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さわやかな夜風が窓からそよいでくる。
パメラはベッドに横たわることもなく、ずっと窓の外を眺めていた。と言っても、見えるのは遠くの街の明かりと星空だけ。あとは漆黒の闇の中に沈んでしまっている。
城の一室に隔離されてから三日、パメラは他にすることもなく、息子デイビッドの安否ばかりを気にしていた。今のところ、ゴルバが何も言ってこないところを見ると無事なのだろうが、まだ十歳という年齢を考えると、降りかかった災難の大きさが不憫でならない。街を脱出できたのか、それともどこかに匿われているのか。夫のバルバロッサは普段からデイビッドに万一に備えての心構えを説いていたようだが、パメラはそれに加わることも出来ず、母親でありながらどこへどう逃げたのかも分からない状態だった。
だが、デイビッドに逃げる場所などあるのだろうか。王都に助けを求めても、セルモア自治の奪回を目論んでいる連中だけに、信用は置けないだろう。逆に、このゴルバの謀反を口実に攻めて来ないとも限らない。そうなれば、どっちに転ぼうともデイビッドの未来は閉ざされることになる。
以前より、夫バルバロッサは敵を作りすぎなのだとパメラは考えていた。王都の連中もそうだし、ゴルバたち実子に対してもそうだ。セルモアを完全独立させるというバルバロッサの夢は理解できるが、その手法は強引とも言え、性急に事を運びすぎたきらいがある。それが今回のようなことを招いたのではないか。
しかし、その一方でパメラ自身も責任を感じていた。この謀反の張本人がゴルバだからだ。
元々、パメラはゴルバと恋人同士であった。パメラはセルモアの近隣に小さな城を構えていた下級貴族の出身で、ゴルバとは幼少の頃より面識があり、たった二人で暮らしていた父も、将来はゴルバとの結婚を望んでいたようだ。その当時からバルバロッサの影響力はセルモア地方でも大きく、父がその権力の一部を欲したという見方が妥当ではあろうが。
だが、ゴルバの身体が謎の魔道士によって改造されたことにより、関係は見直された。いくら権力を欲していた父でも、娘を怪物じみた男に嫁がせようとは考えなかったのだ。
それでもパメラとゴルバはひそかに交際を続けていた。その数年間が二人にとって幸福な時間だったと言える。ゴルバを父の城に招き入れることは出来なかったが、パメラの方からは何度もセルモア領主の城へ出向いた。
やがて年頃の娘にまで成長したパメラが、好色なバルバロッサの目に止まった。バルバロッサが自分の妃にと、父に申し出たのは、それからすぐである。父は二つ返事で承諾した。バルバロッサとは親と子ほどに歳が離れていたが、父はその権力に魅了されており、ましてや怪物のような息子よりはマシを判断したに違いない。
もちろん、パメラが本当に愛していたのはゴルバで、その父親であるバルバロッサではない。ゴルバからバルバロッサに、パメラとの結婚は取りやめるよう言ってほしかった。
しかし、ゴルバは父親に何も言えなかった。彼の頭には、自分の身体のことが、まず浮かんだことだろう。もはや人間ではないゴルバとパメラが一緒になるよりは、バルバロッサの妃になった方が幸せになれると。
それでもパメラはバルバロッサに逆らってほしかった。自分を守ってほしかった。一番愛しているのは自分だと言ってほしかった。
だが、当時のゴルバにはバルバロッサに逆らう勇気はなかった。
パメラは悲嘆に暮れたが、父の説得とバルバロッサの執拗な求愛に、それを受諾する他なかった。父のためと言うのもある。また、ゴルバへの失望からというのも。
結婚後、ゴルバとは同じ領主の城に住んでいながら、顔を合わせることがなくなった。その気持ちは痛いほどに分かったが、同時にパメラを落胆させた。どうして私のために戦ってくれないのだろう、と。
そのうち、デイビッドを宿し、産まれる数日前に父が逝った。だから、余計に産まれてきたデイビッドが父の生まれ変わりのように思え、パメラは溺愛するようになった。我が子と日々を過ごすうちに、ゴルバとの関係は癒されていったのだが、その間にバルバロッサに対する劣等感は憎悪へと変じ、このような事態を招くとは夢にも思っていなかった。しかし──
パメラは思う。
なぜ、あのときにゴルバは戦ってくれなかったのか。
なぜ、今さら幸せを奪おうとするのか。
すべてはゴルバの復讐心が生み出したものだろうが、その原因はゴルバ自身にあるのではないか。
パメラはただ、デイビッドの無事を祈るしかない。
夜風が再び吹き込み、パメラの髪を軽くなびかせた。
と──
パメラは不意に人の気配を感じて振り返った。扉の外に、相変わらず見張りの兵が立ってはいるものの、当然ながら部屋にはパメラ一人。だが、パメラは確かに感じた気がした。
「クックックックッ……」
部屋のどこかからか、低い含み笑いが聞こえた。男のものだ。しかし、姿は見えない。
「誰?」
パメラは見張りの兵に気づかれぬよう、小さな声で誰何した。今のところ、敵か味方か分からない。
それにしても笑い声はどこから聞こえてきたのか。ベッドの下か。いや、もっと近く──それこそ耳元で囁かれたかのようだ。
「!」
不意に豊満な乳房を揉まれ、パメラは思わず声を上げそうになった。その口をどこからともなく伸びてきた手に塞がれる。
「オレだよ」
耳元で息がかかるくらいの距離で男が囁く。パメラが目だけを動かすと醜悪な顔が見えた。ソロだ。
奇怪なことに、ソロの首とパメラの口を塞ぐ左手は宙に浮かび、身体は存在しなかった。乳房を揉み続ける右手はパメラの寝間着の中から生えているかのようで、襟元から差し込まれているわけではない。そんな不気味なソロに愛撫され、パメラは恐怖に叫び声を上げかけた。
「おっと、騒ぐなよ。誰かに邪魔されたくねえ」
ソロはそう言うと、パメラの口と胸から手をどけた。そして、目の前に姿を現す。それはまるで、魔法のようだった。
そんなソロを見て、パメラは驚かずにいられなかった。
「い、一体、何がどうなっているの……?」
驚くパメラの表情は、ソロを愉快にさせた。
「オレの能力さ。空間の隙間に入り込み、自由に移動できるっていうな。だから、手や首だけを出すなんていう、先程のような芸当が可能なのさ」
そう言って、ソロは右腕を肘の辺りまで消して見せた。実際は消えたと見えている部分が空間の隙間に潜り込んでいるわけだが。
「いつの間にそんな力を……」
過去にゴルバと付き合っていたパメラは、その弟たちが持つ能力についても知っていた。ゴルバから聞いていたソロの能力は、地中に潜り、馬よりも速く移動するというものだったはずだ。このような空間にも潜り込めるとは聞いていない。
「新しく身につけたのさ」
ソロは得意げに笑った。
パメラは不思議に思った。剣術や魔法ならばともかく、こんな特殊能力を自然に身につけられるものだろうか。何やらその背後には黒い影を感じさせる。
「どうやって?」
パメラは思わず尋ねてみた。嫌な予感がする。
「それは──」
ソロは答えようとして、言葉を途切れさせた。頭痛でもするのか、突然、顔をしかめる。それはすぐに大きな痛みとなり、ソロは頭を抱えるようにして呻き始めた。
「オレは……オレは……」
ソロは必死に思い出そうとしているのだろうが、激しい頭痛に苛まれているようだ。
そのとき、パメラは見た。ソロの額に明滅する赤い光を。