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追跡者<CHASER>

#08.生まれ出ずる悪意


 ようやく退院した圭祐は、一週間ぶりに家である公団住宅に帰った。病院から付き添ってきた母は、まだ息子の世話を出来ることを喜んでいるらしく、なにやら張り切っているように見える。圭祐は半ば呆れ、半ば微笑ましく、そんな母を見ていた。
「ただいま」
 久しぶりの狭い我が家は、何ら変わっていなかった。
 靴を脱ぎ捨てると、母はさっそく愚痴を言った。そして、圭祐の荷物を持って、ずんずん奥へ進んでいく。
 まだ歩行が困難な圭祐は、壁に手をつき、フローリングの廊下をすり足状態で歩いていった。
 ちょうど、リビングの入口に差し掛かったところで、電話が鳴った。電話はリビングの中だ。母は荷物を圭祐の部屋まで運びに行ってしまっている。仕方なく、圭祐が電話を取った。
「はい、矢代です」
「………」
 最初、電話は無言だった。いたずら電話かと思ったが、もう一度、声をかけてみる。
「もしもし?」
「矢代圭祐くん……ですかな?」
 聞き覚えのない声だった。年輩のようだ。
「どなたですか?」
「名乗るほどの者ではありません。しかし、キミの味方だということは確かですよ」
「いきなりの電話で名前も名乗らず、信じろと言うのは虫が良すぎるでしょう」
「では、こうしましょう。キミのクラスメート、城戸倉香里さんが今、どこにいるか、知っていますかな?」
「………」
「彼女は殿村という上級生の家にいる」
「ウソだ!」
 圭祐は思わず声を荒げた。信じたくなかった。
 だが、電話の主は極めて冷静な声を続けた。
「それはキミ自身の目で確かめてみればいい。私の言うことが正しければ、キミの味方だという言葉も信じてもらいたいものだね」
 声はその後、殿村の家の住所を伝え、電話を切った。
 圭祐は住所を控えたメモをちぎり取ると、玄関へと向かった。
「何処へ行くの?」
 圭祐の荷物を部屋に運び終えた母がビックリしたように、出掛けようとする息子に声をかけた。退院したとはいえ、まだ外出をしていい身体ではないのだ。
「ちょっと、そこまでだよ。すぐに帰る」
「そんな身体で行くつもり?」
「いいだろ! ほっといてくれよ!」
 生まれて初めて、母にキツイ言葉を吐いた。振り返らずとも、母が悲しげな表情をしたのは分かっていたが、今の圭祐にとって、母にかまけている時間はない。電話の主が伝えたことが本当なのか否か、それをどうにも確かめずにいられない焦燥に駆られていた。
 玄関を飛び出し、駅へと向かった。
 まだ動きに難のある身体に苛立ちながら、それでも圭祐は先を急いだ。電話の主の話を信じているのか、それとも否定しているのか、圭祐本人にも分からなかった。ただ、香里のことを考えると、いてもたってもいられない。いつの間にか、そこまでのめり込んでいる自分に怖い気がしたが、それを押さえることはできなかった。
 駅から電車を利用し、滅多に訪れたことない土地でいささか迷いながらも、なんとかメモにある住所まで辿り着いた。
 夕暮れ時、辺りはきれいな茜色に染まり、長い影が尾を引くように路上に伸びていた。
 圭祐は「殿村」の表札を探し歩いた。ほどなくして見つかる。まだ建ててから比較的新しそうな二階建ての家だった。
 いざ玄関先に立つと、圭祐はインターフォンを押すべきかどうか迷った。訪ねて行ってどうする。香里がいたとしても、それを自分がどうこう言うべき問題だろうか。いくら香里のことが好きだと言っても、今の圭祐はただのクラスメートに過ぎないのだ。
