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昨日の嵐が嘘のように去り、さわやかな青空が天高く冴え渡っていた。
セルモアの街の全景を逆さまに写しだしている巨大な湖──ラ・ソラディアータ湖──通称《取り残された湖》の湖面は、普段通りの穏やかさを取り戻し、どこかに避難していた水鳥がエサとなる魚をついばんでいる。その上空には大きな鳶が弧を描きながら飛んでおり、優しい風が草木を撫でていた。
湖岸に沿って伸びた道は大量の雨水を含んでぬかるんでいたが、湖の波打ち際を歩いていると思えばどうということはない。現にここを通らねば、セルモアの街に行くことも去ることも出来ないのだ。
アイナもそんなすがすがしい湖畔を歩きながら楽しんでいた。
何より目が覚めるような真っ青な湖水は、遠く旅してきたアイナにとって初めて見る絶景であった。その大きさもさることながら、水深も相当なものだと思われる。この《取り残された湖》の伝説を、昨夜、泊まった宿屋で聞いているせいもあって、神秘的なもののようにも感じられた。
その伝説とは──
遙かなる昔、まだ地上に多くの魔法都市が繁栄を遂げていた時代。ここセルモアにも大きな魔法都市が存在していた。
現在と同じように、多くのミスリル銀を有していたこの土地は、魔術師たちにとって重要なポイントとなっていた。ミスリル銀は普通の銀に比べ、軽く、硬いという特徴の他に、魔力を宿す金属と知られ、様々なマジック・アイテムの原材料として使われるからだ。魔術師の減った現在は、マジック・アイテムよりも武具や装飾品に使用されることが多く、希少金属としての価値は、オリハルコン、クレリア、アダマンタイトなどに次いで高い。
だが、そんな宝の山とも言えるミスリル銀鉱を見捨てなければならない事態が起こった。
大変動。
その原因は定かにされていないが、大地はひび割れ、山は業火を噴き上げ、海は荒れ狂ったと言う伝説の天変地異。
魔術師たちは、その大変動を回避するため、魔法都市そのものを大地から切り離し、天空へと浮かべる大事業に取り組んだ。その甲斐あって、大変動の災厄から逃れることが出来たが、地上が平穏を取り戻すまで、何百年と天空をさまようことになったという。そのうち──ここからは推測の域を出ないのだが──地上に帰る術を失った魔術師たちは、故郷の大地に恋い焦がれながら、今もその末裔が天空高く住まうというのが伝説である。これはネフロン大陸の各地に天空人の伝説として、数多く言い伝えられていた。
ここセルモアに残っている伝説もその一つだ。天空に舞い上がった魔法都市の跡が、今、アイナが目にしているラ・ソラディアータ湖だと言われ、そこから《取り残された湖》という俗称がつけられたらしい。
アイナは、そんな何百年も何千年も前の魔法都市に想いをはせながら、セルモアへの道を一歩一歩踏みしめていった。
本当ならば、昨夕のうちにセルモアの街へ到着するはずだった。だが、手前の宿場町に差し掛かったときに天候の不穏を読みとり、自重したのが幸いした。案の定の嵐。あのまま進んでいれば、セルモアの街の手前で嵐に見舞われていたことだろう。多少の風雨ならばともかく、昨夜の嵐は尋常ではなかった。途中で一歩も進むことがままならず、下手をしたら土砂崩れや増水などの災害に巻き込まれていた可能性だってある。
翌朝、判断良く嵐をやり過ごしたアイナは、今、こうしてセルモアの街へと向かっている。いよいよ旅の目的地が見えてきたこともあり、自然にその足も速くなりがちであった。顔を上気させ、息が弾んでくる。思わず一人で笑ってしまった。
もう、すぐそこなのだ。今から慌ててもしょうがない。
そう自分に言い聞かせると、アイナは速度をゆるめた。すると今度は、汗を吸った木綿の衣類が身体を冷やし始めた。まだ日も昇りきらないうちから出発し、今まで歩きづめだったのである。目的地は目の前だが、休息も必要だと思われた。
なにより、ここは美しい湖畔という絶好のロケーションである。じっくりと楽しんでおいても損はない。
アイナは湖岸に人間の倍はあるかという大きな岩があるのを見つけると、そこで休息を取ることに決めた。
道から岩を陰にして、アイナは背負っていた荷物を降ろし、マントを脱いだ。そこから現れた左腕には、なんとクロスボウが装着されていた。護身用なのだろう。何より変わっているのは、そのクロスボウが手に持つタイプではなく、まるで手甲のように腕にはめるタイプであったことだ。クロスボウの弓の部分は折り畳むことが可能で、普段は邪魔にならず、いざというときはワンタッチで弓を張ることが出来る仕組みになっていた。
アイナはクロスボウを岩肌に立てかけ、腰にぶら下げていた鉄の矢が入った筒をベルトごと外した。そして、上着と肌着を一緒に脱ぐ。
若く白い肌と形の良い乳房が露出した。きらめく湖面の反射を背景にすると、まるで一枚の絵画のような美しさである。藍色がかった髪を掻き上げる仕草も初々しさの中に色気があり、世の男どもを垂涎させるのは間違いないだろうと思われた。