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追跡者<CHASER>
#09.叫ぶ心
「スパート!」
折り返しのターンをしたところで、コーチの声が飛んだ。
香里は力を振り絞って加速した。他の泳者では相手にならない。ここからは自分との勝負だった。
室内プールの照明がすごいスピードで眼下に流れてゆく。だが、香里の実力はまだこんなものではない。もっと速く泳げる。もっと……。
香里はチラリとプールサイドに目をやった。殿村の姿が確認できた。見守っていてくれる。
見ていて、先輩!
手足の回転がグンと速くなった。水の抵抗が気にならなくなってきている。面白いようにスピードが出た。
場内に歓声が上がる。最近、香里は水泳部の注目の的だった。その泳ぎに、部員も外から覗く部外者も釘付けになる。その速さは魔性とも言えた。
ゴール寸前、香里は少し流した。速いのは分かり切っているのだ。練習でいいタイムを出したところで、公式記録にはならない。
ストップ・ウォッチを計っていた部員が、ゴールと同時にストップ・ボタンを押す。
「1分02秒16!」
どよめきが起こった。これはオリンピック・レベルのタイムだ。始業式の日に香里が好タイムを出すようになってからでも、約二秒ほど記録を更新している。
香里は照れ笑いを浮かべながら、プールから上がった。朝練終盤のタイム・アタックで毎日のように起こる歓声だが、それをテレビのアイドルのように振る舞って応えるにはもう少し掛かりそうだ。
「お疲れー!」
仲間がバスタオルを持って香里を囲む。冗談めかしにバスタオルを頭にかぶせられ、髪をクシャクシャにされると、香里は悲鳴を上げた。
そこへコーチが歩み寄ってきた。たちまち部員たちの悪ふざけが止まる。
「城戸倉さん、どうして最後、流したの?」
褒められることはあっても、怒られることはないだろうと思っていた香里には意外だった。部員たちの輪も崩れる。
「それは練習ですし……」
「練習で手を抜きなさいと教えた覚えはありません。今度、あのような素振りを見せたら『二軍』に落とすわよ。いいわね?」
「……はい」
コーチは厳しくそう言うと、他の部員たちに手を叩いて練習の続きを促した。
先程まで香里を囲んではしゃいでいた部員たちも、気の毒な視線を香里に見せながら各々の練習に戻っていく。香里の高揚感はしぼんだ。
「気にするなよ」
背中から声が掛かった。殿村だった。
「でも……」
「キミはもう女子水泳部のエースなんだぜ。『二軍』になんか落とせるもんか。もっと自信を持つんだ」
殿村にそう言われて、香里も少し表情を緩めた。
「それより……」
と、殿村が声をひそめた。顔を耳元に寄せてくる。
「放課後の練習が終わった後に……ね?」
殿村が何を言いたいのか香里はすぐに察し、顔を赤らめた。香里の肉体を求めてきているのだ。数日前の痴態が思い出される。恥ずかしかったが、香里はうなずいてOKした。
「じゃあ、また帰りに」
あまり二人が接していると他の部員たちの目もあるので、練習では普通の先輩後輩という間柄を演じ続けていた。殿村はさわやかな笑顔を残して、自分の練習に戻っていった。あくまでも後輩思いの先輩という風に。
香里の練習はこれで終わりだ。コーチや他の先輩に挨拶し、更衣室に向かった。
退室間際、殿村の泳ぎを見ようと振り返った香里の視界に、別に人物の姿が飛び込んできた。
「矢代くん……」
壁一面をガラス張りにしたその外に、クラスメートの矢代圭祐が立っていた。香里の方を見ている。
あの廃墟でのレイプ未遂事件以降、香里は圭祐に会っていなかった。圭祐が自分のためにケガを負ったのは分かっている。だが、どんな顔をして圭祐に会えばいいのか分からなかった。
圭祐には一部始終をほとんど見られている。それは香里にとって恥辱でしかなかった。出来れば抹消したい。おぞましい過去だ。それを圭祐の顔を見るたびに思い出す恐れがある。それは助けに駆けつけたカンナも同じことで、つい避けてしまいがちになっていた。
イヤだ。思い出したくない。
それでなくても怜子の転落事故の一件もある。今頃、殿村がいなければ香里の心は崩壊していたかも知れない。そのくらい、短い間に色々とありすぎた。
だが、こうして圭祐が学校にやって来たのに、それを無視するわけにもいかなかった。何か言葉をかけなくてはいけないだろう。いや、そうしなければならないという衝動が、ようやく香里の中で芽生えた。
水着姿もいとわず、香里は出口を回って外へ出た。登校してきた生徒たちが目を見張るが、かまっていられない。室内プールを一望できるガラス窓の前へ、香里は急いだ。
「矢代くん!」
圭祐は動かず、その場に立っていた。ゆっくりと振り返る。
顔色はすぐれず、まだ腕に巻かれた包帯が痛々しいが、学校へやって来たところを見るとよくなったのだろう。現に松葉杖もつかずに立っている。普段の圭祐と変わらぬように見えた。
が──
突然、香里の足が止まった。圭祐との距離は五メートルもないところでだ。自分としてはもう少し近づくつもりだった。だが、何か本能のようなものが足を止めさせた。
それは“恐怖”だったか。
「おはよう、城戸倉さん」
圭祐が挨拶してきた。何気ない挨拶。しかし、香里はそれが怖くて怖くてたまらなかった。
キューッと、腹部に痛みが走った。よく緊張で腹痛を起こすと聞くが、これはそんな感じではなかった。もっと直接的なもの──香里の体内に潜む、あの生物が原因だと思えた。
──何かを警戒しているの?