 それでも諦めきれない圭祐は、しばらくその場をうろうろした。意を決してインターフォンを押そうとした圭祐だったが、指を伸ばしかけた刹那、玄関のドアがガチャリと音を立てた。誰かが出てくる。圭祐は慌てて、玄関から離れた。そして、近くに路駐してあった車の陰に隠れ、様子を窺ってみた。
 中から出てきた人物を見て、圭祐はショックを受けた。いくら想像していたとはいえ、こうして現実に殿村の家から香里が出てくるのを目の当たりにすると、言葉を失ってしまう。続いて殿村も姿を見せた。
 二人は玄関先でなにやら会話を交わしていたが、やがて香里は会釈をして、駅の方へと歩き出した。おそらく自分の家に帰るのだろう。殿村はそれを見送ると、中に引っ込んだ。
 香里の姿が小さくなるまで見届けた圭祐は、やっと車の影から出てくることが出来た。
 電話の主の話は本当だったのだ。何が目的で圭祐に香里の居場所を伝えてきたのかは分からないが、圭祐のことはもちろん、香里や殿村のことまで詳しい人間のようだ。何か監視でもしているのだろうか。そこで一瞬、カンナの顔が浮かんだ。
 だが、今の圭祐はそんなことよりも、殿村の家から出てきた香里のことの方がショックだった。香里と殿村がつき合っていたらしいというのは、なんとなくニュアンスで分かっていた。だが、二人は別れたのではなかったのか。そう思ったからこそ、圭祐は気を取り直してアタックしてみようと思ったのだ。だからこそ、身を挺して香里を守ろうともした。それが……。
 圭祐の落胆は大きかった。
 だから、どのようにして自分の家まで帰ったのか、記憶がなかった。
 気がつくと、公団に帰り着いたところだった。玄関を開けると、真っ先に母が飛んでくる。心配していたのだろう。
「圭祐、こんな時間までどこに行ってたの?」
 それは詰問ではなく、ためらいがちの言葉だったが、圭祐には鬱陶しかった。
「何処へ行こうと勝手だろ!」
 怒鳴った。初めて他人にぶつけた怒り。一度、解き放った怒りのエネルギーはとめどなくあふれてきた。
「もう子供じゃないんだ! ほっといてくれよ!」
 圭祐は喚き散らした。地団駄を踏んだ。大仰に腕を振り回した。ケガした身体を厭わなかった。
 幼児期以来の息子の苛立ちに、母は為すすべなく、ただおろおろするばかりだった。そんな母が見苦しく思えてくる。だから、また癇癪を起こした。
 半ベソをかいた母を残し、圭祐は自分の部屋に入った。先程、母が運んでくれた荷物がある。着替えや暇つぶしの雑誌が入ったバッグだ。やおら、そのバッグをひっつかむと、圭祐は自分の勉強机に投げ込んだ。派手な音を立てて、卓上の小物が飛び散る。それでも怒りがおさまらず、再びバッグを押入に投げつけた。今度は襖に大きな穴が開く。イスを倒した。布団をはねのけた。本棚の本をひっくり返した。壊しても、大きな音を立てても、胸の内にモヤモヤした怒りは発散できなかった。むしろ逆にフラストレーションがたまる。だから暴れる。悪循環だった。
 圭祐は自分の部屋を破壊し続けた。腕が痛もうが、足が痛もうが関係なかった。心のすさみ具合と同様に、部屋も荒らさなくてはならない衝動に圭祐は駆られていた。



 帰宅した香里は、すぐにバスルームへ入り、冷たいシャワーを浴びた。このときだけが、香里の心を和ませてくれる。
 だが、脳裏に焼きついて離れない怜子の驚愕した表情。ときどき、それが鮮明に浮かんでくる。忘れよう、忘れよう。必死に振り払おうとする香里。あれは事故、事故なんだから。殿村もそう言ってくれた。
 怜子の顔ではなく、殿村の顔を思い出そうと香里は努めた。
 殿村の顔──。
 先程までセックスで愛し合った殿村の顔が浮かんできた。思い出すと自然に顔が紅潮してくる。
 激しいセックスだった。これまでセックスは何度となくしているが、求めてくるのはいつも殿村だった。しかし、今日は違った。いや、最初はいつも通り、殿村のリードで始まったのだが、途中からの主導権は香里が握るようになっていた。こんな事はこれまでになかったことだ。
