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坂時村

−6−

 誠治は駆け出した。アヤネを背負いながらだからスピードは出せないが、歩くよりは速い。歯を食いしばって、懸命に走った。
 一方、逃げている松吉はさすがに体力的にきつくなったようで、今は歩いているような状態だった。これならアヤネを背負った誠治でも追いつけそうだ。光のカーテンによって照らされた道を、息を弾ませながら駆けた。
 おぶさっているアヤネにしてみれば、文句が言える立場ではないのだが、乗り心地は最悪だった。上下に激しく揺れ、気をつけないと危うく舌を噛むところだ。それでも、いつの間にか男らしくなった誠治の大きな背中に感心する。昔はアヤネよりも背が低く、力もなかったはずなのに。
 やがて、アヤネたちは野原へと出た。松吉とアヤネが出会った場所だ。周囲の様子に、息も絶え絶えながら、誠治が驚く。
「ど、どうなってんだ? 坂時駅がなくなっちまっている……」
 今さらアヤネに驚きはなかったが、地元の誠治が絶句しているのを見ると、やはり只事ではない何かが起きているのだと確信できる。もっとも、それが何であるのかまでは、今ひとつ、理解できていないのだが。
「おっかあ!」
 松吉の声がして、ハッとさせられた。見ると、野原の真ん中に一人の女性が立っていて、松吉が泣きながら駆け寄っていく。女性はTシャツにジーンズ、スニーカーと、非常にラフな格好だったが、年の頃は三十半ばくらいではなかろうか。優しそうな微笑みが松吉を迎えていた。
「おっかあ!」
 松吉はもう一度、女性をそう呼ぶと、ジャンプするように飛びついた。女性はそれをしっかりと抱き留める。母子。松吉が母親に会えたのを見て、何だかアヤネの方までホッとしてしまった。
「ああ、もおダメだああああっ!」
 そんな感動的な場面を台無しにするかのように、誠治が膝から崩れるように潰れた。さすがにアヤネを背負っての強行軍はつらかったのだろう。松吉親子の二十メートル手前で力つきた格好だ。アヤネは誠治の背中から降りながら、心の中で感謝した。
 ふと、松吉とその母親に視線を戻すと、母親がこちらへ頭を下げているのが見えた。アヤネも思わず会釈を返す。すると松吉の母親の胸に何かが光っているを見つけた。
「あれは──」
 それは大きな丸いサファイヤのペンダント。見覚えがあった。
「お母さん?」
 アヤネは女性の顔をまじまじと見つめ、そして、ポケットのペンダントを握りしめた。母親の形見。もう一度、女性の顔を見た。
「違う……私だ」
 目の前の女性は、おそらく二十年後くらいのアヤネだった。二十年後のアヤネは、それを裏付けるかのようにうなずいて、微笑んだ。となれば、松吉は──
 光のカーテンは、いつの間にか、すぐそこまで近づいていた。どうやら、この野原が中心点らしい。輪の大きさは見る間に縮まった。
 光のカーテンが通過したところは、野原が跡形もなく消え、代わりにアヤネが見知った坂時駅の駅前が、線路が、佐々木商店が、バス停が出現した。元に戻っているのだ。一方、光のカーテンの内側だけ、野原が存在している。ひょっとすると、それが二十年後の坂時村なのかも知れない。
 二十年後のアヤネは松吉を抱きしめながら、何かを言った。だが、残念ながらアヤネには聞こえない。アヤネと誠治の体は、すでに光のカーテンの外へと出てしまっていた。
「え? 何? 何を言っているの?」
 何か伝えたいことがあるのかと思い、アヤネは大きな声で尋ねた。しかし、こちらの声も向こうへ届いているかどうか。
 再び二十年後のアヤネが何かを言った。唇の動きは──
 アヤネは大きくうなずいた。そして、心底からの笑顔を二十年後の自分へ向ける。手を振った。そして、感謝する。
「ありがとう!」
 二十年後のアヤネも手を振ってくれた。顔を埋めていた松吉もこちらを振り返る。
「ありがとう! ありがとう!」
 アヤネは脚が痛むのもいとわず、体いっぱいで感謝の意を表した。光のカーテンが一筋の明かりとなり、やがて二人の姿が消えるまで。


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