「ねえ、ま〜だぁ?」
ケンカをしながらも、アヤネは案内されるまま、松吉と名乗る男の子の家へ向かった。
だが、二人が出会った坂時駅──いや、駅は消えてしまったのだが──から、かれこれ二十分。アヤネは履き慣れないミュールのせいで砂利道を歩くのに疲れ、おまけに夏の日射しが肌をじりじりと焼いて、喉がカラカラになっていた。松じいちゃんなら、オンボロの軽トラックで迎えに来てくれたはずで、こんなに歩かずに済んだはずだ。思わずぼやくような調子で、アヤネは松吉に尋ねた。
「もう疲れたんか? だらしねえなあ。ウチならもうすぐさ。あのケヤキの木の所まで行きゃあ見えてくる」
松吉に言われ、アヤネは顔を上げた。二百メートルくらい先に一本の大きなケヤキの木が立っている。アヤネはそのケヤキの木に見覚えがあった。
(あれって……)
松じいちゃんの家へ行く途中にも、大きなケヤキの木があった。そこから道は下り始め、五十メートルほど行くと松じいちゃんの家があるはずである。そのケヤキの木と目の前のものは非常に似ていた。
(やっぱり、ここは坂時村……)
そう思うと、アヤネたちが今まで通ってきた道も、なんとなく見知ったもののような気がしてきた。ただ、周りの景色は少し違っていたが。
しかし、そうだとすると、松吉の言葉はおかしくなってくる。彼は自分の家に案内すると言っていた。だが、坂時村の家々は点在するように建てられていて、たとえお隣さんであっても平気で百メートル以上離れているのがざらだ。松じいちゃんの家の周囲も畑と林があるだけで、一番近い隣家までかなりの距離がある。ケヤキの木の所から、そんな家が見えた憶えはない。
アヤネは先を歩く松吉とケヤキの木を交互に見やりながら、一体どういうことなのか首を傾げた。
「着いたさ」
不意に松吉が立ち止まって、後ろにいるアヤネに言った。アヤネは眼下にぽつりと建っている家屋を眺めて、呆然とする。
「やっぱり……」
アヤネの予想は正しかった。松吉が案内したのは、今どき珍しい茅葺き屋根の小さな家──それは松じいちゃんの家だった。
アヤネは目の前の少年が何者なのか、改めて観察するように見つめた。
だが、松吉もまた、何かに驚いたように立ちすくんでいた。そして、慌てて後ろを振り返り、また家を見る。まるで道を間違えたかのように。
「どうしたの?」
「な、何でもねえ。い、行くぞ」
アヤネに尋ねられた松吉は気勢を張るように言い、また歩き始めた。だが、松吉の様子は明らかにおかしい。歩きながら、身をかがめるような格好をして、松じいちゃんの家を窺う。そうかと思うと、松吉はいきなり坂の途中から走り出し、昼間は開けっ放しになっている入口に飛び込んでいった。
「おっかあー! おっかあー!」
松吉が呼ぶ声は、アヤネの耳にも聞こえてきた。不安そうな声だ。
だが、アヤネはすぐに松吉の後を追わなかった。外からゆっくりと目の前の家屋を観察する。間違いない。それは昨年の夏に訪れたときと変わらぬ松じいちゃんの家だった。
普通なら年代物の軽トラックもあるはずだが、今は松じいちゃんがどこかへ乗って行ってしまったらしい。だが、どうやら松じいちゃんの家に辿り着くことが出来て、アヤネはホッとした。一時は見知らぬ野原に放り出され、どうなるかと思ったが。
「おっかあー! どこ!?」
中ではまだ松吉が母親を捜していた。
アヤネはようやく家の中に入った。
家の中もアヤネが見知っているものだった。上がってすぐに囲炉裏のある板の間。奥に松じいちゃんが寝起きしている畳の間。板の間には天井へ梯子が伸びていて、屋根裏部屋に通じている。夏休みにここへ来ると、この屋根裏部屋は必ずアヤネの部屋になるのだ。アヤネ本人も「アルプスの少女ハイジになった気分」と気に入っていた。
松吉は上がりかまちに虫取り網と虫かごを置いて、畳の間まで上がり込み、母親を捜していた。だが、母親からの返事はない。家の中はアヤネと松吉の二人がいるだけ。
母親を呼び続ける松吉を見ながら、アヤネはひとつ大きな息をついた。
「ねえ、松っちゃん。本当にここはあなたの家なの?」
そう問われ、松吉の顔がサッと強張った。松吉も何か違和感を感じているのだ。今やアヤネと松吉の立場は逆転していた。
「そんなはずはない……そんなはずは……」
松吉はうわごとのように呟くと、やおら思い出したように板の間の梯子を登り始めた。屋根裏部屋に姿が消えた途端、松吉の大きな声。
「なんや、これはー!?」
アヤネは何事かと思い、自らも梯子を登った。
屋根裏部屋には、多くの段ボール箱が運び込まれていた。事前にアヤネが送っていた物だ。松吉はそれらを目の当たりにして、狼狽しているように見えた。
「オラの部屋が……」
松吉はいきなり段ボール箱の一つに飛びつくと、おもむろにガムテープを剥がし始めた。中を覗き込んだ松吉が手に取った物を見て、アヤネが慌てる。
「わ、私のブラジャー!」
だが、松吉はそんなものに興味はないといった様子で、ぽいっとアヤネのブラジャーを放り投げた。ブラジャーは運悪く、梯子がかかっている入口の穴に落ちてしまう。アヤネは手を伸ばしたが、間に合うはずもない。
「もお、何するのよぉ」
アヤネは頬を膨らませて松吉に抗議した。だが、松吉はそんなことお構いなしに、次々と梱包を破っては、段ボールの中身を確かめていた。
人の荷物を勝手に開ける松吉に腹が立ったアヤネであるが、所詮は子供のやること、目くじらを立てることなく、どのみち、荷ほどきをしなければいけなかったのだから、その手間がはぶけたと思うことにした。
「あまり散らかさないでよね」
アヤネはそう注意すると、落ちたブラジャーを拾いに、板の間へ降りていった。
だが、次の瞬間──
「キャーッ!」
アヤネの悲鳴が家中にこだました。