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追跡者<CHASER>

#12.死 線


「う、う……ん……」
 香里は頭に硬いものを感じて、呻き声を上げた。意識がぼやけている。私は一体……。
 唐突に今までのことを思い出し、香里は目を開いた。視界に夕焼け空が飛び込んでくる。あせって身体を動かそうとした。
「ここは……」
 香里は仰向けの状態で寝ていた。どうやら圭祐に抱きすくめられたときに気絶したらしい。だとしたら、圭祐が香里をここに運んで来たのだろう。
 コンクリートの床に、周囲を覆ったフェンス、そして頭上に広がる茜雲。何度か来たことがある。ここは森里高校の屋上だ。
 空の明るさからして、まる一日気絶していたのでなければ、屋外プールでの一件からそれほど経っていないようだった。
 香里は現在位置を把握すると、今度は自分の体を調べてみた。どこも傷ついた様子もなければ、着衣の乱れもない。ホッと安堵のため息をつく。
 だが、ここに香里を連れてきたはずの圭祐はどこなのだろう。すぐにまた緊張が走り、周囲を見回してみた。
 いた。
 香里から二十メートルほど離れたフェンス際に、圭祐は四つん這いの格好で動かなかった。だが、よく見てみるとその身体は震え、何か苦痛に耐えているかのようにも見える。どこか痛むのだろうか。
「矢代くん……?」
 圭祐は謎の宇宙生命体によって香里を狙う、いわば危険な存在になったのだが、それでも思わずクラスメートに対して声をかけていた。
 だが、圭祐からは何の反応も返ってこない。ただ、ジッとしているだけだ。
 香里は立ち上がると、心配になって圭祐の方へ近づこうとした。すると──
「ダメだ……こっちに来ちゃ……」
 圭祐は声を絞り出すようにして言った。
 苦しそうな圭祐の様子に、香里は益々、心配になった。だが、近づくなと言う。香里はどうしていいのか分からなくなった。
「矢代くん、どうしたの? どこか苦しいの?」
 香里の出来ることと言えば、その場から尋ねることぐらいだ。
 圭祐はチラリと香里の方を見たが、すぐに表情を歪め、顔を伏せてしまう。
「ダメなんだ……ボクは……ボクはもうボクではない……」
「そんな……」
 圭祐が言わんとしていることは、香里にも理解できた。圭祐は今、彼の裡にいるモノと戦っているのだ。
「ごめん……ボクは城戸倉さんを守りたかったのに……逆に苦しめるようなことをしてしまった……」
「それは矢代くんのせいじゃないわ。あの男の人……あの黒い服を着た人が仕組んだことよ。矢代くんは利用されただけだわ」
「形だけを見ればそうかもしれない……でも……でも、ボクは城戸倉さんを自分のものにしたいと思ってしまった……願っていたんだよ……城戸倉さんと殿村先輩との関係に嫉妬した……メチャメチャにしたかった……そして、奪ってしまいたかった……」
「そんなこと……そんなこと、誰だって魔が刺すことくらいあるわ」
「それでも……ボクはボクを許せない……大事な城戸倉さんをこんな目に遭わせた自分が……」
「………」
「ずっと城戸倉さんの味方のつもりだった……城戸倉さんのためにと頑張ってきたつもりだった……でも……でも……ボクが城戸倉さんを守ろうとしたのは結局、自分のためだったんだ……城戸倉さんに認めて欲しかっただけなんだ……ボクは自分勝手に城戸倉さんのことを考え、実際は城戸倉さんのためになることんなんてやっていなかった……最低だよ、ボクは……」
「イヤッ! そんなこと言わないで!」
「!」
 香里の叫びに、圭祐は顔を上げた。
 香里は涙を流していた。
「矢代くん……もう、あなただけなの……あなたしか私の味方になってくれる人はいないの……先輩は優しくしてくれたけど、心の中では冷たく私を突き放していた……でも、矢代くんは違う……違うと信じる……だって……だって、矢代くんは……」
「グッ!」
 突然、圭祐は胸を押さえて苦しみだした。これ以上、自分を保つのは難しそうだった。
「矢代くん!」
「城戸倉さん、逃げて……逃げてくれ……こ、これ以上は、だ、ダメ……だ……」
「で、でも……」
「ボクの中にいるヤツは、城戸倉さんを狙っているんだ……城戸倉さんさえ逃げてくれれば……」
