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追跡者<CHASER>
#07.掛け違えたボタン
バカは死ななきゃ直らないという言葉があるが、それは体育教師の櫻井にこそふさわしかった。
歓迎会での失態以来、カンナに断れ続けてもなお、櫻井は誘いをかけてきていた。その根性は大したものだが、これだけ拒絶されたらば普通は嫌われていると悟るはずだ。にも関わらず、しつこくカンナにつきまとうというのは愚鈍と言う他ない。
土曜日で、午前中に授業が終わった今日も、櫻井はモーションをかけてきた。
昼食を終え、生物教材の整頓をしようと準備室へ向かったカンナをわざわざ追いかけてきたのである。カンナは頭痛を覚えた。
「どうです、一条先生。今日は映画でも観に行きませんか? チケットならあるんですよ」
櫻井は映画のチケットをひらひらさせながら、カンナに言い寄ってきた。必要以上に接近してくる。まるで交尾をしようとメスに近づく、盛りのついたオスだ。
この際、はっきりさせておくべきだろうと、カンナは毅然とした態度で振り返った。
「櫻井先生」
「はい、何でしょう?」
「言っておきますが、私は櫻井先生とお付き合いする気はありません」
櫻井はきょとんとした顔になった。
「なぜです?」
「なぜって……」
「他に付き合っている男性がいるとか?」
「それは……櫻井先生には関係ないでしょ?」
「だって、他に付き合っている男性がいないのなら、僕の誘いを断るのはヘンです」
今度はカンナの方が絶句する番だった。例え彼氏がいなくたって、付き合う相手を選ぶのは当然だ。それをヘンだという櫻井の考え方のほうがおかしい。
カンナはきっぱりと櫻井に断ろうと口を開きかけた。その刹那──
「キャアアアアアッ!」
女性の悲鳴が校舎に響いた。カンナの耳は、それがあまり遠くないと感じ取った。櫻井も聞こえたようだ。
「聞こえましたか?」
「ええ」
うなずくより早く、カンナは行動を起こしていた。準備室を出て、悲鳴が聞こえてきた方角を探る。二度目の悲鳴は聞こえてこなかった。こうなったらカンナの判断力が問われる。
「一条先生……」
「こっちだわ」
「え? ──ちょっと?」
北階段の方へと廊下を駆けだしたカンナに、櫻井は慌てた。仕方ないので、その後ろ姿を追うことにする。櫻井にすれば、悲鳴は聞こえたものの、どこからかまでは分からなかった。だが、一緒に聞いたカンナには場所が特定できるのか、迷わずに駆けだしている。悲鳴が発せられたのは、そんなに近い場所ではないはずだ。この判断が正しいとすれば、それは驚嘆すべきものである。
生徒たちが下校した後の廊下に、二人の靴音だけが響いた。カンナも櫻井も全速力に近い。意外なのは、櫻井がカンナに追いつけないことである。櫻井は体育教師、同世代の男性に負けないくらいの脚力を持っているつもりだ。それでもカンナとの差は詰まらない。いや、むしろ開こうとしていた。
北階段の所まで来ると、カンナは足ブレーキをかけて横滑りした。ここは二階で、階段は上と下に伸びている。さすがに上下、どちらなのかは判断がつかなかった。
「誰! 誰かいるの!?」
カンナは声を張り上げた。あの悲鳴が助けを求めるものなら、なにかしらのリアクションが返ってくるはず。だが、校舎はしんと静まり返っている。
「い、一条先生……どうですか?」
数秒遅れて櫻井が追いついた。正常な息づかいのカンナに比べ、櫻井の息は上がっている。それでも威厳を保とうと見栄を張っていた。
櫻井が息を整えるまで悲鳴の主の反応を待ったが、何も返っては来なかった。櫻井は方向を間違えたのではないかと疑い始めた。
「一条先生、もしかするとこっちじゃないのかも……」
「シッ! 黙って!」
カンナに制され、櫻井は黙った。カンナが耳を澄ます。櫻井もそれにならった。
「………」
何も聞こえてこない。
櫻井が諦めかけた刹那、
「上」
カンナが上り階段を見据えた。何か聞こえたとでも言うのだろうか。
いきなり、カンナは階段を駆け登り始めた。超ミニのスカートなので、下着が丸見えになりそうだ。だが、そんなことを考えたのは一瞬で、櫻井もその後ろを再び追いかけ始めた。
