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セルモアの日没は早い。《取り残された湖》がある南側以外は、岩山が取り囲むようにそびえているからだ。
昼間、その清廉さを誇るように蒼さをたたえていた湖面は今、夕陽に赤く染まっている。その反射を浴びた街も同様で、外を歩く者は眩しさに目を細めねばならなかった。
そのセルモアの東の外れに、《魔銀の墓場》と呼ばれる場所があった。墓場と名がつく通り、セルモアで一生を終えた者が眠る唯一の墓地だ。《魔銀》とは、この街で産出されるミスリル銀のことで、魔力を宿す銀であるという意味と、その希少価値から富を得ようと魅入られる魔性の意味も込められている。実際、この墓地には生まれながらの街の者よりも、一攫千金を夢見て流れてきた余所者たちの方が多く葬られていた。一昔前までは無秩序な発掘がたたって、鉱山での落盤事故が多く、身元も定かでない余所者を街の者が一緒の墓地に埋葬したのだ。もちろん、死体すら掘り出せずに、墓の下には遺品だけが埋められていることも少なくない。現在はバルバロッサが安全な発掘計画を確立したお陰で、ドワーフたちを中心に推進させているので大きな事故はなく、それに伴い、墓の増加率も減少していた。
その《魔銀の墓場》に今、二つの影があった。夕刻なので、影は長く伸びているはずだったが、一方の影は不自然なくらい短い。その差はもうひとつの長い影と比べると歴然としていた。
長い影の主はカシオス。バルバロッサの第三子にして、長い髪を自在に操る山賊の頭目。
短い影の主はソロ。バルバロッサの第四子にして、地中に潜って敵を仕留める暗殺者。
二人は人質の交換に際して、先乗りしていたのだ。
彼らの手中にはキャロルが。
そして、吟遊詩人のウィルたちには、セルモアの正当なる後継者であるデイビッドが。
厳密に言えば、デイビッドは人質にされているのではなく保護されているわけだが、だからと言ってウィルたちがキャロルを見殺しにもできるはずがなかった。今度こそデイビッドを奪回しなければならない。それには手段を選んでいる場合ではなかった。
待ち伏せる側としては、あらかじめ墓地にサリーレたちを配置しておくこともできたが、要求通りアイナが来るならカシオスとソロで事足りたし、もし要求を無視してウィルが来た場合は、サリーレたちで人数を増やしても犠牲者を増やすだけだ。それにソロは昨夜の襲撃にあまり参加できず、フラストレーションがたまっていた。
「兄者、来たか?」
待つことなど、この男にとっては身体に受ける傷よりも苦痛なのだろう。ソロがイライラした口調を隠しもせずに兄のカシオスに尋ねた。
だが、カシオスは目をつむったまま、首を横に振った。
「この墓場にいるのはオレとお前、そして人質の娘だけだ。まだ、オレの髪が感知していない」
カシオスは今、自らの髪を四方八方へ伸ばし、意識を集中させていた。その髪はまるでクモの巣のように、近づく者が触れればすぐにカシオスに知れる仕組みになっている。常人の知覚範囲などたかが知れているが、今のカシオスには《魔銀の墓場》全てを把握できているのだ。
「しかし、あの吟遊詩人、どんな手で来るか分からねえぜ。何しろ、ヤツは魔法が使えるんだからな」
ソロも油断なく目を光らせる。それは正しい見解だ。
「一応、デイビッドを連れてくるのは女一人にしろと指定してはあるが、確かにあの魔術師が何か策を弄してくるかも知れない。だが、たとえ空を飛んでこようと、空中にもオレの髪は張り巡らせてある。また、《千里眼》でオレたちの位置を確認し、《瞬間移動》という手もあるだろうが、その魔法は正確な位置に現れるのは困難だと聞く。とにかくヤツがここへ現れたら取り引きは反古だ。容赦なく人質の娘の首を切り落とす」
すでにカシオスはキャロルの首に、自分の髪の毛を巻きつけていた。いつでも処刑を実行できた。
「クックックッ、少し惜しい気もするな、あの娘。あと数年したら美しい女になったろうに」
ソロが好色さを隠そうともせずに、下卑た笑いを漏らした。
そんな弟を見ていると、カシオスは吐き気がしてくる。腹違いの弟とは言え、血がつながっているのも事実だ。そう考えるとおぞましい。