それは直感であったが、なぜか正しいという確信が香里にはあった。
そんな香里に対し、圭祐は穏やかな表情を見せていた。しかし、その目は違う。熱に浮かされたかのようにギラギラとしたものが感じられた。香里の水着姿に欲情しているようにも見えるが、あのシャイな圭祐が取る態度とも思えない。動物的な、まるで獲物を前にした野獣のようでもあった。
香里は危険だと思った。プールで謎の生物に襲われたときやレイプ未遂事件、そして嫉妬に狂った中原怜子のときとは違った恐怖感が、全身を萎縮させる。悪寒がする。足が震える。それでも圭祐から目をそらせない。
そこに立っているのはクラスメートの矢代圭祐に他ならなかったが、まったく別の存在に変じてしまったようだった。
「矢代……くん?」
「会いたかったよ、城戸倉さん」
圭祐が一歩踏み出した。香里が身を縮める。
「大事な話があるんだ。大事な話が……ね」
「い、イヤ……イヤ……」
恐怖のあまり声もかすれ、香里は首を振るだけで精一杯だった。
ヤだ、来ないで、来ないで……!
そこへいきなり肩を叩かれた。香里が絶叫する。
「キャアアアアアッ!」
「わっ、わっ、ちょっとタンマ!」
それに驚いたのは、後ろから香里の肩を叩いたカンナだった。思わぬ香里の反応に、カンナは慌てた。
「私よ、私! そんなに驚かなくてもいいでしょ?」
「せ、先生……」
香里はカンナを見て、ようやく安堵の表情を見せた。気が抜けた途端、地面にへたり込んでしまいそうになる。素早くカンナが身体を支えた。
圭祐はカンナの登場に顔を曇らせたが、すぐ普通に戻った。
「城戸倉さん、矢代くんがあなたに話があるそうよ」
カンナは、香里がちゃんと立てることを確認してから、手を離した。
「私に話?」
「ええ」
「私には……何も話すことはありません」
言葉を呑み込むようにして香里は言った。よそよそしい態度に、カンナは眉を寄せた。
「何を言うの? 矢代くんはあなたの命の恩人でしょ?」
「と、とにかく、私は話したくありません」
かたくなに拒否する香里に、カンナは不審なものを感じたが、それが何なのかまでは分からなかった。殿村に何か言われているのか。それとも……。
「放課後……」
圭祐が呟きとも取れるくらい小さな声で、二人の間に割って入った。香里が緊張に身を固くするのがカンナには分かった。だが、どうして香里が圭祐に対してそういう反応を示すのか、カンナにはいまいち解せなかった。
「放課後、屋外プールで待っているよ。そのときは先生には遠慮して欲しいんですけど、よろしいですか?」
「え、ええ、構わないわよ」
カンナが承諾してくれたので、圭祐は笑みをこぼした。だが、それは顔色の悪さも手伝ってか、何か邪なものを感じずにはいられない。嫌な予感がした。
「それじゃ、城戸倉さん、帰りに」
圭祐は一方的に約束を取り付けると、校舎の方へと去っていった。
残された女二人は、いつもと違う圭祐の雰囲気に疑念を抱きながらも、それを見送ることしかできなかった。
香里は水着姿のまま、身体を震えさせていた。もちろん残暑厳しい屋外、寒いわけではない。恐怖から来る悪寒が止まらないのだ。その原因が圭祐にあること自体、香里には未だ信じられないことではあったが、紛うことなき事実であることに戦慄する。
カンナはそんな香里を心配して、顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です……」
「ウソおっしゃい、顔色が悪いわよ」
「本当に何でもないんです」
香里はかたくなに首を横に振った。
それ以上、問い正すことをカンナは諦めた。そして、これには何かあると直感した。
香里と別れ、教室へと向かう圭祐は、己の内に燃えたぎる欲望が静まっていくのを感じていた。
この数日間、無気力な毎日を過ごしていた。香里が殿村の家から出てくるのを目撃した直後こそ、嫉妬と自己嫌悪から母親にあたり、部屋をメチャメチャにしたが、それがおさまると何もする気がなくなってしまった。部屋からは一歩も出ず、食事も取らず、それでいて眠るわけでもない状態で過ごしていた。母親は心配して食事をするよう恐る恐る勧めてくれたが、それに答える気力もなかった。息子が無言であることを“拒否”だと解釈した母親は、それ以降、圭祐をそっとしておくことしかできなかった。同じ屋根の下で、互いにジッと息を殺して暮らす日々が続いた。
それが今日になって、カンナが訪れた。もちろん、圭祐の無気力さに変化はなかったが、香里の名前を聞いた途端、なぜか学校に行く気になったのだ。
香里は殿村と付き合っている。それを考えると嫉妬に狂いそうだ。できれば殿村を殺してしまいたい。強引に香里を自分のものにしたい。圭祐にだって欲望はあるのだ。大人しそうな外見をしていたって、心の中では人並みの邪心を抱いている。人間とはそういうものだ。それを表に出す者と出さない者がいるという違いだけだ。