 初めて香里が殿村の上になって、腰を振った。香里の破廉恥なほどの乱れように、殿村も驚いた様子だった。だが、すぐに快楽に溺れ、絶頂に昇り詰めた。
 しかし、今日の香里はヘンだった。いや、あの夏休みの最後の日以来、香里の中で何かが変わってしまったのかも知れない。
 香里は殿村を求め続けた。自分に淫蕩な血が流れていたのを発見した思いだった。何度も果てた殿村に、香里はせがんだ。「もっと、もっと」とよがった声もあげた。まだ若さあふれる殿村も、最後の方では香里の攻めに降参した。それでも物足りなかった香里は、最後の一滴まで殿村の精を搾り取った。
 思い出しただけでも、肉体の熱い疼きが止まらない。シャワーの刺激だけでも敏感に感じてしまいそうだ。
 これで元の鞘に戻ったと考えていいのだろうか。ふと、香里は不安になる。
 だが、もう殿村なしに生きてはいけないだろう。二人は秘密を共有する共犯者でもあるのだから。
 シャワーのコックをひねって水を止めると、香里はバスルームから出た。髪をバスタオルで拭きながら、姿見に向かう。
 鏡に映った裸身。水泳部員という割には、さほど鍛えられたとは言えない身体だ。どこにでもいる年頃の娘のそれでしかない。だが、香里は普通の女子高生とは明らかに違う存在へとなりつつあった。いや、すでになっているのかも知れない。
 もう進むことしか許されないのだ。
 香里はそっと下腹部を撫でながら、鏡の中の自分をしっかりと見つめた。



 中原怜子が階段から落ちた事故から三日、カンナは焦燥感に駆られていた。
 すでに城戸倉香里の体内に外的宇宙生命体が侵入してから二週間以上になる。そろそろ香里の体内からエイリアンを除去しないと手遅れになってしまう恐れがあった。
 だが、説得を託した香里のクラスメート、矢代圭祐は未だ登校してこない。退院はして、自宅療養中だと聞いている。ケガのこともあるだろうが、すでに学校で勉強するのには差し支えないはず。早いところ、登校してくれないものかとカンナは待ちわびていた。
 カンナも何度か、圭祐の家に電話を入れてみたが、誰も出なかった。圭祐本人はもちろん、家族の誰もだ。鹿島に様子を見てこさせたが、家のカーテンは閉まっており、呼び鈴を押しても誰も出てこなかったらしい。ただ、外に備え付けになっている電気のメーターが使用時並に稼働していたそうなので、誰かしら中にはいるようだという。カンナは明日にでも、自分の足で訪ねてみるつもりだった。
 一方、香里は事件後も登校を続けていた。さすがに事件のショックが尾を引いているようで、明るい雰囲気というものはまだ見られないが、そこそこには普通に学校生活を送っているようだ。ただ、カンナが話しかけていっても、避ける素振りが見られた。おそらく殿村に何か言われているに違いない。校内でも、よく二人でいる姿を目撃した。まだ強引な手は使いたくないので、現在は見守る程度しかできないが、タイムリミットが近づいてきているとなれば、そろそろそんなことを言っていられなくなる。だからこそ圭祐の助力が必要だった。
 すでにカンナの直属の上司である所長からは、香里の確保と“目標”の除去をせっつかれているのだが、カンナはそれを引き延ばしてもらっていた。非人間的な扱いをして、香里の手術をするのは簡単だ。しかし、カンナは思う。一番の当事者が何も知らずに解決されることはあってはならないだろう、と。もちろん、それはカンナの甘い理想論だ。事態は個人レベルではなく、下手をすれば地球上の生物全体に影響を及ぼしかねない問題なのだ。この際、個人の人権がどうのとか言っている場合ではない。だが、どっちも守りたいというのがカンナの本音であって、そうなるのであれば自分の苦労など厭わないつもりだった。一条カンナという女は、そういう人間なのである。