二階から三階へと駆け登った。だが、誰にもいない。カンナはさらに屋上へと足を伸ばした。
三階と屋上への中間地点に当たる踊り場に、誰かが倒れていた。制服から女子生徒だと分かる。
「!」
カンナは、最初それを香里かと思った。だが、香里にしては大柄な体つきで、肌の色も少し浅黒い。すぐに別人だと分かった。
それでも、ほっと胸を撫で下ろすことなど出来なかった。なぜなら、深刻な状況であることに変わりなかったからである。倒れていた女子生徒は、力無く四肢を投げ出し、首も折れてしまったかのように傾いでいた。血を流しているような形跡はないが、階段から転げ落ちたらしく、昏倒していた。
ふと、カンナは踊り場から屋上へと通じる階段を見上げた。視線の先には、二人の男女が抱き合うようにして立ちつくしていた。
「城戸倉さん……」
女性の方は背中しか見せていなかったが、カンナには城戸倉香里だとすぐに分かった。男の方は、この学校の男子生徒だと言うことは分かるが、まだ赴任して間もないカンナには名前が出てこない。
「こ、これは……中原、大丈夫か?」
カンナより遅れて踊り場までやって来た櫻井が青ざめた顔つきで、倒れている女子生徒に声をかけた。だが、もちろん反応がない。櫻井は膝をついて、中原と呼んだ女子生徒の身体を揺さぶろうとした。
「櫻井先生!」
カンナは鋭く櫻井の名を呼んだ。不用意に女子生徒の身体を動かすわけにはいかないと判断したためだ。櫻井はでかい図体をびくっと振るわせ、カンナを見た。
「先生は職員室に行って救急車を呼んできてください。お願いします」
カンナは有無を言わせぬ迫力で言い、櫻井を説得した。完全にうろたえた状態の櫻井だったが、カンナの言葉にうなずき、立ち上がって階段を下り始めた。少しぎこちない動きで、こういう状況でなければ滑稽な姿に映ったが、とりあえずこの場から櫻井を追い払うことができた。それに救助を呼ぶのも大事なことだ。
カンナは再び、階上の二人を見やった。香里と男子生徒は抱き合ったまま、その場からピクリとも動かなかった。香里は男子生徒の胸に顔を埋めるようにして震えているが、男子生徒は踊り場を冷徹に見下ろしている。まるで当然の出来事が起きたかのように。カンナはその男子生徒に戦慄を覚えた。
いつもは生徒たちの喧騒がこだまする森里高校だが、この日はほとんどの生徒が帰ったにも関わらず、職員は忙しく動き回っていた。
三年の女子生徒、中原怜子が誤って階段から転落し、意識不明の重体に陥ったからだ。
第一発見者として、二年の男子生徒、殿村庸司と、一年の女子生徒、城戸倉香里が、教頭や担任教師から事情を尋ねられた。
殿村曰く、事故だという。
屋上から校舎内に入ってきた怜子が北階段を降りようとしたところ、誤って足を滑らせて転落。その一部始終を殿村と香里が目撃したのだということだった。
同じ質問を香里にしてみたところ、彼女はショックで口も利けないような状態だった。つい先日には暴行未遂事件の被害者になった経緯もあり、教頭たちも無理に口を割らそうとはしなかった。
結局、事故として判断を下した学校側は、救急車で怜子を近くの病院に運び、家族に連絡するだけにとどめ、目撃者二人にはお咎めなしということになった。実際、学校側も事を大袈裟にはしたくなかったのだろう。同じく発見者であるカンナと櫻井にも箝口令が敷かれた。
もちろん、カンナは釈然としなかった。本当にただの事故なのか。証拠があるわけではない。が、踊り場に倒れている怜子を見つめる殿村の目。それが忘れられなかった。
昇降口で事情聴取が終わった二人をカンナは待ち伏せた。程なくして、殿村が香里を支えるようにして現れる。
殿村の目とカンナの目が合った。すると殿村が冷笑を浮かべた。いや、それは一瞬で、角度の加減でそう見えただけかも知れないし、そうでないかも知れない。
すぐに殿村はカンナを無視するようにすると、香里の下駄箱から下足を取り出し、履き替えさせてやった。その香里への接し方を見ていると紳士だが、高校生という年齢を考えると空々しさを感じる。その優しさには演技のようなものが見え隠れしているようで、カンナは嫌悪を禁じ得なかった。
