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坂時村

−5−

 走りづらいミュールを履いていたこともあって、アヤネはなかなか松吉に追いつくことが出来なかった。五十メートル以上先に小さな背中が見える。アヤネは松吉の名を呼んでみたが、聞こえているのかいないのか、どんどん走っていってしまう。松吉を呼び止めるのは、もう無理かと思った。
 だが、アヤネはそれでも走り続けた。松吉に確かめたいことがある。どうして松吉は、自分の家だと言って松じいちゃんの家に案内したのか。誠治が言うように、ウソをついたとは思えない。松吉は間違いなく、自分の家にアヤネを連れてきたつもりだったのだ。それがなぜ。
 アヤネはふと、松じいちゃんが坂時村について言っていた言葉を思い出していた。
『時間がゆっくり過ぎていくところだ。時に、遅れすぎることもあるくらいにな』
 時間が遅れすぎると言うのは、どういうことだろうか。
 坂時村。
 遅れる時間。
 祖父と同じ名である男の子“松吉”。
 そして、消えた駅舎と昨年とは違う風景。
 アヤネの頭にひとつの答えがひらめきかけた。
「おい」
 いきなり背後で声がして、アヤネはビックリした。振り向くと、それは追いかけてきた誠治だった。
 まじまじと顔を見つめてくるアヤネに、誠治は気まずそうにそっぽを向いた。
「別に気になったわけじゃねえからな。ただ、どこのガキか確かめたくなっただけさ」
「ふ〜ん」
「ゴホン! ──それよりいいのか、見失っちまうぜ」
 考え事と誠治のせいで、アヤネのスピードは若干落ちていた。松吉に水をあけられてしまっている。道はほとんど一本道だが、日没が近く、松吉の背中は見えにくくなっていた。このままでは誠治が言うように、見失ってしまいそうだ。
 アヤネは返事をする代わりに、スピードアップさせた。誠治もそれに続く。
 だが、それから少しも走らないうちに、アヤネの後ろから誠治が声をかけてきた。
「なあ、おかしくねえ?」
「何が?」
 いきなり何を言い出すのかと、アヤネの返事には苛立ちが含まれていた。しかし、誠治は続ける。
「いや、周りの景色さ。まだ収穫前だってのに、まったく野菜が出来てない──と言うか、畑じゃなくて、まるで荒れ地だ。こりゃ、一体、どういうこっちゃ?」
 それはアヤネが松吉に案内されているときに感じた違和感と同じだった。あのときは、一年ぶりに訪れたせいで、単純な勘違いか、たまたま農業をやっていた人が畑をやめてしまったのかと思ったが、ずっと坂時村に住んでいる誠治が言うのだから、いつもの景色と違うのだろう。だが、それが意味するものとは何なのか。
「畑ばかりじゃねえ。田尻さんの家も、牧さんの家もねえ。──おい、アヤネ。まさか、あのガキ、天狗の小僧とかじゃねえだろうな?」
 坂時村には、昔から神隠しがあると言われている。それが山に棲む天狗の仕業だと信じられているのだ。何人かは無事に戻ってきたらしいが、皆、口々に「坂時村に似た別の村に行って来た」と言い、そこが天狗の里だとされてきた。誠治は迷信だと思いつつ、今まさにその天狗の里に迷い込んだのではないかと不安になったのだ。
 ここが天狗の里かどうかはともかく、すべての答えは前を行く松吉が握っているようにアヤネには思えた。または松吉に行き先に。そのためには、松吉に追いつかなくてはならない。
「ムダ口叩いてないで、ちゃんと走りなさいよ!」
「わ、分かってらぁ!」
 アヤネの叱咤に、誠治は不安を振り払った。ひとつ年下とは言え、一応は男である以上、アヤネに弱みは見せられない。
 それから二人は黙々と走り続けた。夕陽はあと五分もすれば完全に沈んでしまうだろう。そうなれば、まともに外灯も立っていない村は暗闇に包まれる。ほとんど一本道とは言え、足下が見えなければ立ち往生だ。懐中電灯のようなものは持ってきていない。二人は次第に焦り始めた。
 すると、突然、前方がぼんやりと明るくなり始めた。いや、前方ばかりではない。その明るさはアヤネたちを中心にして、ぐるりと取り囲んでいた。といっても、その距離はかなり離れていて、むしろ坂時村をすっぽりと覆っていると表現した方が正しいかも知れない。
 その明かりは、まるでオーロラのように、空からたなびく光のカーテンとなって揺らめいていた。不思議な光景に、思わずアヤネと誠治の足が止まる。空を見上げながら、二人は息を呑んだ。
「な、何だ、こりゃ?」
「きれい……」
 夜になろうとしていた空は、光のカーテンのおかげで、今少しの猶予を与えられたようだった。この神秘的な現象に、時が止まったような錯覚さえ覚える。
 だが、光のカーテンを眺め続けていると、それが少しずつ変化していることが分かった。光のカーテンはかなり早いスピードで、その輪を縮めているのだ。最終的にどこまで狭まるかは分からないが、それは何かのタイムリミットを表しているように感じられ、アヤネたちの心は急いだ。
 アヤネは光のカーテンから前方の松吉に視線を移した。松吉も空の異変に驚いた様子で立ち止まっている。アヤネは思わず声を上げた。
「松っちゃーん! 待ってー!」
 アヤネの声に松吉はびくりと体を震わせ、こちらを振り返ったが、おもむろにまた走り出した。隣にいた誠治が思わず苦笑する。
「逃げやがったぜ」
「アンタのせいでしょうが!」
 アヤネは再び追いかけようと駆け出した。だが、三歩も行かぬうちに、派手に転倒してしまう。
「おい、アヤネ! 大丈夫か!?」
 誠治が血相を変えて、アヤネを心配した。
「いちちちち……」
 さすがに泣きはしなかったが、涙が出そうなくらいの痛さにアヤネは顔を歪めた。見ると右脚のミュールの細いバンドがちぎれ、脱げてしまっている。ずっと走りづめで、耐えきれなかったのだろう。
 転んだ拍子に、アヤネは膝も擦り剥いてしまっていた。血がにじみ出ている。これでは再び走ることは困難だろう。痛みもさることながら、これで松吉を追いかけることが出来なくなってしまった悔しさに、アヤネは唇を噛んだ。
「大丈夫か?」
 誠治はかがみ込み、ケガをしたアヤネの膝に自らのハンカチを巻いた。思いもかけない行為に、アヤネは気恥ずかしさに顔を赤くしてしまう。だが、それだけではなかった。手早く応急処置を終えた誠治は、しゃがんだ姿勢のまま、アヤネに背中を向ける。
「え?」
 アヤネは戸惑った。誠治が何を言わんとしているかは分かったが。
「乗れよ。おぶってやっから」
「で、でも……」
「早くしろ。あいつを見失っちまうぜ」
 逡巡しているアヤネを誠治は急かした。やむを得ず、アヤネは誠治の背中におぶさる。どっこいしょ、と大袈裟なかけ声をかけながら、誠治は立ち上がった。
「うひゃー、重いなぁ、お前!」
「バカ」
 アヤネは後ろから誠治の坊主頭を小突いた。半分は照れ隠しだ。誠治は笑う。
「じゃあ、飛ばすぜ!」


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