 所長への報告書を提出し、鹿島に途中まで送ってもらってから、その足でコンビニへ買い物に行ったカンナは、ようやく仮の住まいである自分のアパートの近くまで帰って来た。時刻は夜の十一時を少し回っている。
 アパートの前に、三人の人影が立っていた。勤め帰りのサラリーマンのように、皆、背広を着ている。三十代くらいの男二人と、その上司と言った感じの年輩の男だ。路上で立ち話をするでもなく、ただジッとしている。まるで誰かを待っているようだった。カンナには、それが自分ではないかという予感があった。
 案の定、カンナが近づいていくと、男たちは整列して待ちかまえた。まるでお得意さまの接待に来た営業マンのようだ。
 カンナの警戒心が働く。正面に三人だが、別の場所に伏兵が潜んでいるとも限らない。気配を探った。
「………」
 どうやら他に隠れている怪しいヤツはいそうもなかった。そう判断すると、正面の三人に改めて注意を向ける。三十代の二人の左胸辺りが、やや膨らんでいるように見えた。拳銃か。だが、いきなり撃ってこようと言うつもりはないらしい。
 男たちとの距離が十メートルくらいになったところで、カンナは立ち止まった。
「こんなところでナンパかしら?」
 カンナは微笑みながら声をかけてみた。相手も相好を崩す。
「確かに美人を前にお誘いしたいのは山々なのですが、今日は別件で参りました」
「あら、残念だわ」
 会話だけを見ると日常的な挨拶に思えるが、その実、緊張の糸はピンと張りつめていた。
「<チェイサー>の一条カンナさんとお見受けしましたが」
 三人の中で一番年輩の男が黙礼をしながら尋ねてきた。
 相手はカンナの正体を知っている!
「それが何か?」
「今、手掛けている一件から手を引いていただきたい。そういうお願いに参りました」
 男はあくまで慇懃だ。カンナは少し唇を歪めて見せた。
「私を<チェイサー>と知っての言葉?」
「はい。もちろん、ただで手を引けなどとは申しません。それなりの謝礼も致します」
「ふ〜ん。確かに、本宅のローンは残っているのよね」
 冗談とは思えぬ口調でカンナが返す。だが──
「あなたたち、パシフィックの者?」
 パシフィック。
 アメリカに本拠を置く、大製薬会社だ。薬事法が厳しい日本では馴染みがないが、世界的にはとても有名だ。だが、そんな表の顔とは裏腹に、マフィアのシンジケートとしても、その世界では名が通っている。いや、そもそもパシフィックという製薬会社を隠れ蓑にしているのか、それとも会社そのものがマフィアなのか、その辺の解釈は未だ出ていないのだが、古今東西を見渡しても希有なシンジケートであった。そのシンジケートが扱うもの、それは薬だ。だが、麻薬とかといった類ではない。確かに昔はそういったものを扱っていたらしいが、現在はもっと画期的なものを取り扱っていた。それは──外的宇宙生命体がもたらす、地上には存在することのない薬であった。
 例えば、どのような検査薬にも引っかかることのない毒薬。
 例えば、一度注射すれば一ヶ月は眠らなくても済む覚醒剤。
 例えば、寿命を縮める変わりに若さを取り戻すことの出来る秘薬。
 絵空事のような薬を、隕石によって訪れる外的宇宙生命体より抽出し、それを商品にしていくシンジケート。それがパシフィックなのだ。
 もちろん、こんな非合法な商売は国際的には認められていない。国際的にはカンナたち<チェイサー>のように、飛来する外的宇宙生命体を捕獲し、しかるべき機関で研究することこそが正しいのだ。一企業の利益だけのために、未知の生物から得た薬品を売買するべきではない。なにしろ、地球外からやってくる代物だ。どんな危険性があるかは想像もできない。
