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「いいかい、チック! タック! もし、夕べのあたいたちの居場所をカシオスはもちろん、他の誰かに喋ったら、あんたらの命はないからね。よく憶えておくんだよ」
「だだだ、だから分かってるって!」
「誰にも言わないよ、姐さん!」
元々、臆病なホビットたちは、サリーレの脅しに震え上がった。だが、どこまで黙っていられるかは怪しいものだ。いずれはカシオスの耳に入るかも知れない。そのとき、カシオスはどうするだろうか。
それは昨夜も考えたことだった。サリーレにとって、カシオスは絶対的な存在である。それはマインのせいで揺らぎつつあるが、根本的なところでは変わらないつもりだ。しかし、カシオスはどうなのだろう。サリーレのことをどう思っているのか。カシオスはサリーレを初めて認めてくれた男だ。カシオスを信じたい。それは願いでもあった。だが──
サリーレの背信をカシオスは許すだろうか。許されなければ、カシオスはサリーレを殺すかも知れない。そうなったら、マインの言うとおり、殺られる前に殺らなければならないのか。
逆に許された場合はどうか。許されると言うことは、カシオスがサリーレに対して、その程度の女だと以前から思っていたことにならないか。サリーレがカシオスに抱いている不安。カシオスにとって、特別な存在ではないと証明されたとき、これまでのサリーレは一挙に崩壊してしまう。
「それよりも忍び込んだヤツなんだけど──」
いつの間にか思索していたサリーレは、チックの言葉に現実へ引き戻された。タックもうんうんとうなずく。
「ゴルバ様が一人、仕留めたんだ! そいつ、誰だったと思う?」
「驚きだよ!」
「そう驚きさ!」
「あの教会の──」
「神父!」
「教会の神父?」
そう言われて、すぐにサリーレの脳裏に髭面の男が浮かんだ。
この街へやって来たときに、酒場の前でマインと一悶着あった男だ。その後、デイビッドを連れ去るために教会へ夜襲をかけたときも一戦交えている。だが、服装こそ神父のものであったが、性格的には聖職者よりもならず者と言った感じの男だった。
その神父が何故、領主の城に忍び込んだのだろうか。ゴルバやカシオスの暗殺か。それとも他に目的があったのか。今ひとつ動機が分かりにくかった。
だが、その神父が死んだことは、連中にとっても痛手だろう。あのウィルという吟遊詩人を除けば、戦士の技量は相当なものだった。マインの話では、デイビッドはミスリル銀鉱山にあるドワーフの集落にいるということだが、ノルノイ砦の騎士団も加えた今なら、一気呵成に攻め込むこともできるかも知れない。
カシオスは逃げた侵入者たちを追いかけたと言う。おそらくは敵の隠れ家を特定するためだろう。これはカシオスと今後のことを話し合う必要があった。
「で、カシオスは戻っているのかい?」
サリーレはチックとタックに尋ねた。二人は顔を見合わせる。
「さあ」
「さあ」
「少なくともオレたちは見てない」
「うんうん、見てない」
「戻ってきたかも知れないし」
「戻ってきていないかも知れない」
「分からない」
「うん、分からない」
二人の掛け合いに最後まで付き合っている暇はなかった。サリーレは踵を返し、城の方へと戻る。
だが、途中まで行きかけて、最後にチックとタックに念を押しておく。
「いいね、さっきのこと、本当に誰にも喋るんじゃないよ!」
「了解です、姐さん!」
「信じてください、姐さん!」
二人の返事を聞き終えると、サリーレはカシオスの部屋へと向かった。
城の中は、まだ眠りについていた。死んだような静けさだけが空間を寒々と埋めている。中庭から忍び込んでくる朝靄が足下を隠しているせいか、まるで雲海の上を歩いているかのようだ。
廊下でも階段でも誰とも出くわさず、サリーレはカシオスの部屋の前まで辿り着いた。一拍、立ち止まって身を正す。
「入れ」
部屋のドアをノックすると、ほどなくして返事が返ってきた。どうやらカシオスはいるようだ。
サリーレは少し緊張の面持ちでドアを開けて、室内に入った。
「サリーレか」
カシオスは一昨晩に看病したときと同じように、全身包帯姿のままベッドに横になっていた。まさか昨日、表に姿を現したカシオスが髪の毛で仕立て上げた分身だったとは、さすがのサリーレも知る由もない。
ベッドに寝ているカシオスは、少しぐったりとしているようだ。サリーレは体調がすぐれないのではないかと心配した。
「大丈夫、カシオス?」
サリーレはそばまで行って、カシオスの髪を掻き上げ、頬に触った。その手首をカシオスにつかまれる。思いの外、力が込められていて、サリーレはドキリとした。
「まだ火傷の痕が痛む……」
「包帯、取り替える?」
「……そうだな」
カシオスは上半身を起こそうとした。それをサリーレが補助してやる。
サリーレは顔の包帯から取り替えようと手を伸ばしたが、カシオスはそれを押しとどめた。
「顔はいい。身体の方を頼む」
「分かったわ」
サリーレはカシオスの身体に巻かれた包帯をほどき始めた。
ウィルの火球呪文<ファイヤー・ボール>をレジストしたとは言え、普通の人間ならば死んでいてもおかしくない重度の火傷をカシオスは負っていた。肌に直接触れていた包帯を剥ぎ取ると、膿んだ皮膚がこそげて血を滲ませる。部屋はカーテンを引いて薄暗くしているが、そんな中でも見るだけで痛々しい。当のカシオスにしたって皮膚が剥がれているのだから激痛を感じているはずだ。しかし、カシオスは苦行僧でも感服する忍耐力で、微動だもせずに包帯が取り除かれるのを待っていた。
やがて顔以外のすべての包帯が外されると、今度は真新しい包帯を巻き始めた。ケロイド状になったカシオスの身体をずっと眺めているのは堪えられない。サリーレは伏せ目がちにして処置をした。
「すまんな」
ようやく包帯を取り替え終えると、カシオスが感謝の言葉を漏らした。それを聞いただけで、サリーレは涙がこぼれそうになる。やはりサリーレには、カシオスしかいないのだと思い直す。
「ところでデイビッドの居所、突き止めたぞ」
「やはりドワーフの集落?」
「ああ。ヤツらはそれで守りが万全のつもりなのだろうが、こちらにはいい口実となる」
「どのような?」
「つまり、ドワーフの連中がデイビッドを連れ去ったということだ。これで我々はドワーフたちと戦う名目が出来た。どのみち、ミスリル銀鉱山を押さえるつもりだったのだ。これでデイビッドとミスリル銀鉱山が手に入れば一石二鳥。これまで武力に訴えなかったのは、街の住民たちに不安を感じさせないためだった。だが、ドワーフたちに非があるとなれば、街の住民たちも我々に同調する」
「うまくいきそうね」
「いや、一つ問題がある」
「?」
カシオスは再び、ベッドに横たわった。そして大きく息をついたのは、ため息だったろうか。
「あの男を何とかせねばな……」
カシオスの言う「あの男」に、サリーレは心当たりがあった。と言うより、カシオスほどが恐れる男は、この世に一人しかいない。
それは吟遊詩人ウィルに相違なかった。