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「キャーッ!」
その醜悪な形相の迫力もあり、アイナは悲鳴を上げた。
それはキーツにしても同じである。悲鳴こそ、アイナの手前、堪えていたが、空中に浮かぶ顔と手に怯えた。傭兵として勇敢に戦ってきたキーツではあるが、それも人間相手での話。このようにホラーじみたものには免疫がない。
そんな二人の様子に、ソロは満足そうだった。
「驚いたか? オレが潜れるのは地面だけじゃねえのさ。空間にも潜り込め、こうして身体の一部だけを出すことも可能だ。もう、どこにも逃げられねえ。諦めな」
ソロはそう言うと、手をアイナの方へと伸ばした。アイナはその手を払いのけようとしたが、ソロの手はうまくかいくぐり、アイナの胸を鷲掴みにする。そのおぞましさに、アイナは再び悲鳴を上げた。
「や、やめろ!」
キーツは勇気を振り絞って、《幻惑の剣》を手にし、立ち上がった。奇怪な術を使うソロに対し、恐怖心でいっぱいであったが、アイナを救いたい一心で立ち向かう。
ソロは下卑た笑いを響かせた。
「どれ、オレを斬ることが出来るかな?」
手はアイナの胸を揉み続けながら、挑発するソロ。
キーツは《幻惑の剣》を一閃させた。
「おおっと!?」
キーツをからかうほど、ソロには余裕があった。
キーツの攻撃は、ソロの身体があるはずの場所を狙ったが、何の手応えもなく剣は素通りしてしまった。キーツは顔色を失う。
「頭の悪いヤツだな。オレの身体は別の空間に存在しているんだ。こちら側から斬れるわけがない。狙うなら、今出ているオレの顔か手を狙いな」
「くっ!」
キーツは苦々しい表情を作りながらも、言われたとおり、今度はソロの顔面を狙った。だが、ソロの顔は剣が到達する前に忽然と消え、空振りになってしまう。キーツは慌てて、周囲を捜した。
「惜しいねえ。なかなかない、チャンスだったのに」
ソロは明らかに、キーツとアイナをいたぶって殺すつもりだった。それがソロにとって、無上の喜びとなるのだ。
「今度はこちらからいかせてもらうぜ」
キーツは身構えた。
しかし、パンチは突然、眼前に現れた。それに驚いている暇もない。今度は腹部に連打。身体を二つに折ったところで、また顔面だ。キーツは苦し紛れに剣を振るったが、空間に隠れているソロに当たるはずもない。しかも、ソロからのパンチは、キーツの間合いよりも明らかに近いところから繰り出され、防ぎようがない。キーツは完全に打ちのめされ、地面に倒れた。
「キーツ!」
アイナの悲痛な声が響く。だが、起きあがることなど出来はしない。
ソロの手は再びアイナの肉体を這い回った。
「素手でなく、武器を使っていれば、お前など簡単に殺すことができたんだが、そこで、この女が犯される様を見るがいい。女を散々、犯してから、二人まとめて殺してやるよ」
ソロは残忍さを露わにそう言うと、アイナを嬲り始めた。アイナは抵抗するように身をくねらせるが、まったく効果がない。どこへ逃げようにも手がついてくるのだ。やがてソロの顔もアイナの首筋に近づき、舌で舐めあげていく。アイナはおぞましさに震えながら、目を閉じた。
ソロの舌は首筋から顎、そして唇へと近づいていく。
アイナは涙をこぼしそうになった。
その刹那である。
「ぐえええっ!」
ソロが苦鳴をあげ、アイナの肉体から離れた。何か、激痛にもがき苦しんでいるかのようだ。そのせいなのか、ソロは全身を現した。そして、その場でのたうち回る。
そこに近づく足音が一つ。アイナが視線を上げると、一人の男が闇の中から忽然と現れたように見えた。
「ランバート……」
それは魔導士の真っ黒いローブに身を包んだシュナイトだった。手には光を放つ赤い宝石のようなものを持ち、それをソロの方へ向けている。そのソロはと見てみれば、額から同じように赤い光が。まるでシュナイトが持つ宝石に反応しているようだった。
「ソロ、手出しは無用だ。引け」
「しゅ、シュナイト兄ィ……ど、どうして……」
「どうしても、だ。オレに逆らう気か?」
シュナイトは、さらに宝石をソロに近づけた。ソロは発狂しそうなくらいの苦しみ方をし、手足をバタつかせ、頭がもげるかというくらいに振る。それはソロの上げる悲鳴を聞いているアイナも耳を塞ぎたいくらいだった。