 ならば、パシフィックの薬を買わなければいいという単純な発想に行き着くが、そこはシンジケートの力のなせるワザで、権威のある政治家や大学教授に取り入り、一般の風邪薬に混入しての販売や、インターネット等を利用した密売、または成分を偽っての検定パスと、ありとあらゆる手段を講じて市場を席巻している状態だ。また決して尻尾をつかませない手並みも脅威で、各国の警察はお手上げであった。そして、真相を公表すれば民衆のパニックを避けられないことも否めず、世間には知られていないというのが実状である。
 つまりパシフィックは、カンナたちにとっての敵対組織であった。
 そのパシフィックが今回の一件を嗅ぎつけてきている。これは余談の許さない状況になってきた。
 鋭いカンナの指摘に、男たちは笑った。
「さすが、よくお分かりで。なんなら名刺でもお渡ししましょうか?」
「結構よ。それより、この情報、どこで掴んだのかしら?」
「さて。私たちは上の者の指示で動いているだけですから」
「フン! 食えないわね」
「いえいえ、私たちも普通のサラリーマンと変わらないと言うことですよ」
 何気ない会話を交わしているようだが、男たちもカンナが大人しく引き下がるとは思っていまい。ならば実力行使に出てくるか。相手は三人。うち二人は拳銃を所持してる模様。カンナも得物がないわけではなかったが、こんな町中、しかも深夜に銃を発砲すれば、周辺の住人も気がつくだろう。できれば、ここでのドンパチは避けたかった。
「さて、お答えを頂きましょうか?」
「答え?」
「はい。この一件から手を引いていただけますかな?」
 来るか。カンナは指先に神経を集中させた。
「ノーよ」
 いつでも動けるように、カンナは全身から力を抜いた。
 年輩の男は、残念そうにかぶりを振った。
「そうですか。致し方ありません。今夜のところはここまでです」
 仲間の男たちに合図するようにうなずいて、年輩の男はきびすを返した。他の二人もそれにならう。
「では、この次に会うときは容赦いたしませんよ、一条さん」
「こっちこそね」
「私たちも仕事なのです。怨みはありませんが、覚悟していてください」
 あくまで慇懃な姿勢は崩さずに男は言うと、仲間と一緒に立ち去っていった。どうやら、今夜は挨拶程度のつもりだったらしい。
 カンナはゆっくりと息を吐き出した。
 だが、これで一刻の猶予もならない。カンナは男たちが去っていった方向を見やりながら、そう考えていた。



 翌朝。
 カンナは圭祐の家に向かいながら、携帯電話で鹿島を呼びだしていた。普通なら、学校へ行くカンナを車で迎えに来てくれるのだが、今日は圭祐をなんとしても学校へ連れ出そうと決めていたので、アパートを早く出てきている。今頃、カンナのアパートに向かっているであろう鹿島を、圭祐の家に呼んでおきたかった。
「うぃっす!」
 電話に出た声は、相変わらず無愛想だった。鹿島だ。
「予定変更よ。Y町へ来て」
「Y町? どうして、また?」
「夕べ、パシフィックの奴等が来たわ」
「なに!?」
 携帯電話から急ブレーキの音が聞こえてくる。驚いたらしい。
「奴等の狙いはこっちと同じ。もう、ウダウダ言ってられないわ」
「連中、何かお前に言ってきたのか?」
「ええ、私に手を引かないかって」
「で?」
「ばーか。決まってるでしょ!」
「だな」
「とにかく彼女の説得に彼を使いたいの。今、私が向かっているから、車をこっちに回して」
「了解。十五分くらいで行く」
「OK」
 電話を切ったと同時くらいに、圭祐の住む公団に到着した。なるほど、鹿島が言っていたとおり、圭祐の家族が住んでいると目される部屋のカーテンが閉まったままだ。だが、ここで諦めて引き返すわけにも行かない。階段を登り、古めかしい呼び鈴を押した。