元々、ソロの容姿は生まれたときから醜かった。それは魔導士から異形の能力を植え付けられる前からであり、父バルバロッサも即座に殺してしまおうかと考えたと聞く。ソロを産んだ母親は、なかなかの美人だったそうだが、生まれた我が子を見て言葉を失い、発狂の後に自殺したらしい。だから、ソロは何かにつけては疎まれ、蔑まれ、子供として受けるべき愛情どころか、人間としての尊厳すら無視され続けてきた。
そんな育てられ方をした人間が、真っ当な精神でいられるわけがない。すぐにソロは狂気を宿した。全てを憎悪した。産んだ母親も、冷酷な父も、怯える兄たちも。
だから、ゴルバ、シュナイト、カシオス、ソロの四人が人体改造を受けたときも、一番、平然としていたのはソロだ。彼には失うものがすでになかったのだ。むしろ、植え付けられた異形の力を喜びさえした。
カシオスも今では異形の力を駆使して自分を顕示することにためらいを感じなくなっているが、そうなるまでには十年近くを要した。だが、ソロは異形の力を最初から行使した。それこそ生まれて初めて味わう、人とは違う能力を持ったという優越感。ソロの狂気はより危険なものに膨らんだ。
父バルバロッサもそれを苦慮したのだろう。ソロを危険分子扱いし、殺そうとした。ソロは間一髪、セルモアから逃げ出したが、今も憎悪の炎は心の奥底で燃え続けているに違いない。
そんな弟のソロまで呼び戻した兄ゴルバを、カシオスは理解し難かった。確かに、戦力としての計算は成り立つだろう。暗殺者ギルドで腕利きとして鳴らしていたと聞く。しかし、父はもちろん、兄たちですら憎んでいると思われるソロを仲間に加えては、いつ寝首をかかれないとも限らない。もちろん、カシオスもゴルバも簡単には殺られないだけの力を持っていた。万が一の場合は、こちらがソロを殺るだけの話だが。
「せっかくの人質だ。デイビッドと交換するまで、楽しんでも損はないだろう」
ソロはいいことを思いついたという風に、にやりと笑った。戦えないストレスをいたいけな少女をいたぶることによって発散させようと言うのだ。
それを聞き咎めて、カシオスは目を開いた。
「何をするつもりだ?」
「決まっている。あの小娘に女の悦びを教えてやるのさ! 男を知らないまま殺してしまうのも可哀相だからな!」
鬼畜のごときソロの言葉に、カシオスは嫌悪を露わにした。まだ幼さの残る少女を犯そうというのだ。尋常な精神では考えられない。
「持ち場を離れるな」
「なに、すぐに済ませるって」
「行くなと言っている」
ビィン!
一瞬、空気が震えるように鳴った。次の刹那には、ソロが両手を首にかけ、苦しそうにもがき始める。
「あ、兄者!?」
それはカシオスの仕業だった。弟の首に自らの髪の毛一本を巻きつけたのだ。
「勝手なマネをするな、ソロ。いつ、ヤツらが来るか分からないのだぞ。人質と戯れている暇などない」
苦しむソロは背負っていた大きな半月刀をつかむと、自分の首を絞めるカシオスの髪の毛を断ち切ろうと振り回した。だが、目に見えない髪の毛を切ることは出来なかった。おそらくはソロとカシオスの間に張り渡されているはずなのだが、半月刀は髪の毛一本すら捉えられない。
「ムダだ、ソロ。お前にはオレの髪の毛が見えまい」
やがて顔面を紫色に染めたソロは、手に持つ半月刀を落とした。片膝もつく。
「た、助けてくれ、兄者……」
絞り出すように助けを請う声を聞き、カシオスはようやく髪の毛を緩めた。
ソロは咳き込みながら、荒く呼吸を繰り返した。
「今度、勝手な行動を取ろうとしたら、弟のお前でもオレは殺すぞ。分かったな、ソロ」
「はあはあ……ゲホッ! はあはあ……わ、分かったよ、兄者……」
首に巻きつけられた髪の毛を取らない限り、今後、ソロがカシオスに逆らうことは出来そうもなかった。しかも、その髪の毛はどんなにカシオスから離れようと伸び、いつでも命を奪うことが可能なのだ。大人しく服従するしかない。
カシオスは従順になった弟に一瞥を与えた後、再び周囲の警戒を怠らないよう意識を集中させた。
だが、その思考の片隅では、いつかソロに巻きつけた髪の毛を使うことになる時が来るかも知れないと考えていた。