 香里は逡巡した。圭祐が言っていることは分かる。香里の存在は彼を苦しめることしか出来ないのだ。
 しかし、ともう一人の香里が葛藤する。このまま圭祐を見捨てて行っていいのか。これほどまで香里のためを思って苦しむ彼に、香里は何も応えられないのか。今までなら殿村という存在が香里の中にあった。だから圭祐の好意に応えられない自分を正当化していた節がある。だが最早、香里の中に殿村はいない。ここで逃げ出したら、もう二度と圭祐と向き合えない気がした。
「私は……」
 香里は一歩、圭祐の方へ踏み出した。脚が震える。圭祐の中にいるモノに対し、恐怖を克服できたわけではない。それでも──
「私は、矢代くんを信じる……それがクラスメートへの……ううん、私を大事に思ってくれる人に対しての応え方だと思うから」
「き、城戸倉さん……」
「大丈夫だよ、私は矢代くんを信じているもの……きっと矢代くんは勝てるよ! 今までだって守ってくれたもん! 絶対、勝てるよ!」
「ぐああああっ!」
 圭祐はその場でのたうちまわり、胸をかきむしった。指がシャツの襟元にかかり、はずみでボタンが弾け飛ぶ。顔面は蒼白になり、口から舌を吐き出しながら苦しそうな呻き声を発した。
 明らかに圭祐は肉体を支配する“シーヴァリス”に抵抗し、拒否反応を起こしていた。このままでは圭祐の体が参ってしまう。最悪の場合、死に至る可能性もある。
 香里は自分の選択が甘かったと痛感するが、これは香里にとっても生きるか死ぬかの戦いだ。香里は圭祐を信じた。そして圭祐も香里のために、今戦っている。圭祐が負けた場合、それは香里の死をも意味し、二人が生き残るためには圭祐が“シーヴァリス”の支配を脱しなければならないのだ。ここで香里が逃げるわけにはいかない。
「矢代くん、頑張って!」
 目を背けたくなるような圭祐の苦しみを真正面から受け止めながら、香里は祈るように圭祐へ声を送った。



 カンナと鹿島は、周囲を影が覆うようになってきた森里高校に戻ってきた。圭祐が残していったものと思われる血痕は、予測通り校舎へと続いている。
「どうするよ、カンナ」
 昇降口まで来たところで、鹿島が問うた。
「とにかく城戸倉さんを助けないことにゃ、しょうがないでしょうが」
「しかし、すでに“シーヴァリス”の餌食になってるんじゃねえか?」
「……大丈夫、彼を信じるわ」
「信じるってお前……」
「すでに支配されているんだったら、とっくに城戸倉さんは殺されているわよ。だから、私は彼の中で葛藤があるのだと思うわ。まだ支配されていないのなら、助け出すチャンスはあるはず」
「なんか、お前らしくねえな」
「若いあの二人を見ていると、そう簡単に未来を悲観できないのよ」
「芝居のはずが、本物の教師になったつもりか?」
「私は反面教師にしかなれないわよ」
 カンナは自嘲気味に言うと、スカートの中からS&Wショーティー40を抜いた。学校の敷地内だが、もうそんなことを気にしている場合ではない。
「行くわよ」
 鹿島を促し、カンナは校内へと足を踏み入れた。
 血痕は廊下を横切り、階段へと伸びていた。カンナは階上を窺いながら、慎重に上がっていく。それから少し距離を置いて、鹿島が続いた。
 二階、そして三階。血痕はまだ階段に点々と残っている。この上は屋上しかない。
 カンナは銃を握る手に汗ばむものを感じながら、屋上へ出るドアの陰で一旦、呼吸を整えると、ゆっくりとドアノブを回した。
 耳障りな金属音を立てて、ドアは勢いよく開いた。と同時に飛び出し、即座に発砲の姿勢をとるカンナ。だが──
「………」
 屋上には誰もいなかった。
「どうした、カンナ?」
 安全な後方から鹿島が声をかけてくる。
 カンナはそれに応えず、銃を両手に構えたまま、屋上を調べ始めた。
 すぐに、これまで残されていた血痕よりも量が多い血だまりを見つけた。血だまりと言っても、そう深刻になるほどの量ではない。どうやら圭祐たちがここへやって来て、しばらくいたことは確かなようだ。
「おーい……」
 そっと鹿島が顔を覗かせてくる。すぐに誰もいないと知り、大きな体を外にさらす。
「逃げられたか」
