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追跡者<CHASER>

#10.惨劇に集いし者たち


 学級委員の「起立、礼!」の号令が終わるか終わらないかのタイミングで、香里は放課後の廊下へと飛び出した。別に圭祐との約束に急いでいるのではない。圭祐から逃げるためだ。
 圭祐の言葉通り、屋外プールに出向いたりしたら何をされるか分かったものではなかった。怖い。心底、恐怖をクラスメートから感じていた。今、全力で走っていても、すぐ背後にいるのではという疑念に駆られる。もちろん、今の今まで同じ教室にいたのだから、おいそれと追いつけないはずだが、それでも不安は拭いきれなかった。
 階段を飛び降りるようにし、人混みをかき分け、昇降口までやって来た。ここに来てようやく後ろを振り返ってみる。大丈夫、いない。あれだけ香里が全力で振り切ってきたのだ。陸上選手でもなければ、追いつくことは難しいだろう。
 乱れた息を整えながら、香里は下足に履き替えようと下駄箱に手を伸ばした。その手首がつかまれる!
「キャッ!」
「どうしたんだい?」
 手首をつかんだのは圭祐でなく殿村だった。髪の毛が汗で額に張りついている香里の様子を見て、殿村が怪訝な顔をする。
「香里……?」
「な、なんでもありません」
「なんでもなくはないだろう。何があったんだい?」
 殿村は答えるまで香里の手首を離さないつもりのようだった。香里は背後が気になってしょうがない。すぐにも、あの廊下の向こうから圭祐が現れそうな気がした。
「離してください。私、帰ります」
「帰る? 練習は?」
「今日はやめておきます。コーチには適当に言っておいてください」
「どうして? どこか具合が悪いとか?」
「そうじゃないですけど……、とにかく、今日は見逃してください!」
「香里! オレに隠し事なんてするなよ! ちゃんと話してくれ!」
 殿村は香里の両肩をつかむと、揺さぶるようにした。
 殿村に話していいものだろうか。中原怜子の場合も殿村は支えになってくれた。だが、今度の圭祐は尋常ではない。まだ確証はないものの、漠然とした不安だけは今も香里の中で消えない。あれは圭祐であって圭祐ではないのだ。殿村を巻き込んでしまったら、取り返しのつかないことになるかも知れない。
「香里」
 殿村の真摯な眼差しを見ていると気持ちがぐらつく。寄りかかりたい。抱かれたい。この世の些事を全て忘れ、恋人に全てを委ねてしまいたい。それがどれだけ楽で、どれだけ安穏としていられるか。人間は弱いものだ。独りで生きるには世の中はつらいことが多すぎる。だから寄り添いたいのだ。だから抱擁を求めるのだ。そうすれば世の中に自分一人だと淋しくならずに済む。ぬくもりは生きている証だ。
 香里はついに殿村に全てを打ち明けた。



 鹿島はいつものように森里高校が一望できる坂道に白いバンを止め、遅い昼食をとっていた。ミネラル・ウォーターで喉を潤し、焼きそばパンにむしゃぶりつく。キャベツと紅生姜が歯触りのいい音を立てた。
 そろそろ授業が終わった頃で、もう間もなく校門から帰宅する生徒たちの姿が現れる頃だ。鹿島の任務は城戸倉香里のマークなので、水泳部の練習が終わるまではこのまま待機となるだろう。ここ二週間、繰り返されてきた仕事だ。しかし、それを不満だとも鹿島は思わなかった。
 自分はカンナのバックアップをしている方が性にあっていると信じている。その強靱な肉体だけを見れば、カンナと同じ<チェイサー>になるのが妥当かも知れないが、格闘や射撃の訓練は積んでいないし、場合によっては危険な化け物と戦う羽目になるのだから、安全な後方支援に徹した方がいい。何よりカンナを見守れるところが良かった。
 カンナとコンビを組んで二年になる。カンナが駆け出しの頃からの付き合いだ。かつては恋人同士のような関係にもなったことがあるが、馴れ合いでこなせるほどこの仕事は甘くない。いつしか一定の距離を保つようになった。お互いにそれがベストだと信じて。
 いきなり車のガラス窓がノックされた。まったく無警戒だった鹿島は、慌ててノックした人物に視線を投げる。そこには見知らぬ年輩の男が立っていた。
 まだ残暑厳しい中、ぴっしりとスーツを着た男は、鹿島に柔らかな笑みを見せていた。そして、まるで手招きするような動作を見せる。降りてこいと言うのか。
「何の用だ?」
 鹿島は運転席に座ったまま、ガラス越しに男に尋ねた。サングラスをしたマッチョに凄まれて、男もひるむかと思ったがそんなこともない。ただ手招きするのみだ。