それでも香里のことは心配だった。香里の体内に巣くう外的宇宙生命体のことを放っておくわけにはいかない。これには香里の命そのものがかかっているのだ。おそらく、誰にも相談できず、香里は一人悩んでいるに違いない。その助けになれば、とカンナは圭祐に打ち明けてくれたのだ。香里に真相を話して、除去手術を説得してほしい、と。
だから、圭祐はカンナと共に登校した。だが、まだ完治していない不自由な身体を動かすのも辛かったが、何より、すぐに萎えそうになる気力に最悩まされた。とにかく公団から外へ出るだけでもひと苦労だった。カンナはまだ体調が万全ではないのかと気遣ってくれたが、そうでないのは自分でよく分かっている。とにかく動きたくない誘惑に負けそうだった。なんとか学校まで来れたのは、圭祐の香里に対する思いとカンナ、そして車で運んでくれた鹿島という男のお陰だった。
それがどうしたことだろうか。水着姿で室内プールから飛び出してきた香里を前にしたとき、強烈な欲望を感じた。気力がみなぎった。まるで眠りから覚めたようだった。香里に会えたからか。それとも水着姿を間近に見られたからか。いや、それは異性に対する愛情や欲情とは違う。それは獲物に対する高揚感とでも言うべきか。香里が欲しかった。それは激しい衝動で圭祐の心を揺り動かした。
何か根本的なところで狂っているような気もした。自分はおかしい。そう囁くもう一人の自分がいたことも確かだ。だが、そんなものは些細な事でしかない。圭祐は香里を求めていたのだ。形は違えど、その気持ちは初めて教室で一緒になってからずっと変わらない。
圭祐の異変を香里は察知していた。おびえていた。まるで天敵に射すくめられた獲物のように。それが圭祐の欲望を益々、高ぶらせた。
もう学校だということも頭になかった。あのとき、カンナが現れなかったら、圭祐は香里に襲いかかっただろう。そして……。そして、どうするのか。分からない。それは圭祐にも分からない。ただ、その行為は善悪を超越したもののような気がした。当たり前のこと。でも、ある意味、恐ろしいこと。圭祐はすでに圭祐でなく、ここにいてここにいない存在になりつつあった。不思議とそれに対する恐怖はない。香里が自分のものになる。それは望んでいることなのだから。
授業の間中、香里は圭祐の視線が気になって仕方なかった。
圭祐の席は、香里の席から斜め後ろの窓際にある。振り返ってはいない。圭祐が見つめているのを確かめる勇気がなかったから。しかし、振り返らずとも、圭祐が見つめていると香里は確信していた。なぜなら、朝の悪寒を未だ感じていたからだ。
一体、圭祐はどうしてしまったのだろうか。明らかに香里が知っている圭祐とは違う。
香里が知っている圭祐は、内気で大人しいクラスメートだ。そして、香里に好意を持っていることも承知している。だから保健室で香里の身体をあんなに心配してくれたのだろうし、黙って鞄を届けてくれたり、暴漢から香里を守ろうと身を挺してくれたのだ。それが今はどうだ。まるで香里を狙っているかのような、油断も隙もない視線を注いでくる。教室に二人だけにされたら、襲いかかってくるのではないかという雰囲気だ。
圭祐に殿村との関係を知られ、中原怜子のように嫉妬に狂っているのだろうか。それは考えられなくもないが、気になるのは圭祐を恐れているのが香里だけでなく、体内にいると思われる謎の生物までおびえていることだ。これまで、あの夜のプールでの一件は夢ではないかと思うくらい、下腹部の違和感は少なかったのだが、今はハッキリと感じる。自分の中に得体の知れないものがいる感覚。そして、それが萎縮し、おびえていることも。ただの人間である圭祐に何をおびえる必要があるのだろうか。それとも……。
香里はもっとも考えてはいけないことを想像し、かぶりを振った。
圭祐はもう普通の人間ではないのでは……。
そんなことがあるのだろうか。……いや、ある。香里自身、すでに普通の人間ではない。謎の生物によって。
圭祐にも何かしらの怪物が取り憑いている……?
思わず香里は振り返ってしまった。
見ている。
圭祐の目が異常に熱っぽく潤み、香里をしっかりと捉えていた。
怖くなった香里は、すぐに前を向いた。悪寒がひどくなる。逃げられない、もう私は逃げられない……。
圭祐は放課後に屋外プールに来て欲しいと言っていた。屋外プールは水泳の授業で使用するのみで、普段は人気がない。そんなところで圭祐と二人きりになったら……。
このまま授業が終わらないで欲しかった。
そう切に願い、香里は机に伏せるようにしたが、無情にも放課後を告げる終鈴のチャイムが鳴った……。
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