 緊張感の抜けた声で鹿島は呟いた。実際、額には暑さからくるものとは違った汗が浮かんでいた。
 カンナは血痕の行方を目で追った。その先には、今、カンナたちが登ってきた階段とは反対側にある、北階段の出入口があった。あの中原怜子の事件が起きた階段である。
 カンナは北階段に向かって駆けだした。
 慌てて、鹿島も追おうとする。
「鹿島はそっちから回り込んで!」
 振り返りもせず、カンナの指示が飛んだ。
「OK!」
 鹿島は勢い余ってたたらを踏むと、すぐに取って返した。
 二人は近くにいる。直感がカンナにそう告げて、体内にアドレナリンが駆けめぐるのを感じていた。



「矢代くん、しっかりして!」
 香里は圭祐に肩を貸しながら、北階段を降りていた。
 苦しむ圭祐を見捨てるわけにもいかず、香里が下した判断は保健室に連れていくことだった。もちろん、それで圭祐の苦痛が和らげられるかどうかは疑問だが、救急車を呼ぶにしても、何か応急処置は必要だろうと考えたのだ。それに肩の傷のこともある。血に染まったシャツを見ると、なんとも痛々しく、止血せねばならないと思う香里であった。
 階段を二人で降りるのは、予想外の時間を要した。圭祐を最悩ませる苦痛は強くなるばかりで、歯を食いしばっても呻き声が漏れてくるほどだ。お陰で満足に歩くことも出来ず、圭祐の体重のほとんどを香里が支えるような状況だった。
 さらには香里にも問題があった。どうしても香里の中にいる“ディアブロ”の本能で、圭祐の“シーヴァリス”に恐怖を覚えてしまうのだ。今も香里の下腹部は痙攣しているような状態で、下肢に力が入らない。それでも踏みとどまるようにして圭祐を助けるのは、香里の一念の強さが打ち勝つ力を貸してくれるからだ。
 どうにかこうにか階段を降り、もうすぐ一階というところまで漕ぎ着けた。北階段から保健室まではそう距離がない。もう少しだった。そのとき──
「城戸倉さん! 矢代くん!」
 階上から声が聞こえた。カンナの声だ。
「先生? 一条先生?」
 香里は屋外プールから連れ去られたときに気絶してしまい、あれからカンナがどうなったか分からなかったが、どうやら無事で、しかも自分たちを追いかけてきたらしい。カンナが無事と言うことは、あの拳銃を持った年輩の男を取り押さえたか何かしたのだろう。これで助かる、と一瞬、香里はホッとした。
「うがっ!」
 タイミング悪く、圭祐が発作を起こした。彼の限界はピークに達していたのだ。理性が飛ぶ。香里の肩に爪を立てて、まるで吸血鬼のように圭祐が牙をむいた。
「イヤッ!」
 二人は揉み合うような格好になり、バランスを崩した。平衡感覚が消失し、浮遊感が襲う。
 一度、階段に身体を打ちつけると、あとは四肢の至る所に痛みが走った。止まる術もなく、階段を転げ落ちる。走馬燈でもないだろうが、香里の脳裏に中原怜子の顔が浮かんだ。それも香里に嫌がらせをしてきた陰惨な表情ではなく、恐怖に引きつった表情で。そう、落ちる瞬間、香里に見せたあの顔だ。
 香里と圭祐は一階の床まで転げ落ちた。身体がバラバラになったような痛みが、全身を走る。リノリウムの床は冷たかったが、全身は熱を発しているような熱さだった。
 痛みのせいなのか、割と香里の意識ははっきりしていた。痛む四肢を動かして、起き上がろうとしてみる。とりあえず動いたので、骨折とかはなさそうだ。
 そんな香里の耳に、キュッキュッという、何かを擦るような音が聞こえた。その音はゆっくりとこちらに近づいてくる。香里は首だけを動かして、その正体を確認しようとした。
「!」
 香里は信じられないものを見てしまった。まるで幽霊でも見たかのように大きく目が開かれる。いや、それは本物の幽霊だったのかも知れない。
「と……と、殿村先輩……」
 全身びしょ濡れ、脇腹と背中に銃創を負った殿村庸司だった。唇は紫色になり、顔色も死人のそれである。その異様な姿に、香里は身震いした。
「香里……」
 死人そのものであるはずの殿村から、唯一、生を感じられるのが眼だった。その意志の強さを反映した眼は、しっかりと香里を見据えている。その奥に殺意の炎が灯っていた。
「ボクのものにならないのなら……死んでくれよ、香里!」