「チッ! 何だってんだ?」
 鹿島は舌打ちしてぼやいた。男が何のつもりがあるのかは分からなかったが、早いところ追い払わないと任務に支障が出る可能性もある。エアコンの効いた涼しい車内から深い極まりない外に出ることはためらわれたが、思い切ってドアのロックを外した。
「なんだい、オッサン」
 車を降りるなり無礼な言葉だったが、鹿島は男に睨みを利かせた。だが、男は泰然自若、その微笑と丁寧な物腰を崩さず、鹿島に一礼した。
「<チェイサー>の鹿島さんですね?」
 男の慇懃な物言いに、鹿島は危険なものを感じた。



 屋外プールは森里高校の敷地から、やや離れた場所にあった。というのも、水泳部の全国的な活躍により、学校を挙げての練習施設の整備が行われ、元々、屋外プールであった現在の場所に室内プールが出来たのである。初めは水泳部の練習と水泳の授業で共用していたのだが、どうしても水泳部の夏の大会近くになるとスケジュール調整が弊害となり、もうひとつプールが必要となってきた。折しも、近くの中学校が少子化の影響で廃校。そこの屋外プールだけを買い取り、水泳の授業に活用するようになったのだ。離れているとはいえ、森里高校からは百メートルくらいの距離で、水泳の授業が夏の期間だけ行われることを考えれば、さして不便と言うこともない。
 だから、夏でも授業がない時間帯は人気のない場所であった。
 香里は殿村に支えられるようにして、圭祐が指定した屋外プールへと向かっていた。もちろん気が進まないので、足取りは鉄球を引きずった囚人のように重い。せめてもの救いは殿村と一緒であることで、一人ならばとっくに逃げ出していただろう。
 全てを打ち明けた香里は、あえて立ち向かうよう殿村に諭された。逃げてはいけない。いずれは解決しなければならないことだと。だが、香里一人を送り出すようなことはせず、自分も付き添って力になるいう言葉に勇気がほんの少し湧いた。
 それでも学校を出、屋外プールに近づいてくるとやはり怖い。圭祐が何をしたいのか、香里には分からない。だから怖いのだ。
 廃校になった中学校の跡地は、数年経っても買い取り手が現れず、半ば野放図な空地のように草木が伸び放題になっていた。一応、屋外プールへの道は形作られてはいるが、それでも舗装はされておらず、まるで畦道だ。二人の行く手を覆い隠さんばかりに草木が育ち、身体にまとわりつこうとする。水泳の授業のときは、クラスメートとキャーキャーとふざけ合うところだが、今はそんな気分など微塵もない。まるで見慣れた風景が、異空間へ誘う入口のような不気味さを醸し出していた。
 香里は思わず、殿村とつないだ手をギュッと握った。殿村の手はサラッと乾いているが、香里の手は緊張に汗ばんでいる。殿村は一度、香里を振り返っただけで、無言のまま奥へと進んだ。それが頼もしくもあり、不安でもある。だが、今は黙って進むしかない。
 唐突に視界が開けた。目の前にフェンスに囲まれた屋外プールが現れる。香里は息を呑んだ。
 香里たちの位置から見る限り、圭祐はまだ来ていないようだった。終鈴と同時に教室から逃げ出した香里の姿を見て、今日のところは諦めたのだろうか。それならそれで助かるというものだ。
「せ、先輩……」
「どうした?」
「矢代くん、来てないようですし、このまま帰っちゃいましょうか?」
 香里はおずおずと言った。殿村が少し厳しい顔になる。
「何を言っているんだ? キミのためにも早く決着をつけておかないと」
「でも、当人がいないのでは……」
「とにかく中に入ってみよう。どうやら入口は開いているらしいし」
 殿村の言うとおり、プールの入口のフェンスは開けられていた。通常は施錠してあるはずだ。水泳の授業が終わったときに施錠し忘れたのか、それとも……。
 殿村に手を引かれるようにして、香里は入口をくぐった。
 入口を入ると、まず更衣室のある小さな建物がある。左右に男女で分かれており、そのまま通路を先に進めば、消毒用の浴槽を経てプールだ。浴槽は水が張られたままになっているので、その手前脇に作られている迂回路を通り、二人はプール・サイドに出た。
「!」
 どこに隠れていたものか。先程はいなかったはずの圭祐が、プールの水面を眺めながら待っていた。ゆっくりと顔を上げ、二人に視線を向ける。香里は思わず顔を背けた。
「来てくれたんだね……」
 弱々しい声で、圭祐は言った。普通の人間が彼を見た場合、病人というイメージがすぐに浮かぶことだろう。事実、圭祐の顔色は優れず、立つ姿勢も前にのめりかけている。この人物が怖いなどと言うのは、殿村などには理解できなかった。