「わ、分かった……分かったから、やめてくれ、兄ィ……」
「城に戻るか?」
「戻る……戻るよ!」
シュナイトはようやく、赤い宝石をソロに向けるのはやめ、懐にしまった。
激痛から開放されたソロは息荒く、その場でしばらく身動きできなかったが、ようやくよろよろと立ち上がった。そして、大人しく斜面を登り始める。
だが、シュナイトを振り返るソロの眼は、憎悪に燃えていた。腹違いの兄に向ける眼ではない。シュナイトもそれを認めたはずだが、何も言わなかった。ただ、隙を見せずに、ソロを見送る。
やがて、その場にはアイナとキーツ、そしてシュナイトの三人だけになった。
「二年ぶりね、ランバート……」
傷ついたキーツを助け起こしながらも、アイナは青年の名を呼んだ。だが、シュナイトは別人だとでも言いたげに、背を見せた。
「ランバートという名は知らない……。オレはシュナイト。領主バルバロッサの息子だ」
「シュナイトでもいい。でも、私にとっては、あなたはランバート以外の誰でもないわ」
「……この次、会ったときは、見逃しはしない。ソロに何をされていようともな」
「ランバート……」
アイナはシュナイトの背中に、今すぐにでもすがりつきたかった。そして、一緒に故郷へ帰って欲しいと言いたかった。一緒に帰れるならば、デイビッドやウィルのこと全てを投げ捨ててもいい。本気でそう思った。しかし──
アイナに抱き起こされているキーツが、強く手首を握ってきた。派手に殴られたせいで言葉を喋ることは難しそうだ。それでもアイナを引き止めようとしている。そして、必要としている。
アイナもキーツの手を握り返した。
シュナイトは黙って、その場を立ち去ろうとしていた。だが、二、三歩進んだところで、足が止まる。それどころか、胸を押さえて苦しみだした。
「ランバート?」
アイナはどこか具合が悪いのかと心配になった。
しかし、シュナイトはすぐに姿勢を正し、歩き始めた。
「ランバートという男のことは忘れろ……いいな、アイナ」
シュナイトの後ろ姿を見送りながら、アイナはむせび泣いた。自分の名前を呼んでくれるのは、これが最後になるかも知れない。そんな予感がして、悲しかった。
シュナイトは自室として使っている地下室に戻ると、着ていたローブを脱ぎ捨てるようにして、裸になった。そして、床に四つん這いになる。
胸の痛みは、ずっと続いていた。全身が燃えるようだ。シュナイトは歯を食いしばって、痛みに耐えた。
そのシュナイトの胸が、まるで虫が這いずるように蠢いた。それがおさまると、今度は形らしき物を作り出す。それは人の顔らしかった。皺を深く刻んだ老人の顔。
シュナイトの胸に出来た老人の顔は、なんと目を開いた。そして、喋り始める。
「すっかりこの肉体はオレの物になったと思っていたが、まだ、ここまで動かせるとはな……。正直、驚いたよ」
老人は誰に語っているのか。地下室にはシュナイトしかいないのに。
「こ、この肉体は私の肉体だ……そう簡単に……貴様に乗っ取られるわけにはいかない……」
今度はシュナイト本人の口から言葉が漏れる。しかし、苦しいのか、絞り出すような声だ。
「か、彼女には手を出すな……そんなことをすれば、この肉体ごと、お前を滅ぼす……」
「くっくっく、お前にそんなことが出来るかな?
オレとお前は一心同体。オレを殺そうとすれば、お前も死ぬのだぞ?」
「そ、それがどうした……どうせ、私の自由にならない肉体だ……すでに私は死んでいるも同然……今さら死を恐れるなど……」
「自分でも分かっているではないか。その通り。この肉体は、すでにお前のものではない。オレのものだ。昔の持ち主は口出ししないでもらおう」
「くっ……ううっ……うわあああああああああっ!」
シュナイトは絶叫した。身をそらせ、頭をかきむしる。まるで断末魔のようだった。
それは長く、地下室に響いた。
その絶叫を階上で聞いた兵士たちは身震いしていたに違いない。
やがて、絶叫がおさまると同時に、胸に現れていた老人の顔も消えていた。
シュナイトは肩で息を弾ませながら、ゆっくりと立ち上がった。その表情には、いつもの邪悪さが戻っている。
「思わぬ邪魔が入ったが、もうオレを止めることはできないぞ。オレはこれから《神々の遺産》を復活させるのだからな!」