 殿村は右手を挙げた。初めてその手に拳銃が握られているのが分かる。おそらくパシフィックの男がカンナに弾き飛ばされたものを拾ったのだろう。
 殿村はパシフィックの企みに利用されたのが許せなかった。殿村としては自分が利用するつもりだったのだ。“ディアブロ”を取り込んだ“シーヴァリス”から肉体強化の薬を抽出し、それを使ってオリンピックで金メダルを獲得する計画だった。それが、ただのダシに使われただなんて。そんなことはあってはならなかった。自分は選ばれた人間だ。近い将来、バタフライの世界記録を塗り替えるべきヒーローのはずだったのだ。それがこんなところで終わるとは……。かくなる上は香里にも死んでもらうしかない。香里の“ディアブロ”を使って研究を成功させ、それをまた他の人間が使うなど殿村のプライドが許せなかった。
「死んでしまえ!」
 殿村は引き金を引いた。
 香里は目をつむることしかできない。
 だが、それよりも数瞬早く、圭祐が起き上がり、香里の盾となった。
「香里ーッ!」
 圭祐が初めて「香里」という名を呼んだ。
 銃声が轟く。一発、二発……。
 血しぶきが上がった。
「矢代くーん!」
 香里の悲痛な声。
 それでも連射は止まらない。殿村の顔は狂喜したものとなり、尋常さを失っていた。
 圭祐は身を挺して香里を守りながら、倒れまいと脚を踏ん張らせた。これが香里にしてやれる最初で最後のことだと信じて。
 やがて弾倉が尽きた。それでもなお、引き金を引き続ける殿村。
 圭祐は膝から崩れ落ちた。
 放心状態に陥りそうな香里だったが、すぐに抱き起こそうとする。
「いやーっ、矢代くん、死なないで!」
 自分も血塗れになるのもかまわず、香里は圭祐の身体を揺すった。五、六発は受けたはずだ。出血もおびただしい。
 虫の息の圭祐の唇が微かに動いた。聞き取ろうと香里が耳を近づける。
「なに、なんなの、矢代くん?」
 だが、もう言葉にならない。香里は圭祐の手を握ったが、それを握り返す力もなかった。
「はは……は、はははははっ!」
 突然、殿村が笑い出した。弾切れの拳銃を放り捨てる。そして、圭祐を指さした。
「見ろ! そんなヤツに何が出来るって言うんだ! やっぱり選ばれるべき人間はボクだったんだ! こんな弱っちいヤツに、ボクが負けるわけがない!」
 香里は涙を流しながら殿村を睨みつけた。
「あなたは弱い人間よ! 自分のことしか考えられない弱い人間よ! 矢代くんは……矢代くんは、私を守ろうとしてくれた……。あなたに出来る? あなたにこんなことが出来るって言うの? 他人を守ることも愛することも出来ないあなたなんて、最低よ!」
「黙れ! 弱者の言葉などに耳を貸すものか! 勝てばいいんだ! 勝てば全てを手に入れられる!」
「そんな他人から略奪したものを手にして、自分のものだと言えるの?」
「ボクは今までそう教わった! そう信じた! そうしてきたんだ!」
「悲しいヒト……いつまでも満たされない欲望に支配されて……ヒトは人同士が補って生きていくからこそ幸せをつかめるのに……」
「それが弱者の考え方なのさ! 強い者は独りで生きていける!」
「真に強い人とは、弱い人のことを考えられる人のことよ!」
「まったく、娘さんのおっしゃることはもっともですな」
 唐突に横から会話に割り込んできた。廊下の角から現れた人物──それは屋外プールでも現れたパシフィックの手の者だった。逃げたのではなかったのだ。
「あなたは!」
「仕事も終えぬうちに帰るわけにもいかないのでね」
 男はそう言いながら、殿村が投げ捨てた拳銃を拾い上げた。香里も殿村も呆然とそれを眺めるだけだ。
「どうやら人選を間違ったようだ。彼がここまで強固な精神の持ち主だったとはね。未だに二人一緒にいて、娘さんが無事でいるのが信じられんよ」
 喋りながら空になった弾倉を抜き、新しいものと交換する。
「そしてキミもだ。とっとと退場してほしかったのだが、余計な手間をかけてくれる」
 男は殿村に銃口を向けた。躊躇なく引き金を引く。
 銃声と共に、殿村の脳漿が飛び散った。人形のような無機質さで、廊下の床に倒れ込む。
 元恋人の死に、香里は口許を押さえ、目を閉じるしかなかった。
「城戸倉さん!」
 頭上から女の声がしたのは、その刹那。カンナだ!