 しかし、香里の身体は、圭祐の姿を見た途端、恐怖に震えていた。思わずつかんだ手に力がこもる。わずかながら殿村が顔をしかめた。
「せ、先輩……ダメです……やっぱり怖いです……」
「しっかりするんだ。──キミが香里と同じクラスの矢代くんか。話は香里から聞いているよ」
「殿村先輩……? どうして、あなたまで……?」
「香里がキミと二人だけになるのは怖いと言うものだからね。いや、気を悪くしないでくれ。ボクは穏便にいきたいんだ」
 殿村が圭祐に話しかけている間、香里は怖さに立っていられないような状態になり、ほとんど殿村にしがみつくような格好になった。それを見た圭祐の目に憎悪の炎が灯る。
「ボクは城戸倉さんと二人だけで話したかったんだ……。なのに、どうして……」
「それは充分、分かっているつもりだよ、矢代くん。でも、こうでもしなければ香里はここへやって来ることはなかった」
「ダメです、先輩! 私、帰ります!」
 恐怖に打ち勝てない香里は、逃げようと殿村の身体から離れた。その腕を殿村がつかむ。
「それはダメだ!」
「なぜです?」
 香里は殿村の顔を見た。その表情が豹変するさまを、香里は直視してしまった。
「せっかくキミを彼の前に連れてきたのだからね!」
 力一杯腕を引かれ、香里は圭祐の前に転がされた。
 一体、何が?
 痛みよりも何よりも、香里の頭は混乱した。
「逃げてもらっちゃ困るのさ。これからキミには彼の餌食になってもらうんだからな!」
 その殿村の言葉に、香里は夏休み最後の日に失恋した瞬間を思い出していた。



 圭祐には香里と二人だけにして欲しいと言われたものの、あの尋常ではない香里の怯え方を見てしまうと気になって仕方がないカンナだった。ホームルーム終了時間を見計らい、香里たちの教室に向かったカンナであったが、すでに香里も圭祐もおらず、ならばと室内プールへ取って返した。だが、こちらも空振り。おまけに殿村もいないということで、これは約束していた屋外プールだろうと、今、急いでいる途中だ。
 まだ赴任して二週間ちょっとのカンナは、屋外プールの位置を把握していなかった。校門を出てきたものの、どっちの方角か分からない。とりあえず下校しようとしていた生徒の一人を捕まえて、場所を尋ねた。
 森里高校から約百メートル離れた空地に入り込むと、舗装されていない足下に動きが鈍くなった。やっぱりピンヒールはまずかったかしらん、とかなんとか考えながら先を進んでいくと、カンナの耳だけが捉えられるかすかな音を察知した。足が止まる。音はカンナが聞き慣れたもの。拳銃の安全装置を外す音だ。
 カンナは気配を探りながら、手をミニスカートに伸ばしていった。
「そこまでだ」
 タイミングぴったりにカンナの左右の草むらから男が立ち上がった。手には黒光りする自動拳銃トカレフTT−33。日本のヤクザでも使う安物だ。顔は……知っている。昨夜、アパートに現れた三人のうちの二人だ。リーダーらしかった年輩の男はいない。どこかに潜んでいるのか。
「あーら、女一人に男二人が待ち伏せ?」
 銃口を向けられながらも、カンナの態度は平然としたものだった。敵に弱味は禁物だ。「先を急いでんのよね。良かったら通してくれないかしら?」
「それは出来ない相談だな」
 カンナに対して左手の男が言う。
 カンナはちょっとむくれてみせる。二人の男に隙はない。カンナと同等の訓練を積んだ手練れだろう。このピンチを脱するには、カンナも得物を手にする必要がある。だが、この様子では少しでも動けばズドンだ。即死はともかく、命中すれば香里の所に辿り着けなくなる。時間を稼いで、逆転の方法を探さなくては……。
「私がこの先に行っちゃマズイことでも?」
 カンナは世間話でもするかのように男たちに尋ねた。男たちも多勢に無勢なのをいいことに余裕をカマしている。だが、この程度の油断をついてもムダだ。むしろカンナが動いたことを口実に撃ちたがっているようにも見える。
「今、アンタに邪魔されちゃ困るのさ」
 また答えたのは左側の男だ。こっちの男から攻略の糸口を探してみることにする。
「どうしてよ?」
「それを知る必要はないな」
「じゃあ、さっさと消せば?」
「ここはアメリカじゃない、日本だ。やたらと銃を使うなとは言われている。ちょっとの間、動かないでいてくれれば命までは取らないさ」
「お優しいことで、涙が出てくるわ」
「それに美人を一人、この世から消してしまうのは惜しい」
「あら、お上手」
「もっとも相棒の方は何と思っているか知らないけどな」
「………」
