丈夫ですから……」
 香里はそれだけを言うと、その場から逃げ出そうとした。だが、一瞬早く、殿村に手首をつかまれた。
「は、離してください!」
「待て、香里! 話があるんだ!」
「聞きたくありません!」
「待つんだ、香里! これは大事なことなんだ!」
「イヤ! もう元には戻れません!」
「違う! 今日はそのことじゃない! キミを襲った奴等のことだ!」
「!」
 香里は抵抗をやめ、殿村の方へ振り返った。殿村は息を弾ませ、額にはうっすらと汗が光っている。男である殿村が目一杯の力を振り絞らねばならぬほど、逃げようとしていた香里の力が強かったのだ。
「何を知っているのですか? あの人たちは警察に逮捕されて……」
「ああ、それも知っている。しかし、もっと重要なのは、キミに奴等を仕向けた、いわば黒幕がいるってことさ」
「黒幕?」
 あれは最初から自分を狙ったものだった。それが事実なら、由々しき事態だ。ひょっとすると、一連のいやがらせ事件と関係があるのかもしれない。
「誰なんですか?」
 香里は殿村に問うた。だが、殿村は周囲を見回すと、
「ここでは話せない。この学校の人間なのでね」
 と、声をひそめるようにして言った。
 この学校の人間。予想していたこととはいえ、こうして第三者の口から聞くと、あらためて恐ろしくなる。水着を切り裂いたり、悪辣な手紙を下駄箱に入れる程度ならともかく、今回はレイプだ。傷害である。ここまでくると警察の手に委ねる必要があるだろう。
「香里、放課後に、北階段の屋上出口に来てくれ。そこで話す」
 香里はうなずいた。



 放課後、香里は殿村との約束通り、校舎北階段の屋上出口へと向かった。もちろん、レイプ犯の黒幕を殿村の口から聞き出すためである。
 土曜日ということもあって、弁当を用意していないほとんどの生徒は早々に下校しており、なんとなく閑散とした感じがあった。まるで夏休みの校舎に逆戻りしたようだ。ただ、階段を登る足音だけが周囲のコンクリートに響く。
 約束の場所へやって来ると、まだ殿村の姿はなかった。デートをしていたときは、必ず殿村の方が先に来ていたものだ。香里も決して遅刻するわけではないのだが、どうも約束の時間より早くやって来て待つのがクセらしい。その殿村からすれば、これは珍しいことだった。
 屋上へと通じている扉は閉められていた。ここを開ければ、きっと身体にまとわりつく不快な外気が流れ込んでくるはずだ。それよりはひんやりとしたコンクリートの壁に囲まれたここにいる方がマシである。
 このところはそうでもないが、やはりあの一夜の出来事以来、香里の体温は平熱より高めで、ときどきけだるさを訴えたくなる。プールで泳いだり、家で冷たいシャワーを浴びたりしてしのいでいるが、この夏の異常な暑さも手伝って、体力の消耗は著しい。少しでも涼を求めるのは致し方なかった。
 階段の手すりに頬杖をつきながら待っていると、その背後にあった屋上への扉が軋みを上げて開いた。殿村かと思い、香里は振り返った。だが──
「!」
 現れたのは殿村ではなく、水泳部の元先輩である中原怜子だった。
 怜子は、香里を見据えたまま、中へと入ってきた。その目は異常な妄執にとらわれたような、狂気を含んだ妖しい光をたたえている。その威圧感に、香里は思わず後ずさった。
 中原怜子と言えば、始業式の日、更衣室に閉じこめた人物の声が似ていた。殿村との噂もあり、動機という点でも怪しい容疑者の一人だ。証拠はないが、一連のいやがらせは、この怜子がやっているのだと香里は確信していた。それだけに、この遭遇は危険だった。
「あら、城戸倉さん、こんな所で何をしているの?」
 怜子は笑顔を見せながら話しかけてきた。だが、その目は笑っていない。
「いえ、その……」
 香里は返事に窮した。殿村を待っていると知れば、怜子はどんな反応を見せるだろう。だが、それを確かめる勇気もなかった。
 怜子が一歩、近づく。
「誰かと待ち合わせ?」
 また一歩。
「例えば──」
 さらに一歩。
「庸司とか?」
「!」
「香里ーっ!」
 階下から香里を呼ぶ声がした。殿村だ。
「せ、先輩」
 香里は手すり越しに、殿村の姿を確認した。怜子に背を向けて。
「危ない!」
 殿村が叫ぶのと、香里の肩に怜子の手が掛かるのは同時だった。
「!」
「気にくわない女! 私の前から消えなさいよ!」
 怜子がヒステリックに叫んだ。まるで鬼女の形相だ。
「イヤッ!」
 香里はつかんだ手を振り払おうとした。だが、その力は怨念が込められたものか、がっちりとつかんだまま離れず、香里を手すりから突き落とそうとする。慌てて手すりにしがみついた。
「香里ッ!」
 殿村は香里のピンチを救おうと、階段を駆け登り始めた。
「アンタなんか庸司にふさわしくない! ふさわしくないのよ!」
「先輩、やめてください!」
 香里の懇願も聞き遂げられなかった。すでに怜子は狂気に取り憑かれているようだ。その形相の凄まじさ。人間のものとは思えなかった。
「アンタなんか、死んでしまえ!」
「イヤーッ!」
 香里はとっさに手を離し、怜子の身体を突いた。肩から手が外れる。そのまま怜子はバランスを失った。
「!」
 まるでスローモーションを眺めるかのように、それはハッキリと見て取れた。
 怜子の身体が階段の方へと倒れてゆく。足場は狭く段差のある階段だ。バランスを保つことは困難だった。手がむなしく宙をつかむ。
 怜子の顔から鬼気が失せた。替わりに浮かんだのは恐怖。大きく目が見開かれた。その黒い瞳に、香里が映っている。突き飛ばした張本人の顔が。
 耐えられず、香里は目をつむった。最後にちらっと見たものは、近くまで駆け登ってきた殿村の姿だった。
「キャアアアアアッ!」
 目をつむった闇に、耳を覆いたくなる悲鳴が聞こえた。次に、肉を殴打する音。それも一つや二つではない。複数の音が絡み合い、一呼吸の間、それは続いた。
 音が途切れると同時に、香里の身体は抱きすくめられた。大きく、温かい。しばらく、そのぬくもりを忘れていた。殿村だった。
「だ、大丈夫か?」
 さすがの殿村も声が震えていた。思わず香里もしがみついた。
「な、中原先輩は……?」
「見るな! 見ちゃダメだ!」
 そう言われても、階段を落ちていった怜子を見殺しに出来なかった。早く保健室に連れて行くか、誰か人を呼ばないと。
 香里は恐る恐る目を開け、階段下の踊り場を見やった。
「……!」
 そこに怜子は倒れていた。だが、それはまるで壊れた人形のようだった。手と足、そして首が力無く、不自然な方向にねじ曲がっている。髪が乱れ、顔を覆っている様は死んでいるように見えた。
 自分が突き飛ばした。
 その事実に思い当たると、香里の身体は恐怖に震え、嗚咽を漏らした。
「香里は悪くない。悪くないんだ」
 頭を撫でながらの殿村の慰めも、香里には通じなかった。堰を切ったように泣きじゃくり、その場に崩れ落ちてしまった……。


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