「殿村くん、だったかしら?」
「ああ、一条先生、まだ何か?」
殿村は初めてカンナに気づいたかのような態度で答えた。香里は反応がない。まるで抜け殻のようだった。やはり、度重なるショックで茫然自失としているのだろう。それは致し方なかった。
「ちょっと話を聞いてもいいかしら?」
カンナは務めて平静に、教師としての仮面を保ちながら、殿村に尋ねた。
殿村の端正な顔つきが少し歪む。これも演じているのだ。
「いい加減にしてくださいよ。見たことや知っていることは教頭先生たちに全部、話しました。やっと開放されたんです。勘弁してもらえませんか」
あらかじめ用意されていた答えだろう。隙を与えないつもりだ。
「ほんの少しよ。ちょっとだけ」
カンナも引き下がるわけにはいかなかった。
すると殿村は少し怒った様子で、
「僕はともかく、城戸倉くんのことも考えてください。先生だって、先日の事件を知っているでしょう?」
殿村のその言葉に、ピクッと香里の身体が反応した。そして、悪寒に襲われたかのように、全身が小刻みに震え出す。ショックが呼び覚まされているのだろう。レイプ未遂はもちろん、転落した先輩の怜子や、そして恐らくはプールで得体の知れない生物に襲われたことも。この十日ほどで、香里の体験は過酷なものばかりだ。それをカンナも知っているだけに辛かった。
「もう、ほっといてください! ──さあ、香里、帰ろう」
殿村は香里の方を抱き寄せるようにして、校門の方へと歩き出した。
その二人の後ろ姿を見ながら、カンナは圭祐のことを思いだしていた。彼はこの二人の仲を知っているのだろうか。そして、これを見たとき、どう思うだろう。
「殿村くん」
パチンと指を鳴らし、もう一度、カンナは呼びかけた。足が止まり、殿村が振り返る。
「城戸倉さんは、あなたにとって何なの?」
「今、一番大切な人です」
真実か否か、カンナには分からなかった。
二人は立ち去っていった。
カンナはポケットから携帯電話を取り出すと、短縮ダイアルをプッシュした。
「鹿島。二人が出たわ。尾行、よろしく」
香里は殿村に肩を抱かれるようにして、呆然と歩いていた。
怜子を突き飛ばしたのは香里だ。正当防衛とはいえ、その事実は曲げようがない。
それを殿村は、二人の秘密にしようと言った。
怜子は自ら足を滑らせて落ちた。そう口裏を合わせよう、と。
怜子は意識不明だ。かなりの重傷のはずである。一命を取り留めるかどうか、それは分からなが、そのまま死んでしまうか、植物状態で目覚めないこともあり得るだろう。そうなれば、死人に口なし、真実を知るのは香里と殿村の二人のみだ。今、真実を語るのは愚かだと殿村に説得された。
「大丈夫、僕はキミの味方さ」
何度も何度も、殿村の口からまじないのようにこぼれる言葉。その言葉にすがりたくなる。
怖い。真実が。
怖い。現実が。
怖い。今、現在が。
恐ろしい闇に飲め込まれるのを踏みとどまらせてくれているのが殿村だ。
初めて私が愛した人。
初めて私を愛してくれた人。
殿村庸司。
もう、彼なしに生きてはいけない。
もう、彼しか信じられない。
彼に包まれていたい。ずっと、ずっと……。永遠に……。
そうすれば安心なのだ。眠っていられるのだ。生きられるのだ。
香里は益々、殿村に依存していった。
気がつくと香里は、見覚えのある部屋の中に殿村と二人だけでいた。
真っ白な頭を働かせるように努力しながら、この場所を思い出そうとした。
ああ、ここは……。
殿村の部屋だった。
夏休みの後半、毎日のように訪れた場所。殿村の家は共働きなので、日常、両親はおらず、ほとんど入り浸り状態だった。香里がバージンを捧げたのもここだ。今、座っているベッドで、何度も求められるままにセックスをした。そして、ここで別れも告げられた……。
「香里」
殿村は香里のすぐ隣に座って腰を抱き、耳朶に唇を寄せながら言った。それは二人だけでいるときに、よく殿村がした行為だった。
「オレたち、ここからやり直すんだ。やっぱりオレには香里しかいないんだ。そして、香里もオレしかいないんだろ?」