 ダメだ。左側の男がこちらの会話に乗ってきてくれても、右側の男は命令のみを遂行するロボットのようにカンナに銃口を向けたままだ。これでは身動きがとれない。
 こうしている間にも屋外プールでは香里と圭祐、そして殿村が加わって、なにやら事態が進んでいるに違いない。そして、それはパシフィックにとっても利益になることのようだ。一体、何が……。
 次第にカンナの表情からも余裕が薄れていった。



 圭祐と殿村の間に倒れた香里は、交互に二人の男たちを見上げた。
 片や、クラスメートの男子生徒。だが、今は得体の知れないものに取り憑かれたように、香里に対して異様な視線を注いでいる。
 片や、部活の先輩で恋人。だが、突然、態度を翻し、その邪悪な本性を見せようとしている。
 前門の虎、後門の狼。
 どちらにも食われる運命にあるのだろうか。
「もう一度、キミとのセックスを楽しみたかったがしょうがない。ヤツがキミを欲してる。黙ってキミは餌食となれ」
「どういう……どういうことなんですか、先輩?」
 一度は裏切られ、それでもなお信じた先輩に、香里は半ベソをかきながら尋ねた。また裏切られた無念な想い。もう、生きる気力も萎えそうな香里だった。
 そんな後輩を眺めながら、殿村は笑った。
「ははは、知りたいか? まあ、そうだろうな。いいだろう、教えてやるよ」
 殿村は得意気な笑みを浮かべながら、香里の周りを歩き始めた。圭祐は動かず、ジッとしている。
「ある人から、キミの体内にエイリアンがいることを知らされた。一週間くらい前の事かな?」
 香里は思わず腹部に手をやった。知っていた? 殿村が?
「そのエイリアンは動物の体内に入り込むと、産卵のための住処を作ろうとするらしいね。その副産物として、脳内麻薬と似たような物質を生成する。すると宿主は、今までになかった飛躍的な運動能力を持つようになるんだ。麻薬で自己の限界を易々と突破してしまうためにね。それを聞いたとき、ボクはピンときた。今月になってから、キミのタイムの更新は異常だった。何かあるとは思っていたんだよ。キミの泳ぎを見たとき、その秘密を知りたいと思った。だから、一度はキミに飽きて捨てたものの、再びヨリを戻そうと考えたのさ」
「そ、そんな……」
「キミと親しくなった元々の原因は怜子だった。彼女は独占欲が強く、嫉妬深い。いい加減、嫌気がさしていてね。キミと付き合ったのは、ちょっとしたつまみ食いのつもりだった。でも、キミは退屈すぎた。ボクに何ももたらさない。だから別れたんだよ、分かるかい? ところが、だ! キミはあの強烈な泳ぎをボクに見せてくれた。あこがれたよ。こんな事は今まで生まれてきた中でなかったことだ。あの泳ぎをボクも身につけたかった。キミの泳ぎをボクは欲したんだ!」
 香里は、もう耳を塞いでしまいたかった。聞かなければ良かった。死んでしまいたかった。
 なおも殿村はしゃべり続ける。彼の吐露は終わらない。
「そんなとき、キミの秘密を知った。その人はこうも言った。『その力をキミも手にしないか?』とね。ボクはもちろん、協力を買って出たよ。その人が言うのさ。そのエイリアンには実は天敵がいて、普段は植物状態のようにジッとしているが、そのエイリアンを取り込むとさらに強靱なエイリアンになるとね。そう、ここまで言えばもう分かるだろ?」
 香里は圭祐を見た。ジッと香里を見つめている。その熱っぽい瞳に光る感情の正体がようやく分かった。愛欲でもなければ、情欲でもない。食欲だ。飢えに耐え続けた狂気が圭祐を支配しているのだ。だから、獲物である香里が怯えるのも無理はない。
 まるで手負いのウサギだと香里は思った。走って逃げることもままならず、ただ身を縮めて野獣の牙にかかるのを待つしかない。
「これが最後になるかも知れない。もう一つだけ教えておいてあげよう。怜子のことさ」
 殿村はまだぐるぐると回っている。止まったときが終わりのときかも知れないと、香里はぼんやりと考えていた。
「怜子が階段から落ちたのはキミと揉み合ったからだが、実際はちょっと違う」
「………」
「あのとき、怜子はキミに突き飛ばされた。それは確かだ。だが、キミが憶えているかどうかは分からないが、ボクはそのすぐそばまで階段を上がってきていたのさ。怜子はボクの身体にすがりつこうとしたよ。だが、ボクは避けてしまった。巻き添えはゴメンだし、あれで怜子が消えてくれるなら助かるからね。どうだい、少しは罪の意識が軽くなったかい?」
 もう何が何やら香里には分からなくなってきていた。
 殿村が自分に近づいたのは、ほんの遊びのつもりだった?