「………」
 返事はなかった。もう一度、押してみる。同じだ。
 思い切って、カンナはドアノブを回してみた。すると、拍子抜けするくらい簡単に玄関が開いた。
「失礼しま〜す」
 中は電気もついておらず、窓もカーテンが閉められているせいで、ひどく薄暗かった。ピン・ヒールを脱いで、お邪魔する。そろそろと足を進めた。玄関から真っ直ぐに伸びた廊下の突き当たりがリビングらしかった。
 突然、中から人影が現れた。驚いたものの、悲鳴を上げなかったのはさすがカンナか。人影は圭祐ではなく、母親のようだった。
「おはようございます。すみません、何度も呼んだんですが、お返事がなかったので……」
 カンナは釈明したが、圭祐の母はそんなことなど耳に入っていない様子だった。何か憔悴しきっている感じだ。目の下に隈が出来ている。
「あの……圭祐くんは?」
 圭祐の名に、一瞬、母はおびえたような表情を見せた。尋ねられたくないかのように、首を何度も横に振る。我が子に対しての反応とは思えなかった。
「ダメです……ダメです……」
 小さくブツブツとそんな言葉を繰り返す。どうしたというのか。
 しかし、圭祐を連れ出さないわけにはいかなかった。
 リビングに圭祐の姿はなかった。そこでカンナは自室であろうと見当をつけ、リビングを出ようとした。その袖を母親が引っ張る。
「ダメです……ダメです……」
 母親はそればかりを繰り返している。だが、これではにっちもさっちもいかない。
 カンナは優しく母親の手を引き離すと、圭祐の部屋を探した。
 だいたいの間取りから推理して、ドアをノックし、返事を待たずに開けた。
「……!」
 その部屋は真っ暗だった。カーテンが閉め切られている。それは他の部屋と同じだったが、違っていたのは鼻をつく異臭だった。
 目が慣れると、荒れ果てた部屋のあちこちが見えてきた。全てがメチャメチャだ。本棚は倒れ、壁にあったポスターははがされ、テレビも転がっている。その他、細々としたものが散乱し、足の踏み場もない状況だった。
 その中央、ベッド近くに、人がうずくまっていた。膝を抱えるようにして、身じろぎ一つしない。それが矢代圭祐だった。
「矢代くん……」
 カンナは呼びかけた。しかし、反応がない。彼は死人にでもなってしまったのだろうか。
「矢代くん!」
 もう一度、呼びかけた。だが、同じだ。一体、彼に何があったというのだろう。
 それでもカンナは、香里の説得するのに圭祐が必要なのだと信じていた。根気よく話しかけてみる。
「聞いて。もう、城戸倉さんに残された時間は少ないの。すぐにでも手術を受けさせて、中にいるヤツを除去しないと、先日話したとおり、命の危険があるわ。それに事情があって、一刻を争う状況になってきたの。お願い。私と一緒に学校へ来て!」
 だが、圭祐は無反応のままだった。やはり、今の彼には何も聞こえないのだろうか。
「矢代くん、このまま城戸倉さんがどうなっちゃってもいいの!?」
 カンナの悲痛な叫び。
 それが届いたのか、圭祐はわずかに頭を動かした。
「き、城戸倉さ……ん」
 くぐもった声だったが、それは確かに圭祐の声だった。
「そうよ。あなたが城戸倉さんを助けるのよ」
「僕が……城戸倉さんを……」
「ええ! あなたしかいないのよ!」
 ゆっくりと圭祐は頭をもたげた。その顔は病的で、カンナをひるませるものがあったが、目だけはぎらぎらとしたものを感じ取れた。
「行きます……僕、行きますよ……」
 圭祐はそう言うと、立ち上がった。


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