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見たこともない巨大な回廊に、レイフは圧倒されていた。
まるで巨人の世界に迷い込んだようだった。天井の高さも、両脇に並ぶ柱も、桁違いの大きさである。回廊の先はどこまで続いているのか見通すことも出来ず、ただ真っ直ぐに伸びていた。
回廊そのものは不思議な明かりで照らされていて、地下室の隠し通路から、ずっと闇の中を進んできたレイフをホッとさせた。だが、ここで追っ手が迫ってきたら姿が丸見えになってしまう。念のため、回廊の端を歩くようにし、柱に隠れながら進んだ。
それにしても、地下にこのような巨大な回廊が存在することに驚嘆を禁じ得ない。レイフもセルモアの伝説については知っているが、これまで遺跡の入口すら発見されておらず、眉唾物だと思っていた。だが、こうして目の当たりにすると、伝承にあるように、今も古代魔法王国の末裔たちが空をさまよっているという話を、つい信じてみたくなる。
この回廊が天空人の残した遺跡であるとすると──もっとも他に考えられるような説明はないのだが──、各地に点在する遺跡同様、侵入者を阻む罠が仕掛けられているかも知れないと思い至り、レイフはこれまで以上に注意深く進むことにした。ただ、普通の騎士であるレイフには遺跡の探索者のような経験はなく、どんなものが待ちかまえているのか想像もできない。
レイフの足は、自然に遅くなった。
緊張と注意力の持続、そして変わり映えしない回廊の様子に、レイフは精神的な消耗を強いられた。それはやがて体力面にも及び、疲労が思考を鈍らせ始める。これを解消する良策は休息を取ることだ。幸い、追っ手はこの回廊まで侵入していないらしく、後方を気にする必要はなさそうだった。
レイフは一休みしようかと考え、立ち止まった。
「?」
突然、周囲の様子が一変し、レイフは身構えた。回廊の壁が一面、鏡張りになったのだ。両側の壁ともなので、レイフの姿は合わせ鏡の中に幾重にも映し出されている。たった今まで、普通の石壁だったはずだ。それが、なぜ。
レイフは、いよいよ遺跡の罠が作動したに違いないと確信した。しかし、これがどのような意味を持つのか分からない。
とりあえず鏡の近くにいては危険だろうと、回廊の中央まで移動しておく。前後の鏡は、そんなレイフの姿を捉えていた。
巨大な合わせ鏡に映し出された回廊は、眺めていると妙な感覚に陥ってくる。どこまでが現実の回廊で、どこからが鏡の中の世界なのか。小さく映るレイフの姿もまた、気が遠くなるような彼方にまで存在し続けていた。
レイフは魅入られたように合わせ鏡を見つめた。
すると鏡の中に、奇妙なものが見え始めた。人の顔だ。もちろん、レイフの顔ではない。見知らぬ男の顔。顔は他にも浮かび上がった。
次第に顔ばかりでなく、全身が映り始めた。服装は様々だが、圧倒的に男が多く、子供や老人の姿はない。共通点は剣などの武装を身につけていること。そして、その表情。皆、恐怖に目を見開いている。
そして、何より不思議なのは、鏡の中の人物たちはまるで宙を漂うかのように、床から足が離れていたことだろう。これは一体、どういうことなのか。
突如、鏡の中の光景に赤い手が現れた。それは人間の両手のように見えたが、その長さは尋常でない。大蛇も及ばないような長さであった。それが鏡の中のレイフに伸びる。
鏡の中のレイフが首をつかまれた瞬間だった。実際の首筋に、猛烈な圧迫感が加えられる。誰かに首を絞められていた。
「がっ!」
思わず舌を吐き出すほどの握力だった。爪が首の皮膚に食い込み、痛みを伴う。レイフは振りほどこうと試みた。
「!?」
だが、首を絞める手に触れることが出来なかった。首には何もなかったのである。しかし、明らかに首は恐ろしいほどの力で今なお絞められ、鏡にも赤い両手が映っていた。
レイフは必至にもがいたが、幻の赤い手から逃れることは出来なかった。
すると今度は、見えない両手に首を絞められながら、後ろへ引っ張られる感じがし、レイフはその場に踏ん張った。だが、抗うと首を絞める力が、益々、強くなり、意識が薄れていく。するとまた後ろへ引きずられた。
薄れゆく意識の中で、レイフは考えていた。ひょっとすると幻の赤い両手は、自分を鏡の中に引きずり込もうとしているのかも知れない。きっと鏡の中に映っている、あの大勢の人たちは、かつて遺跡の探索でここを通ろうとして、今のレイフのように捕まったのだろう。これは侵入者を永遠に鏡の中に閉じ込めておく罠なのだ。
しかし、それが分かったところで、この幻の赤い手から逃れる術を見つけたわけではない。このままでは鏡の中に引きずり込まれるのが先か、絞め殺されるのが先かの違いだけで、お釈迦になるのは確実と言えた。第一、鏡に映っている赤い両手に触れないのでは対処のしようがない。
(鏡に映っている赤い両手……?)
実体のない赤い両手。
その一方で、鏡に映し出された赤い両手。
「!」
レイフの頭に浮かんだ考えが正しいかどうか、そんなことを問うている場合ではなかった。もう、限界だ。
レイフは持てる全ての力を振り絞って、手にしていた剣を放り投げた。赤い両手が映った正面の鏡に向かって。
ガシャァァァン!
剣は正面の鏡に達し、派手な音を立てて破壊された。それも連鎖的に、壁一面の鏡全てを粉々にする。大小さまざまなガラスが飛び散り、回廊の床に降り注いだ。
その瞬間、レイフの首は幻の赤い両手の力から開放されていた。呼吸が楽になり、苦しそうに咳き込む。
レイフの考えは正しかった。鏡に映った赤い両手は、その鏡を破壊することによって無力化できたのである。気づくのがもう少し遅れれば、剣を投げても届かなかっただろう。
九死に一生を得たレイフは床に寝転がると、胸を大きく上下させながら、空気を肺に送り込んだ。