 男は階段の方へ銃を向けたが、またしても不意をつかれる格好になった。一瞬早く、カンナのS&Wショーティー40が火を噴く。
「がっ!」
 屋外プールでの再現を見るかのように、男の拳銃は弾き飛ばされ、窓から外へと消えていった。
「今度も私の勝ちのようね」
 男の胸に銃をポイントしながら、カンナはゆっくりと階段を降りてきた。
「先生! 矢代くんが、矢代くんが……」
 顔をクシャクシャにしながら香里が訴えた。男から注意を逸らさず、圭祐の様子を一瞥する。
「矢代くん……」
 カンナが見ても、圭祐が重傷であるとすぐに分かった。このままでは死んでしまう。
「とにかく救急車を。──ああー、鹿島のヤツ、何をしてるのよ!」
 自分で反対側から回しておいてよく言う。
 男はカンナの隙を窺っていた。武器は失ってしまったが、彼にはまだ奥の手があるのだ。それは危険な賭けだが、どのみちカンナにつかまってしまえば半永久的に刑務所暮らしになる。それよりは──
「おーい、カンナ! どこだ?」
 遠くから鹿島の声が聞こえた。
「こっちよ! 鹿島、急いで!」
 カンナは位置を知らせようと大声を張り上げた。わずかに銃口が下がる。
 男はそのチャンスを見逃さなかった。
「!」
 カンナの一瞬の油断を突かれた。男は身を翻すと、一番近い教室へと飛び込み、姿を隠した。
「往生際を!」
 すぐさま、その後を追うカンナ。だが、すぐには飛び込まない。まだ武器を所持している可能性も考えられるからだ。
 入口脇に背中をついて立ち、そっと中を覗き込む。男は……いた!
「これで形勢逆転だよ!」
 男は懐から取り出したプラ・ケースから、注射器を手に取った。中には毒々しい緑色の薬が入っているのが見える。
「それは!」
「パシフィックは“シーヴァリス”の培養に成功してね。病院で彼に注入したのもこの一本さ!」
「させるもんですか!」
 カンナは男に向けて発砲した。それを横っ跳びでかわしつつ、男は自らの腕に注射針を突き立てる。それが意味するものは──
「自ら“シーヴァリス”になるなんて!」
 緑色の液体が男の身体に注入される。男の瞳孔が開くのを確認できた。
 カンナは続けざまに発砲した。ところが、男の動きは尋常ではなかった。机の間を縫うようにして走り、狙いをつけさせない。
「冗談! 即効性なの?」
 軽口が叩けるのもそこまでだった。男は教室のイスをつかむと、カンナめがけて投げつけた。
「ちっ!」
 カンナは慌てて、廊下に身を引っ込めた。廊下に飛び出したイスは、壁に当たってバラバラになる。あんなのに当たったらただではすまない。
「はっはっはっはっ! 素晴らしい! これほど肉体が充実したのは久しぶりだよ!」
 男は自分の身体の変化に手応えを感じると共に、喜びを感じていた。いくら鍛えた肉体とは言え、年々、衰えは否めない。それがどうだ。十代や二十代にも感じたことのない力のみなぎり、軽快さ、思考能力の明快さと、どれを取っても最高のものを今、手に入れたのだ!
「まずいことになったわね」
 カンナは唇を噛んで、逆転の方法を模索した。ヤツの狙いは間違いなく香里だ。それに“シーヴァリス”の特徴は、普段は大人しく、獲物を追うときにのみ凶暴になる点だ。得策は香里を“シーヴァリス”から引き剥がすこと。
 カンナはチラリと香里を見た。香里は未だに圭祐に付き添ったままだ。あの分では、圭祐を置いて逃げると説得できるものかどうか。
 カンナが思案していると、教室のドアが吹き飛んだ。なんという馬鹿力!
 その隙をついて、死角から男の腕がカンナの喉元に伸びてきた。
「しまった!」
 危うし、一条カンナ!


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