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バルバロッサの居城の中には、見張り台の出入口より侵入した雨水が流れ込んでいた。通路は川のようになり、常駐の兵たちは真っ暗な闇の中、水をかき出す作業に忙殺されている。たいまつを灯しても、どこかより染み出してくる雨水によって消されてしまうのだ。いかなる外敵も寄せ付けぬ堅牢な城も、この地方としては稀なる大雨に容易い侵入を許していた。だから、兵たちの作業はなかなか進まず、疲労ばかりが募る。
そのような喧噪の中、別の闇の中では静かに動き回る人影があった。人影と言っても闇と同化しており、その姿を見ることは出来ない。もしも夜目の利く人物が見ることが出来たら、それは何かを探しているように見えたことだろう。
だが、室内が真っ暗にも関わらず、探し回る人物の動きに躊躇は見られなかった。まるで暗闇の中でも目が見えるかのようだ。石造りの壁を撫で回すように探っている。
ふと、手の動きが止まった。
部屋の外から激しい水音が近づいてくるのが聞こえた。何者かが水浸しの通路を駆けてくるのだ。同時に怒声もする。どうやら城の兵士たちが、新しい雨水の浸入を発見したらしく、その現場に駆けつけようとしているらしい。その証拠に水音は近くなった後、次第に遠ざかっていった。
すると再び闇の中の人物の手が動き始めた。少しの異変も見逃さぬよう、慎重に、そして素早く。
息も止まるような長い時間の後、闇に蠢く人物の指先が、わずかな隙間を見つけて止まった。石と石との境目ではない。もっと作為的なものが感じられた。現に隙間は縦一直線に走っており、床にまで達している。逆に高さは手が届かないほど。おそらくは天井まで続いているのだろう。
指はそれを確認すると、今度は隙間の近辺を重点的に探り始めた。ただでさえ石の凹凸に惑わされそうだが、闇の中の人物はこれまでと変わらぬ、慎重で、根気を要する作業に没頭し続けた。
さらにどのくらいの時間を要したか。
壁の隙間からさほど離れていないところの石で手を止めた。例え部屋に明かりがあったとしても、一見しただけでは分からなかっただろう。それくらいの微妙さであった。
闇の中の人物は初めて深く呼吸すると、その手で壁の石を押した。石は重い手応えを残しながら埋没していく。同時に、どこかでガラガラという機械的な音がし、石壁の隙間が広くなり始めた。それは隠し扉が開いていると表現した方がふさわしいだろう。
隠し扉は重々しく、ゆっくりと開いた。だが、それが開ききるまで、闇の中の人物はじっと待っていた。その中に身を滑り込ませることもしない。まるで何かの歓喜に耐えているかのようだ。
完全に隠し扉が開ききると、これも仕掛けの一つなのか、隠し部屋の壁面に火が灯った。ボーッと中を照らし出す。
そこでようやく隠し扉を開けた人物の顔も浮かび上がった。浅黒い肌をした、屈強な体格の大男である。口の周りには髭をたくわえ、眼ばかりが野獣のようなぎらつきを放っていた。貴族らしく金の刺繍の入った絹製の衣服を着ているが、そこからはみ出した腕と脚はまるで丸太のように太く、殴られたりすれば無事では済まないだろうと思われる。そのような荒々しさを持った偉丈夫だった。
その大男の顔が、やや狂気めいた笑みを浮かべた。隠し部屋の中に目的のものを見つけたのだ。
そこは殺風景な小部屋だった。正面の床に置かれた木箱が一つだけ。しばらく開けなかったせいか、埃くささが鼻をつく。
それにも意を介さず、大男は小部屋に足を踏み入れた。目的のもの。それは一つの粗末な木箱の他にあり得なかった。
大男は膝をつくと、木箱の蓋に手を伸ばした。小脇にでも抱えられそうな小さな箱である。そっと蓋を取った。
大男の眼がさらなる光を宿した。
箱の中のもの──それはひと振りの手斧であった。
その手斧は刃から柄まで、黒光りする金属で出来ていた。唯一の特徴は、刃の真ん中に飾りとして用いられた血のように赤い宝石で、さらにその中央には黒い斑点のようなものも認められる。それはまるで邪悪な眼のように大男の方を睨んでいるようにも見え、普通の手斧とは、到底、思えない品であった。
大男は不敵な笑みを漏らした。全身から滲み出る愉悦をこらえきれないといった感じだ。
大男は手斧に手を伸ばした。
その瞬間、手斧の赤い宝石が妖しく光った気がした。
すると、それに気を取られたせいか、伸ばした大男の指が手斧の刃に触れ、傷をつけていた。血が滲み出す。
大男は少し驚きの表情を作った。手斧を手に取るのに、わざわざ刃に手を伸ばす者はいない。大男も確かに柄へ手を伸ばしたつもりだった。それが……。
手斧の刃に付着した血。それを大男は凝視した。
血は刃に沿って流れた。それは自然にと言うよりも、まるで血が生き物のように動いたと言った方が正しいのかも知れない。その血がスーッと消えた。まるで手斧の刃に吸われたかのように。
同時に、手斧の赤い宝石が明滅したように見えたのも気のせいだったろうか。
大男は、すぐにまた満面の笑みを作った。まるで期待が現実になったことを喜ぶかのように。
再び手斧に手を伸ばし、今度こそ大男は柄を握った。持ち上げてみる。
見るのも手にするのも初めてだというのに、不自然なくらい、手に馴染む感触だった。もう、この手斧は大男のものなのだ。それは手斧自体が持ち主を選んだ証拠でもあった。
大男の全身の筋肉が震えた。
さあ、最初の犠牲者は誰だ。この手斧の餌食になる者は……。