 再び近づいたのは速く泳ぐ秘密を探るため?
 怜子を見殺しにしたのも殿村?
 殿村から語られる全てが衝撃的で、香里を打ちのめした。もうダメだ……。もうダメ……。
「さあ、これで心置きなく彼の餌食になれるだろう? そして、彼の血肉となったキミは、オレの泳ぎのレベルアップに役立つことになるのさ。好きな男の犠牲になる! 美しい話じゃないか!」
「そしてキミは用済みだよ」
 突然、落ち着いた感じの年輩の男の声が聞こえた。殿村が振り返る。
 次の刹那、一発の銃声が轟いた。



 銃声はカンナの耳にも届いていた。だが、男たちはあらかじめ予想していたのか、微塵も動揺を見せない。撃った人物は予測できた。だが、撃たれたのは? 香里か、圭祐か、それとも……。
 カンナに焦りの色が濃くなった。早くこの場を切り抜けて、屋外プールに向かわなくては。ここはイチかバチかの勝負に出るべきか……。
「一条先生!」
 突然、背後からデカイ声がかかった。聞き覚えのある男の声だ。体育教師の櫻井だった。おそらく、カンナが屋外プールの方へ向かったのを見ていて、口説き落とすチャンスと知って追いかけてきたに違いない。
 この突然の闖入者には、さすがの男たちも驚いた様子だった。カンナに向けられていた注意がそがれる。
 今だ!
 カンナは横っ跳びしながら、スカートの下、内腿に忍び込ませていた愛銃S&Wショーティー40を抜き、まず右側の男に向け三連射した。三弾命中! 男はのけぞり、膝から崩れ落ちた。
 肩から地面に着地したカンナは、そのまま身を横にしたまま三回転半する。
 カンナの逆襲を喰らったパシフィックの犬は、すぐに照準を合わせようとしたが遅い。再びカンナの三連射を喰らって、あっという間にやられてしまった。
 その光景を目撃した櫻井は、追いかけてきた格好そのままで固まり、事の成り行きについていけなかった。
「あ、あのぉ……一条先生……?」
 生まれて初めて見た銃撃戦の迫力に、櫻井は呆然としていた。
 カンナは射撃姿勢から起き上がると、二人が負傷並びに戦意喪失しているのを確認して、携帯電話を手にする。短縮ダイヤルでかけた先は鹿島だ。
 だが、いくら待っても応答はなかった。カンナは舌打ちすると、ようやく櫻井に気がついたように微笑んだ。
「ありがとうございます、櫻井先生。助かりましたわ」
「はは、ははは……」
 笑顔も凍り付く。
「助かりついでになんですけど、警察に通報して、コイツらを逮捕するように言ってください。後ほど私の方から事情を説明します」
「はあ……」
「じゃあ、私はちょっと先を急ぐので……」
 まだ事態の把握が出来ていない櫻井を残し、カンナは屋外プールに向かおうとした。だが、行きかけてすぐに戻ってくる。そして、まだ硬直したままの櫻井の頬に、軽くチュッとキスをした。
「とりあえずのお礼です。では!」
 カンナは茶目っ気たっぷりの敬礼をしてみせると、今度こそ、その場を立ち去って行った。


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