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[第一章/−−5−]



吟遊詩人ウィル・神々の遺産

第一章 湖岸の吟遊詩人(5)


「キーツ、何とかしてよ!」
 アイナが小声で言う。
「なんだと?」
 キーツも小声で返した。いつ、鋭く尖った矛先が向かってくるか分からない。
「さっき、腕に自信があるって言ってたでしょ!」
「あのなぁ、今のオレの状況を考えてから言ってくれよな」
 今、キーツの両腕は、少年を抱えているために塞がっている。剣を抜く前にお釈迦だ。
「この役立たず!」
「第一、この事態はアンタが招いたんじゃねーか!」
「まったく、男らしい潔さがないわねえ!」
「そういう問題か?」
「文句あるってーの?」
「仲間割れはその辺にしてもらおうか」
 いくら小声でも、この距離では話の内容が筒抜けだ。
 アイナは左腕に仕込んだクロスボウで応戦しようかと考えたが、相手は五人。こちらが一人を仕留めているうちに串刺しにされるのは必至だ。
 絶体絶命。
 そのとき──
 弦の響きが聞こえてきた。心地よい旋律。命のやりとりも一瞬忘れ、この美しい湖畔にふさわしいメロディーに恍惚となった。誰も彼もが。
 アイナは音色の主を見た。
 ああ、それは──。
 それは幻。
 それは影。
 その美しさ。
 そして、その華麗さ。
 この世に存在し得ないもの。
 この世に存在し得ない人。
 神こそ一番の罪人なのかも知れない。このような魔性のごときものを産み落として。
 誰もが言葉を失った。
 誰もが息をするのも忘れた。
 黒い旅帽子<トラベラーズ・ハット>に黒いマント姿という、全身がまるで影そのもののような一人の男が、ゆっくりと、そして優雅とも言える足取りで、先程、アイナたちがやって来た方向より近づいてきた。手には銀色に輝く竪琴。美しき音色の正体はそれだったのだが、今はその弾き手の方に注目が集まっていた。
 一口に絶世の美男子と評しても不足だが、他に表現が浮かばないほどの美麗さであった。いや、美男子とアイナは判断したが、その人間離れした容貌に、性別などすでに用をなさず、ただただ心奪われるばかりである。
 それでも一番早くに我に返ったアイナは大したものだった。この隙に、キーツの腕から男たちがデイビッドと呼んだ少年を引き取ると、あっさりとセルモアの兵たちの包囲を抜けて、黒き麗人の方へと走った。それでようやく、キーツやセルモアの兵たちの金縛りが解ける。
「ま、待て! 女!」
 リーダーらしき男は威嚇しようと、手にしていた長槍<ロング・スピア>を投擲した。その長槍<ロング・スピア>はアイナの脇をかすめ、銀の竪琴を奏でていた男の足下まで到達する。男の歩みが止まり、曲が途切れた。
「この子を頼みます」
 アイナはデイビッドを男に預け、クロスボウで応戦するつもりだった。一人、包囲の輪に取り残されたキーツが巻き添えになるかも知れないが、彼も自称、腕利きの傭兵。うまく立ち回ってくれることを祈るだけだ。半分は薄情者など知ったこっちゃないというのもあるが。
 だが、銀の竪琴を手にした黒き麗人は、差し出されたデイビッドはもちろん、アイナも素通りして、その二人の楯となるかのように立ち止まった。
 セルモアの兵たちに、それは抵抗の意志ありと映った。リーダーの男などは、長槍<ロング・スピア>を投げてしまったので、腰の長剣<ロング・ソード>を抜刀する。
「邪魔だてするつもりなら、貴様も容赦しないぞ!」
 その登場に気後れしていた兵たちだったが、ようやく本来の調子を取り戻しつつあった。
 対する黒き麗人は──
「聴いてみるか、私の曲を」
 これ以上ない場違いなセリフを吐き、再び銀の竪琴に白く長い指を走らせた。
 ヴォォォォォン!
 だが、今度奏でられた曲は、とても曲には思えなかった。まるで素人がデタラメに奏でているようだ。いや、デタラメでもこのように弾けるものなのか。そう思えるほどに、一種、異様な曲だった。
 それを耳にした兵士たちも、笑い飛ばすよりは戸惑いの表情を見せていた。竪琴の弾き手が何を意図しているのか分からない。
 しかし、効果は別のところで即座に現れた。
 兵たちを乗せていた馬たちが、そわそわと動き出したかと思うと、いきなり尻っぱねを始めたのだ。それも一頭だけではない。五頭全馬がだ。
「どう! どうどう!」
 効果はデイビッドを発見させた仔犬にも現れていた。地面に転がるようにして苦しがっている。
 動物たちの異変に、その場にいたものは全員、驚愕を隠せなかった。特にパニックに陥ったのがセルモアの兵たちで、馬から落ちないようにしがみつくのに精一杯であった。
 やがて、苦しみに耐えられなくなった馬は、セルモア方面に逃走を始めた。兵たちは必死にコントロールしようとしたが無駄に終わり、結果的には無様な退散せざるを得なくなった。
 そこでようやく、黒き麗人は奇妙な演奏をやめた。すると苦しがっていた仔犬もケロッと良くなり、尻尾を振り始める。そんな仔犬に詫びるように、黒き演奏者は頭を優しく撫でてやるのだった。
 そんな謎の男を、アイナは茫然と見つめていた。
 この人は一体……?
「あなたは……」
 そこまで尋ねるだけで精一杯だった。アイナは男の顔を直視してしまったのだ。それは見つめられるだけで、魂を抜かれるような衝撃だった。
 男は静かに名乗った。
「オレはウィル。吟遊詩人のウィルだ」
 と。


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