「私は……」
殿村は香里の髪を撫でてきた。優しい愛撫に、香里はしなだれかかる。先程とは違った理由で、頭の中が真っ白になりそうだ。
「香里、信じてくれ。もう離さないよ。絶対にキミを離さない」
「せ、先輩……」
自然に涙があふれてきた。
「好きだ、香里」
殿村は香里の顔を自分の方へ向けると、ゆっくりと唇を近づけた。香里も目をつむって、それを受け入れようとする。あらためて思い知らされていた。まだ、自分は殿村が好きだったことを。
二人は唇を重ねた。それはやがて恋人同士が見せる激しいものへと変わっていき、互いの肉体を求めるまでに昇りつめていった。
カンナのバックアップ役を務める鹿島は、その指示通りに、学校からずっと香里と殿村を尾行していた。歩いて尾行するには、その逞しい筋肉が人目を引きすぎて邪魔になるので、愛用の白いバンをのろのろと転がしてきた。
電車を乗り継ぎ、二人が行き着いた先は、住宅地の中にある平凡な一軒家だった。二人が中に入ったのを確かめると、鹿島は車を止め、双眼鏡を取り出して、表札を読んだ。『殿村』とある。
高校生の男女が白昼、交際相手の家を訪れる。勉強をするとか、音楽を鑑賞するとか、そんな陳腐な答えよりは、すぐに一つの考えが浮かぶ。若い男女が密室に二人きりとなれば、やることは決まっている。これを邪推と呼ぶ人間は、すでに日本には存在しないかも知れない。
「まったく、近頃の若いヤツは」
お決まりのぼやきを呟いて、鹿島はミネラル・ウォーターが入ったペットボトルを取り上げた。キャップを外し、のどを鳴らして飲み始める。とりあえず張り込みを決め込んだ。
携帯電話が鳴ったのは、三本目のミネラル・ウォーターを飲み干して、腹がガバガバになった直後だった。ここへ到着してから、約二時間後くらいだ。
「うぃっす!」
「今どこ?」
着信と同時に、ストレートな用件のみの言葉が聞こえてきた。カンナだ。
「んー、T町だ。男の家がある」
「二人で中に?」
「そうだ。きっと、今頃は中でお楽しみ中だろうぜ」
「そう……」
少し沈んだようなカンナの声が気になったが、先日の一件のこともあるので、差し出がましいことは控えた。
「これからどうする?」
「そのまま張りついて。彼女が家に帰り着くまではマークを怠らないように」
「了解。で、お前は?」
「緊急の職員会議。今日の事件のことでしょうね」
「ふーん。なんか、本当の教師にでもなったみたいだな」
「しょうがないわ。潜入捜査を知っているのは校長だけだもの。その校長も今日は出張でいないから、抜け出すわけにはいかないわ」
「へいへい。大変なこったな。──ん?」
鹿島はバンの横を歩いてきた人物に目をやった。見知った人物だ。頭には包帯を巻き、顔や腕も絆創膏だらけのその男は、香里のクラスメート、矢代圭祐だった。まだ少し危なげな足取りで、ふらふらと殿村の家の方へ行く。
「どうしたの?」
「いや、なんでもねえ」
「じゃあ、あと、よろしくね」
「あ、ああ、了解」
上の空で返事をし、鹿島は電話を切った。
圭祐は鹿島には気づかず、殿村の家の前まで行った。訪ねてきたのかと思いきや、インターホンも押さず、なにやら玄関先で逡巡している。
「何してんだ、あいつ」
すると突然、圭祐は身を翻すと、鹿島がいる方角とは反対の方へ駆けだした。そして、路上駐車中の自家用車の陰に身を隠す。
と、同時に殿村の家の玄関から香里が出てきた。すぐに殿村の姿も現れる。
二人はしばらく玄関先でなにやら話していたが、香里が深々と会釈すると、鹿島がいる方へ歩き出した。こちらは駅がある方角になるので、多分、帰るのだろう。殿村は手などを振りながら香里を見送っていたが、その姿が見えなくなると家の中に引っ込んだ。
二人がいなくなってからようやく、車の陰から圭祐が出てきた。帰っていった香里の方角をまず見、そして次に殿村の家を眺める。その口は真一文字に結ばれていた。
「やれやれ、修羅場だねえ」
鹿島は軽口を叩くと、自分の仕事をこなすため、香里の尾行を続行し始めた。
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